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第一話



「あ、平野だけど、今日は出先から直帰するから。ああ、わかった。お疲れ様」と言い電話を切り、改札を抜ける。


 この駅に来るのも何年ぶりだろうか?長らく降り立った記憶がない。まぁ、ただ単に自分自身が避けていただけと言えばそれまでなんだが…まぁ、この歳くらいになれば人には少なからず、そんな場所が存在するのではないだろうか?嫌な思い出の場所というのもあるかもしれないし、安易に踏み入って大切な思い出を壊してしまわないようにとか、新たな思い出で上書きされてしまわないように、そっと隠しておきたい場所と言うのもあるのかもしれない。まぁ、俺にとっては、そのすべてが当てはまる場所が、この駅ということになる。


 正直、今日、ここに来ることも迷っていた。


 待ち合わせは午後六時、秋深まる空は既に夕闇の中、仕事帰りのサラリーマンや学生の波が、駅に吸い込まれて行く中を逆らうようにロータリーに降り立った。


「総ちゃん。遅い!」聞き覚えのある、その柔らかで耳に馴染む声が聞こえる。 

 胸の辺にくすぐったさのようなものを感じながら視線を上げ、「俺、遅刻はしてないぞ!」と反論する。


 駅のロータリーの脇に立つモニュメントの前で待つ彼女は、あの頃と同じように、いたずらな笑顔を浮かべていた。俺好みの淡い色調のコーディネートは彼女の優しいイメージにぴったりだった。昔から童顔だった彼女は、老け込んでしまった俺とは対照的にあまり歳をとった感じがしなかった。そして、片方の耳にかけたショートヘアも当時とほとんど変わらない。だからかもしれないが、まるで時間があの頃から止まっていたんじゃないかと思う錯覚に襲われてしまった。


「私はもう、一時間も待ってったんだからね」と笑う彼女。

「はぁぁ、相変わらず、勝手なことばっか言って。しょうがないなぁ、野田は…」呆れ顔で笑い返す。

「だって、楽しみだったんだもん」と頬を染める木綿子。

「俺が来なかったら、どうするつもりだったんだよ?」

「それは、家まで押しかけるでしょ?普通。昔の総ちゃんみたいにさ」と笑う木綿子

「おい!それはないだろ?」

「うーそ。総ちゃんは来てくれるんだよ。私が本気でお願いすればね。ちゃんと叶えてくれるのよね?」

「そうか?」

「うん、そう。総ちゃんはそういう人なの」


 俺をここに呼び出したのは、彼女、野田木綿子のだゆうこ。俺は旧姓のままに呼ばせてもらう。俺は、その頃の彼女しか知らないから…。ちょうど一週間前、急に電話をしてきたのは木綿子のほうだ。軽やかな口調から、明らかに酔っている風であったので、いつもの単なる気まぐれだと思っていた。


『たまには、会いに来てよ!来週の金曜日、午後六時、あの駅のモニュメント前ね。奥さんにはうまいこと言ってさ。二人で一緒に食事しようよ。遅刻は絶対、許さないからね!』とあまりに一方的に言って電話を切られた。

 

 今までにも、時折、電話をしてきては、他愛のない話をして、気が済めば、またしばらくは音沙汰なしと言うことはよくあった。まぁ、俺と話をすることで、彼女の日々の生活の中での不安や疲れを紛らわせることができるのなら、俺としては、そんなに嬉しいことはないと思って来た。ただ…彼女から、学生時代の仲間達のと集まりの招集はあっても、二人きりで食事をしようなんて提案は一度もなかった…しかしそれに彼女と二人きりで会うなんてこと、もう二度とないと思っていたし、考えたことすらなかった。記憶を巡らせても最後に彼女と二人きりであったのは、二十歳前後の時だったはずだ。その後、彼女は俺も知っている別の男性と結婚して、今では、二人の息子がいると聞いていた。そんな彼女が大昔の元カレに今更、用があるわけもなく、今回の話は、酔っぱらいのただの冗談として片付けていた。


