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第十一話

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「お帰り、総ちゃん。お久しぶりの残念賞。俺だよ。良くもやってくれたな。お前だよ」

「また、お前かよ。いい加減その登場飽きたよ。しつこいよ。めんどくさいよ。お前はよ」

「さすが、俺だな。ここまでくると返しにも息が合ってくるもんだな?俺たち意外と気が合うんじゃないか?」

「いいよ。合わなくてっていうか。お前も相当な馬鹿だろ?」

「まっ、お前だからな。当然だよなぁ。ふはっ」もう、笑うのも億劫だ。

「なんだよ。どうせ、また文句を言うためにでてきたんだろ?」

「文句ってなんだよ。それじゃ、俺がいつも文句ばっかり言ってるみたいじゃないか」

「違うのかよ」

「あーあ。全く心の狭い奴に限って決まってそう言うことを言うんだよな」

「もう、なんだよ。構ってちゃんかよ。お前は…まったく」

「まぁ、今回ばっかりは、よくやったって言ったほうがいいんだろ?」

「なんか、微妙な言い回しだな。それ。まぁ、一応、礼を言っとくよ。俺の我侭を通してくれてありがとうな」

「いやいやぁ、礼には及ばんよ。決めたことは何を言っても聞かないのは俺が一番知ってるからな。さぁ、いよいよこれで、てめえのことに集中出来るわけだ?しっかりやれんのか?お前」

「え?それだけかよ。もっとなんか感想とかあるんじゃないの?」

「別にぃ。あっ何?先輩達のこととか聞いたほうがいいのか?どうなったんだろうな?あのふたりは?」

「ええ?そっちかよ。確かに俺が駅を出たときには、すでに近くには、いなかったみたいだけど…っていうか、そうじゃなくて、過去の俺たちについてだよ」

「俺、別に過去の俺たちについては、あんま興味ないんだよね。実は…。俺が気になるのはお前と今、そこで目を真っ赤にしている木綿子のことだけなんだなぁ。まっ、とにかくだ、俺は木綿子のこんな涙は見たくない。だから、お前がなんとかしろ?できんだろ?あんなことまでやってのけたんだから。しっかりケリをつけてこいよ。おれが言いたいのは、最初から、最後までこれだけなの。わかった?」

「わかった。大丈夫!ちゃんとできるから」

「よしっ。わかった。じゃ、開放してやる。へますんなよ」と言って奴は、ガラスの中から手を出して俺の背中を叩いて送り出した。



「あーそれっ、そのハンドタオル…昔、私同じ柄のやつ持ってた。なんか懐かしいっ」


 ああーいけねえ。ハンドタオル、いちるに返しちゃったよ。と思いながら自分の手元を確認すると…さすが気が利く娘だ。ちゃんと木綿子の時計と一緒に俺の手にハンドタオルは掴まれていた。


「そうだっけ?」と言いハンドタオルを広げて木綿子に見せる。

「そうそう、それ、私も持ってた。その柄すごく気に入ってたから覚えてる。でも、どこに行ったのかしら?きっと箪笥の中にしまいこんじゃったのかもね。帰ったらさがしてみよ」

「はい。綺麗になったよ」と言い、時計を見せる。そして木綿子はそっと左腕を俺の目の前に差し出す。俺はまた、木綿子の左手首に腕時計を付け直す。

「お帰り、時計くん」

「ただいま」俺も合せて言う。

「あれ?なんか変な感じ。さっきまでと何かが違う感じがする。総ちゃん。何かした?」

「いや、何もしてないけど…え?どんな感じなの?」

「うんとね…なんだろ…うまく言えないけど…時計じゃない感じ?誰かにやさしく握られてる感じっていうの?でも全然嫌な感じじゃなくて、むしろ心地いい感じ。そう、総ちゃんに握られてるみたいな感じなの」

「なんだろね」俺にはなんとなく、それの正体がわかる。きっとこれも、いちるだ…。

「うん。なんだか…心がほあほあって暖かくなる不思議な感じなの」

「木綿子の腕に戻れて時計が喜んでいるんだよ。きっと」

「そうかな?なかなか可愛い子だね。君は」と言って笑いながら時計を撫でる木綿子。



「デザートをお持ちしました」ウエイターが席にやってきて、小ぶりなお皿に綺麗に盛り付けられたデザートを用意してくれた。イタリア料理だからドルチェって言うんだっけ?俺の大好きな柑橘系の彩豊かなソースがかけられたクレームブリュレにジェラートが添えられた爽やかなデザートだった。


 冷たい食感と爽やかな甘酸っぱさは、まさに今の俺の気持ちを落ち着かせてくれる味だった。


「うわっ、美味しいっ。これ」木綿子も絶賛している。

「今日の料理すべて、とても美味しかったよ。さすが木綿だね。完璧なチョイスだったよ。みんな俺が大好きなものばかりで美味しかったよ。ありがとう」

「いえいえ、喜んでもらえてよかったよ。頑張って選んだかいがあるよ」

「うん。何から何までセッティングしてもらって本当にありがとう。今日は来て本当によかったよ」

「そりゃ、私が気合を入れて準備したんだから。喜んでもらわなきゃ」


 それからしばらくすると今度は、ウエイターがエスプレッソを用意してくれた。こちらもキレのある濃い目の味で締めくくりにふさわしいスッキリとした味わいだった。


「さてと…楽しいディナーのお時間もそろそろおしまいだね。ねえ、総ちゃん?あの公園、行ってみない?久しぶりに?」

「俺は全然、問題ないけど、木綿、時間大丈夫なの?」

「だいじょうぶぅ。今夜はみんなお母さんに頼んできたから、まだ平気なのだ」俺は、はっとした。それもそうだ。今、目の前でVサインをしている木綿子の仕草が、いちるのあの得意のポーズと完全に一致していたのだから当然だ。あーっもう!胸の鼓動が一気に急上昇してしまったじゃないか!


「じゃあ、行ってみようか?」

「うん。そうしよう、そうしよう!」木綿子もさっきまでの泣き顔が嘘のようにノリノリだった。


 俺たちは、ウエイターに御礼を言って店を後にした。駅へ引き返す時も、やっぱり先頭は木綿子で、俺は木綿子の少し後ろを歩く。時折振り返っては安心したように笑う木綿子。


「なんか、本当に懐かしいね。なんだろ…この感じ。安心する」

「うん。俺も」


 会話を弾ませるわけでもなく、ただただゆっくりと同じ距離感を保って夜の街を歩く。確かに今の俺は時間の感覚が少しおかしくなっているのはあるかも知れないけど。この一歩一歩が俺たちの時間を巻戻しているような、不思議な感覚に包まれながら、駅に向かって歩いていた。そんな時間が緩やかに過ぎていき、俺たちは再びあの駅まで戻ってきた。俺としてはついさっきまで、いちると一緒にあの二人を見守っていたあの駅だった。そこに今は木綿子とともにいる。


「総ちゃん。カード持ってる?」

「うん。大丈夫だよ」

「すぐに電車くるみたいだよ」木綿子は電光掲示板を確認している。


 俺は、反対側の例のポスターが貼られている壁を眺めていた。やっぱりまだやってる。あのイベント。今度、木綿子を誘ってみようか?いやいや、待てよ。今の俺には先にやらなくちゃいけないことがあるだろ…。


「おう…」と言って木綿子を追いかける。


 改札を抜けて…階段を昇りはじめる。


「ここに、総ちゃん、隠れてたんだ」

「そのとおりです…」

「まったくもう。ほんと無茶ばっかりする人なんだから」

「面目ない…」としょげる俺。

「よしっ。今日、これから総ちゃんのその思い出と私の思い出。みんな上書きしちゃお?」

「え?」

「その思い出を忘れちゃうくらいの楽しい思い出を作って上書きしちゃうんだよ。どう?」

「そんなことできるかな?」

「できるできる。総ちゃんなら、できないなら、前よりも無茶をしてでも上書きしちゃお」

「じゃあ、やってみようかな?でも、そんな事して木綿を困らせたりしない?」

「いいのいいの。私はね。今日、十分すぎる程いい思い出を作らせてもらってるし、私に大半の責任があるしね。協力します!とにかく、あの公園だね?」

「そういうことになるのかな?」


 木綿子の提案で、あの公園に行くことになり、思い出の上書きをすることになった俺たちは、ホームまで昇り電車を待っていた。よく、考えると俺自身は現時点でしっかりと思い出の上書きは出来ている気がするぞ。少なくとももうあの夜のことで、眠れなくなる夜はもうこない気がしている。それもこれも全部、あいつといちるのおかげなんだけどな…やっぱり、今の俺は、木綿子への気持ちにきっちりとケリをつけて、木綿子に伝えることでしかない気がしている。