 しかし、昨夜のこと…

『総ちゃん?忘れてないよね?明日、午後六時だからね』と念押しの電話。

『おいおい…何、言ってんだよ。ただの酔っぱらいの戯言だと思ってたよ』

『え?来ないつもりだったの?』

『つもりも何も、冗談だと思ってたから…それに何か用事でもあんの?』

『用事がないと会っちゃいけないの?私達、同級生なのに?』

『いやーダメってことはないけど…』

『総ちゃんは私に会いたくないの?』

ドキッとした。会いたくないわけではない、本心を言えば会いたいに決まっている。でも、正直、怖かった。彼女に再会することで、彼女の幸せを祈って封じ込めた想いが、もし湧き出してきてしまったら、自分がどうにかなってしまうんじゃないかと言う怖さがあった。そう、俺にとって、野田木綿子はそれほどに特別な存在だった。

 動揺して返答できないでいると…

『私は、総ちゃんに会いたいの!だから会いに来て!』

思わず、『うん』と返事をしてしまった。


 木綿子は昔からそうだった。いつも一方的で、こちらの意なんて介さない。天真爛漫で時々我侭なお嬢様なのである。でも、俺、平野総太郎は、そんな彼女のことが大好きだった。自由奔放で、いつも勝手なことばかり言って困らせる。そんな彼女の我侭に振り回されるのも大好きだったんだ。


 そう、ここは俺にとってそういう場所なのである。彼女と交際当時、いや…その後もか…いつも待ち合わせに使っていた彼女との思い出の多くが詰まった駅なのである。そして、結ばれることのなかった糸が最後に途切れたのもこの駅だった。その日以来、一度もこの駅を訪れることはなくなった…


「久しぶりだね。総ちゃん」

「ああ、あまりにも久しぶりすぎて何年ぶりかもわかんないわ…」

「ほぼきっかり、二十年ぶりですね」と木綿子。

「なにそれ?ほぼきっかりって。正確なんだか、曖昧なんだかわからないじゃん」

「まぁま。細かいことはいいの!久しぶりのデートなんだから、楽しく行こ!」


 デートと言う響きになんとなくこぞばゆさを感じながらも、俺たちは止まっていた時計の針が動き出すかのように歩き出す。


 木綿子はというと、バックを後ろ手にして、あの頃と同じように嬉しそうに俺の前を歩いている。いつも全てが彼女のペースで進んで行く。忘れていたが、この感じがなんとも心地よい。普通は男がエスコートするものなのかもしれないけれど、俺にとってはとても安心できる。彼女が今、何を考えているのかはわからない。何の為に今になって俺なんかと歩いているのか…皆目見当つかなかったが、今、俺の心は懐かしさに満たされていた。


「おいっ、どこに行くんだよ?」ゆっくりと歩みを進める木綿子に質問する。

「うーん。それはまだ内緒!まだ少し時間があるから、この辺、見て回ろ。そっちのほうがデートっぽいでしょ?」とあっけらかんとしている。


 こんな時間が再び訪れることは、絶対にないと思っていた。あの日、二人をつなぐ糸は、間違いなく途切れたのだ。その後ことはあまり覚えていない。

 そして、先に彼女が他の人と結婚をし、その後、俺も今の妻と結婚した。俺には子供はいない。元カレと元カノそれが、俺たちの関係、それが今の現実だ。他の未来があったのかもしれないと何度も考えたが、結局、自分に勇気がなかっただけかもしれないし、そもそも、結ばれることのない運命だったかもしれない。そして、俺は、今まで、彼女が幸せであればそれでいいんだと、自分に言い聞かせて来たのだと思う。


 そんなことを考えながら歩いていたら、不意に木綿子が振り返り、「総ちゃんさ。幸せになれた?」

「はぁ?なんだよ急に…」

「木綿の質問に答えて」

「どうだろな……俺の幸せか…そう言われると、あんまり考えたことないかもしれないな…う~ん…嫁さんにはこんな俺と居て幸せなのかなぁ?なんてはよく考えるけど、俺の幸せってのは考えたことないかもしれないな」