 すぐに電車はやってきた。もうこの時間になると乗る人も降りる人もまばらになってきている。電車に乗ると二人で並んでドア近くの窓際に立った。俺は手すり側で木綿子はドア口側に立って俺の袖をそっと掴んでいる。


 公園のある駅まではほぼ無言であっという間に到着した。言葉を交わすことがなくてもなんとも心地よい時間が過ぎていった。

 あの夜とは逆行するように商店街を二人だけで歩く。今日もまた、開いている店はすでに少ない。商店街を抜けると木々が少しずつ増えていき、公園の中の街灯だけが点々とほあんとした明かりを灯している。


「いやぁ、懐かしいね。この公園。昔、よく遊んだね」

「確かに、みんなでしょっちゅう集まっては、大騒ぎしてたよな」

「そうそう、くさや事件とかね。あれはさすがにやりすぎだったよね」

「あれはすごかったよ。臭いやばかったもん。そりゃ警察に追いかけられるよな」


 俺たちは、ゆっくりと歩きながら昔話に花を咲かせていた。そのうちに、例の大きな池のところまでやってきた。


「ねえ、総ちゃん。そういえば、ここのボート、一度も一緒に乗ったことないよね?」おっとおっと、きっとまた、怖いことを言い出すぞこの人は…

「そ、そうだっけ?」

「うん。一度もないよ。せっかくだから乗ってみる?木綿、総ちゃんにボート漕いでほしいなぁ?」


 やっぱり、そうきましたか…まぁ、なんとなく予想はしてたんだけどね…こういうところは大胆というか無茶というか平気で言うんだよね。木綿子は…。


「よしゃっ、乗っちゃうか?なんか本当に昔に戻った気がしてきたぞ」といってもな…夜、黙ってボートに乗るの俺二回目だったりするんだけど…それは内緒な…しかも、一度乗ってるから手はずもばっちりだったりして。


「乗っちゃおう!いえい」完全に木綿子もノリノリだ。


 いちると乗ったときとは逆の手順で手際よく準備する。まぁ、バレたら怒られるんだろうな…いい大人がこんなことして…でもまぁ、そんときはそんときかぁ。今回は先にお金置いておくかな………あれ?


『かちゃ』?またまた、不思議な現象に首をかしげる。なぜ前に置いたところと同じ場所に500円玉が置いてある?これは俺が置いた500円玉なのか?それはいくらなんでもおかしいだろ?あれは、一応二十年前ってことになるはずなんだから…今回のこれは偶然なんだろ。きっと。もしかしたら、これもいちるの悪戯か?


 俺がボートに先に乗り込み、木綿子に手を差し伸べて迎える。

「きゃっ」木綿子がボートに足を踏み入れた瞬間、すこしだけボートが揺れて、俺はバランスを取り直したが間に合わず咄嗟に、木綿子を抱きとめる形になってしまった。俺は木綿子を池に落とさぬように必死になって木綿子を抱きしめた。

「総ちゃん。ありがと。ふうぅ。よかった。落っこちちゃう所だったよ。さすがに落ちたら寒いよね?」

「いやぁ、木綿を落とすくらいだったら、俺が落ちるから」

「いやぁん。もう、総ちゃんたら。いいよ。その時は一緒に落ちてあげる」

「それじゃ、意味ないじゃん」

「あはははっ、でも、泳ぎは総ちゃんよりうまいんだぞ!」屈託なく笑う木綿子。

「うん。それは認めるよ。ほら、いくよ」と言って桟橋をオールで押してボートを出す俺。

「出発~」


 まるで子供に戻ったかのようにはしゃぐ木綿子と向かい合わせで座りオールをゆっくりと漕ぐ。


「うわーっお月様が綺麗だね~。真ん丸だ~」

「あ、ほんとだ」

「なんだか不思議。総ちゃんとこうしてボートに乗ってるなんて、なんか信じられないな」

「それは、俺もだよ。すごく、不思議な感覚。だって木綿と二人で食事したり、ボート乗ったりなんて、もう二度とできるわけないって思ってたから」

「へえ…そうなんだ…やっぱりそうか…まっ、そうだよね…」

「え?何?どうしたの?俺、何か変なこと言っちゃった?」

「変な事は言ってないよ。じゃぁ、木綿の本領発揮で、また総ちゃんに意地悪しちゃおうかな?」

「ええ~?まだ何かあるの?」

「あるよ~」と少し上目遣いで笑う木綿子。

「なんだよ。怖いな~」

「やっぱり、総ちゃんは私との約束を忘れちゃっているのね…ぐすんっ」とわざとらしく泣き真似しながら言う木綿子。

「え?え?何?何?うわっ、俺、何か大事な約束を忘れてるの?」

「うん。ばっちり忘れてるね。きっと。だって自分の誕生日を忘れるくらいだもの…私との約束なんて、忘れちゃうよね…うううっ」


 俺は、もし、木綿子と何か約束をしていたとしたら、そんな大切なことを忘れることなんてないと思う。というか、当然のようにそう思ってた。でも、そうではなかった……。


「じゃ、木綿は優しいから、ヒントをあげちゃいます」と時計をした左手の人差し指を顔の横で出して言いながら続ける木綿子。「総ちゃんと私が最後に二人きりで食事をしたのはいつだっけ?はいっ、平野総太郎さん。お答えください」

「え?は?そ、それは……………………はっ、あれは、あっあっああああっーーっ俺の二十歳の誕生日!!」

「正解!正解!大正解!!」手を叩く木綿子。「で?その時、何か約束しなかったっけ?総ちゃん?」

「う、うううっ、あの日のことかぁ~~~~っ」

「そうそう、今日みたいにイタリアンレストランで食事したあの日だよ」

「そっか…そうだったのか…ごめん…今、やっと思い出したよ。本当にごめん。そしてやっと、謎が解けたよ。なぜ今日、木綿が俺を呼び出したかってことも…俺、最低だよ…ごめん」

「そうだよね~約束したもんね。あの日。これから先私達にどんなことがあったとしても、二十年後の総ちゃんの誕生日にはこうして、また一緒にお祝いしようねって。ね?」

「はい、しました。ごめんなさい」

「素直でよろしい」と笑う木綿子。


 そうだった。俺は、自分の誕生日どころか、そんな大切な約束までも忘れてしまっていた。なんかもう、俺のいうこと全てに説得力がなくなってしまいそうな失態だよな…でもでも、言い訳させてくれよ。あの日の俺は…それどころじゃなかったんだよ。木綿子の婚約の話がショックすぎて…


「言い訳すんな!馬ー鹿」

来たよ…また、あいつが……。

「また、お前かっ。今度はどっから現れた?ここは池の真ん中。鏡もガラスもねえぞ」

「ぶははははっ、馬鹿だな~総ちゃんは。ここだよ」


 声のする下の方をうかがうと、はぁ……水面に不気味な笑顔が揺れていた。こんな手まで使ってくるかお前は…


「あーかっこわる。ださ。そのくらい覚えてろよ」

「うるさい。仕方がないだろ?」

「あーあ。木綿子がかわいそう」

「お前は覚えてたのかよ?」

「当たり前だろ。忘れるわけねえだろって。だから俺は今ここでお前と話せてるんだろ?」

「どういうことだよ」

「どういうこともないだろ。さっき木綿子が言ってたろ?これから先、私達にどんなことがあったとしてもまた二十年後の俺の誕生日にって。だから俺はここで、こうして今夜、お前と接触できてんだろ。これもそれも、全部、木綿子のおかげなんだぞ!わかってるか?お前」

「悪い…何を言ってるか全くわからない」

「やっぱり馬鹿だな~総ちゃんは。いいか説明するぞ」

「うん…」

「あの日から数えて今日は、俺とお前にとっては別々の未来なわけだ。生きてる時間も違うわけだし、そもそも環境が違う。決定的に嫁さんが違うわけだ。だからな、お前と俺が全く同一の時間に全く同じ場所にいるってことは滅多にないんだよ。そんでもって俺は、今日この日の約束を利用してお前に接触したってわけ?わかる?」

「はあ…」

「あっ、ムカつく。めんどくさ…もういいや、自分で確かめてこいや」と言って奴は急に水面から腕を出して…

 