「なにそれぇ?奥さんとうまくいってないの?」

「どうだろな……なんて言うか…もやもやってしてる感じ?」

「そのもやもやの原因はわからない感じ?」

「うん。わかってるっぽいけど、わからない感じ」

「何それ?わかりづらぁい」

「そんなこと言ってる君はどうなんだよ?」少し怖かったが、思い切って聞いてみた。

「私かぁ…どうだろうね…旦那さんは優しくしてくれるし、子供も可愛いよ。でも…なんだろうね…幸せなんだと思うよ。外から見ても、内から見ても…なんだろうね…よくわかんないや…それよりも、総ちゃん。こういう時くらい、君って呼ぶのやめてくれない?昔みたいに木綿って呼んでよ。私ばっかりじゃずるいじゃん」

「そんなこと言ったってな…」

「いいでしょ?今日だけ。お願い」

「わかったよ。なるべく頑張るよ」

「もう。総ちゃんだって相変わらずじゃない」と言いまた前に向き直る木綿子。


 そう、これが木綿子と俺の微妙な距離感。どうしても肝心なことは、はぐらかしてしまう。昔から変わることのない距離なのかも知れないな…その微妙な距離を保ったまま、そのまま現在まで二十年と言う途方もない時間を消化してしまったのかもしれない…。


 この時まで、本当にそう思っていた。次の瞬間のあの光景を目にするまでは…


「ねぇねぇ、総ちゃん、これ見て!」先を行く木綿子が立ち止まって、覗き込んでるのは、ちょっとお洒落で洋風な佇まいの時計店の間接照明がほんのりと灯るショーウインドウ。

「どうしたの?」

「これ、可愛いくない?」木綿子の視線の先には、乳白の文字盤に全く同じ美しいギョーシエ加工を施したシンプルなシルバーブレスのペアの腕時計が寄り添うように展示されていた。

「うん。いいんじゃない?旦那さんと一緒にするの?」

「買っちゃおっか?再会の記念に?お互い旦那さんと奥さんに内緒で。一緒にしようよ?ね?ね?」

「え?」驚いた。いや、木綿子の発言も十分に驚きに値するものではあるが、木綿子がとんでもないことを平気で言う人だということは、もう何十年も前から知っているのでそうではない。俺がこの時、驚いたのは目の前のものすごい違和感のせいだった。


 それは、目の前のショーウインドウにあった。いや、それもすこし違うか…。その原因はショーウインドウに映った俺の姿だったというのが正しいな。すぐ真横にいる木綿子は先ほどと同じように、バッグを後ろ手にショーウインドウをのぞきこんでいる。しかし……ガラス面に映った木綿子の手にはバッグはなく、そのバッグは俺の右肩にかかり、木綿子の右手は、ガラス面に映った俺の左手としっかりと繋がれていたのだ。しかも、いわゆる恋人繋ぎと言われる指を絡める繋ぎ方で。


 木綿子はまだ時計に釘付けになっていて、こちらにも、目の前で起きている現象には気づいていない。繋がれた手から視線をゆっくりと上げる。もちろん映っているのは自分の顔で、当たり前なわけだけど、次の瞬間には更に驚くべきことが待っていた。


「何、残念な顔してんだよ!総太郎」俺を見据えてニヤっと笑いながらしゃべり出すガラスの向こうの俺。横目で確認すると木綿子には見えず、聞こえずのようで、まだショーウインドウを見つめている。いや、これは恐らく自分以外の時間が止まっているのだと直感的に感じた。

「正解!」

「まだ、何も答えていない」これは俺。

「馬鹿か?お前。俺はお前なんだからお前の考えてることくらいわかるわ」この底意地の悪そうな返答は向こうの俺。そして更に続ける。「いいもの見せてやるからこっちに来いよ」と言う。

「はぁ?」と答えるそばからガラスから、にゅーっと伸びてくる向こう側の俺の右腕は俺の手首を掴んで引っ張って行く。

「何すんだよ!」と語気と腕の力を強めるが力いっぱい引っ張られ、ガラスに激突する寸前に目を瞑った。ヒヤッとする感じはしたが、ガラスに突っ込んだ感じはしなかった。感触もショーウインドウの色調のせいもあるだろうけど、まるでコーヒーゼリーのようなものにズブズブっと指を突っ込んだ時のような感じだった。



 なんにも見えない。ただ、懐かしい良い香りが鼻をくすぐる。すぐにわかった。これは、木綿子の匂いだ…しかし、すぐに眠りに落ちる時のように力が抜けていった。

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