 うわぁ、やめてくれって言う前に時はすでに遅し…


『ぼじゃん……』やられた。池に引きずり込まれた…。


 やっぱり、一番、無茶してるはあいつだよ。きっと…普通、落とすかね池に…ていうか時間が止まってるとはいえ、池に木綿子一人にしているほうがかわいそうな気がするけどな…大丈夫かなぁ…。とはいえ、場所と時を飛び越えて、今、俺は…またまた、レストランに逆戻り…といってもさっきまでいたレストランとは、違うレストランだけどな…そう、ここは二十年前に木綿子に俺の二十歳の誕生日を祝ってもらったイタリアレストランだな。確かに雰囲気はそっくりだ…そして俺の座る席の対面には、いつも通りにいちるの笑顔があった。今日のいちるのファッションチェックからするかな?おう、今回もまたまた、おしゃれさんな装いで登場したな。っていうかいちるの服装に関しては、毎回すごく考えられている気がする。俺に至っては毎回おんなじ、ジャケットにスラックススタイルなのに…さてさて、今日のいちるちゃんはといいますと…シルバーが綺麗に織り込まれたティアラと言ってもおかしくないようなカチューシャを付け、赤とピンク、それに白のオーガンジーをふんわりと重ねたとても可愛らしいドレスを着こなしている。先日の更に上を行くお姫様度アップを狙ってきてるな、これ。


「いちる、今日は一段と豪華だな?」

「すっごく、かわいいでしょ?」

「うん、とても似合っているよ」

「ありがと、そうたろう。きょうはどうちたの?また、わたち、がんばることある?」

「今日は大丈夫だよ。一緒にゆっくり美味しいものを食べよ」

「そっかぁ、でもあそこにいるよ?いいの?」


 そう、俺からもすでに確認出来ている。ちょうど俺たちのテーブルの斜め向こうのテーブルにはすでに、二人が笑いながら食事を楽しんでいる。そしてこの位置からでも二人の会話が漏れ聞こえてくるんだ。そして都合のいいことに、二人が振り向かない限りはちょうど視界に入らない位置に俺たちのテーブルは配置されている。そういうことに関しては、あいつもさすがに気を使ってこっちに飛ばしてくれたみたいだった。


「でもちょうど、よかったね。そうたろう、これでふたりがうまくいっているか、かくにんできるね」

「そうだな…大丈夫だと思うけど、やっぱり気になるよな?」

「うん、すっごくきになる」


 もしかしたら、そんなこともありつつ、あいつはあえてもう一度こっちにこさせてくれたのかも知れないな…



『総ちゃん。念願の大人だね。大人』

『そっかな…全然そんな気しないよね』

 このあたりは前と変わらなそうだな…


『うん、なんとなくイメージしてた成人とは違うよね。でもそれは、私達がまだまだ子供ってことなのかもね』

『うん、なんかね。全く大人になった実感ないよ』


 いいこと教えてやろう。まっ、二人に聞こえないけどな…四十になってもそれはあんまり変わらねえぞ。恥ずかしながら全く成長してねえし…俺…。


「ねえ、そうたろう。これ、おいちい。なんていうの」

「おっ、これはボロネーゼフェットチーネって言って俺の大好物なの。俺、こういうピラピラな麺大好きなんだよ。おいしいだろ?」

「うん、とってもおいちい」

 そうだった。ここで食べたんだった。木綿子はそれも覚えていて、わざわざあのレストランでも用意してもらっていたのか…やはり恐るべし木綿子の記憶力。


『これから、私達、どんな大人になっていくんだろうね』と木綿子の声。

『そうだな…俺、今は好きな仕事いっぱいして恰好いい大人になりたいな』

『それはイメージできるかも…総ちゃん、お仕事大好きだもんね』

『まっ、おっちょこちょいだし、空回りも得意だから、もっと大人になっても怪我とかして、木綿に怒られたりしてそうだよな…俺』

『そうだよ。もうちょっと落ち着かないといい大人になれないぞ』

『はい…頑張ります…』

『もう、頑張りすぎなくていいから、頑張るとすぐドジるんだから』

『はーい』

『あっそうだ。いいこと思いついちゃった。ねえ、総ちゃん』

『なぁに?またなにか悪戯、思いついちゃった?』

『悪戯じゃないもん。すっごく楽しみなことだもん。ねえ、総ちゃん。今から二十年後、私達が四十歳になる二回目の成人の時にさ、またここで、一緒に総ちゃんの誕生日のお祝いしようよ。この先、私達の関係がどうなっていようとも、絶対にここでお食事しながらデートするの?どう?』

『面白そうだね。それ』

『でしょ?』


 あああ。したよ。したしたこの約束。完璧に思い出した。ごめん、木綿子。あー最低だ俺。撃沈だよ…こんな大事なことを忘れてるなんて。ひどいよ俺…。でも、わかってくれよ。俺はこの大切な約束をした後に木綿子の口から告白された一言で約束も俺の想いもまるで宇宙の果てまでロケットに乗せて発射されてしまったかのように吹き飛ばされてしまったんだよ。”私、先輩と婚約することになったの…”と言う一言で俺の中のすべてが断ち切られてしまったんだ。


『関係がどうなってもなんて言わないでよ』俺の声だ。

『あっ、ごめん。総ちゃん』

『はい、これ。木綿、ごめんね…今の俺にはこのくらいが限界で…でも、もっと頑張って、ちゃんとしたの用意するから』と言って小さな箱を取り出す若き俺。あれ?こんなことあったけ?

『なぁに、これ?』

『遠回りしちゃったから、今はこのくらいしか出来ないけど…木綿、俺と結婚を前提にもう一度、ちゃんとお付き合いをしてください。お願いします』


 うわっ、うわっ。びっくりした。目の前のいちるも目をまん丸にして驚いている。そうなのねーっ。すでに完璧にひっくり返っているのねーっ。それにしてもびっくりしたよ。いきなりの実質プロポーズとは、若き俺も大胆なことするよな。でも、それだけ、あの日の夜は重要なターニングポイントだったって事なんだな…。そういうことか…わかったぞ。どんなことがあっても二十年後の誕生日は一緒にお祝いをするという約束だった。ということは、木綿子と俺が結ばれようと、結ばれないと今日のこのイベントは発生する可能性があったということだ。そして俺と木綿子の両方、またはどちらかが覚えていれば発生する可能性が高まるイベントだったわけか…だからその接点を利用して、あいつは俺に接触を試みたってわけか?まるで綱渡りのような芸当だな…そして、俺の場合は忘れていたわけだから、木綿子のおかげでこの奇跡の接触が起きたってことか…それにしても、どんだけの確率にかけてたんだよ。あいつ…すげえな…ほんと…そりゃあいつの態度も理解できるわ……。考えれば考えるほど恐ろしくなってくる。本当に背中に変な汗をかいてきた。


「ねえねえ。すごいね。あっちのそうたろう。かっこいい」

「我ながらすごいなって思うと同時に、自分が情けなくなってきたよ」

「そんなことないよ。わたちはそうたろうのほうがすごいち、かっこいいっておもうよ」

「なんでだよ。俺なんか全然すごくないよ。ヘタレだし…」

「だってそうたろうなんだよ。あのそうたろうにちからをあげたの。だから、そうたろうのほうがかっこいいの。ぜったいに」

「そうなのか?」

「そうなの。あっちのそうたろうよりもずっとずっと、ゆうこさんのことあいちてるってわかるもん。だから、そうたろうとゆうこさんがはなればなれはおかちいの。ぜったいにふたりはいっしょじゃなきゃだめなの」

「ありがとうな、いちる。俺は俺で頑張るからさ」

「うん。わたちはいつでもそうたろうのみかたなの。だから、おうえんちてる」


 俺は、この言葉を聞く前になんとなく感じていた…そう、残る可能性のことだ。俺の中ではいちるのママについての心当たりはもういくつも残っていなかった。鏡の向こうの俺と木綿子の可能性も少なからずあるとしても、確率的にはかなり低い。だって、もしそうだったとしたら、あいつにいちるが見えないことはおかしい。俺に見えて奴に見えないという事は、あいつよりも俺のほうが、いちるに近しい存在だと思うからだった。そして、俺にはそれを確認するためのカードがまだ残っている。そう、いちるは、俺と結ばれることが無かった、今たったひとりで池の上で、俺の帰りを待っている。木綿子と俺を結う糸なんじゃないかって思うんだ。そう、俺自身と木綿子が結ばれない限り生まれてくることのない命。だから、いちるは必死になってそのか細い糸を結びつけようとしてくれているんじゃないだろうか?これが俺の導きだした最後の仮説だった。


「よしっ、いちる。俺、頑張ってくる」

「うん、わたちはいいこにちてまってる」

「うん、わかった。なぁ、いちる。俺はいちるのこと、愛してるからな」

「うん!わたちもそうたろうのことあいちてる。ほんとにありがと」

「俺こそ、ありがとういちる。じゃいってくるな」

「うん。いってらっしゃい!」


 俺は、腕時計を右手で強く握って現実に戻ることを願った。

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