怒りの臨界
女性を抱き起こして、シデンは椅子に座らせる。
「時間が必要なこともあります。今は、そっとしておきましょう」
そう言って、酒場をシデンは出ていく。俺達も、その後に続いた。
「今のが、寒くなった原因か?だけど、まだ気温が下がっているような気がするんだが」
「その通りです、ご主人様。まだ、終わっていません」
すでに、吐く息が完全に白くなってしまっている。外に出ると、町の人達と幽霊たちが、こちらを見ていた。シデンが、辺りを見回す。すると、目を細めて奥歯を強く噛み締めた。
「皆さん、霊の方々から離れて下さい。落ち着いて、距離を取って」
「何を、言っているんだ?」
「お嬢ちゃん、何が起こっているんだ?」
「良いですか、もう一度言います。距離を取って下さい。これ以上、私の話を聞かないのは得策ではありません。皆さんも、分からないのですか?自分の、身体の変化が」
「俺達の、身体の変化」
シデンの言葉を、取り敢えず聞くことにしたのか、住民たちが幽霊たちと距離を取り始める。幽霊たちも、黙って住民たちと距離を取った。
「あの方たちと仲の良い方、見ないほうが良い。それでも、ここにいるのなら、それ相応の覚悟をなさって下さい」
「いったい、何を言って」
「寒いでしょう。何もなく、ここまで町が寒くなると思いますか?」
「お、おい。身体が」
「え?……身体が、紫に光って」
「俺もか。お前もだ」
「なんだ、これは!!」
「ご主人様、私は、私は。この光景を、許せそうにありません。思い出を、人々の記憶を、あいつは汚している。侮辱している。こんなもの……」
幽霊たちが、紫色に光っていく。そして、その体から雷を放ち始めた。絶叫を上げて、幽霊達が苦悶の表情を浮かべる。そして、徐々にその体から、肉のように見えていたものが剥がれ落ちていった。
「許せるわけがない!!!!」
辺りが、紫色の光りに包まれた。シデンが、光を放っている。それと同時に、雷を放っていた幽霊たち全てが、紫の鎖に周りを覆われた。鎖は、透明な紫の壁を形成して、霊をその内部に閉じ込める。すると、霊の変化が止まった。シデンを、包んでいた光がやんでいく。その中に、一人の少女が現れた。長くなった髪、少し成長した背。そして、5本に増えた尻尾。そこに、上級へと進化したシデンが立っていた。
「おい。あのお嬢さんは、何処に行ったんだ?」
「霊達が、岩になっている」
「おい、大丈夫なのか!!」
「……」
おかしい。住民たちには、シデンの姿が見えていないようだ。数秒おいて、シデンは先程までの姿。少女から、元の幼女へと外見を変化させて戻していく。すると、まるでシデンを今見つけたかのように、住民たちがシデンへと視線を向けた。
「お嬢ちゃん、これはどうなっているんだ!!」
「皆、大丈夫なのか?」
「お静かに。変化を止めただけです。この状態でも、皆さんと話せるはずです」
「本当か?」
「おい、返事をしろ!!」
「……まだ、俺は俺なのか」
「私、まだ生きてる」
「本当だ、生きてるぞ!!」
それぞれの石に、人々が集まり声をかけていく。その光景を、シデンは悲しそうに見ていた。
「行きましょう、ご主人様。思ったよりも、敵は焦っているようです」
「行くって、何処にだ」
「勿論、大本を潰しにです」
「いけるの、シデン?」
「アリーさん、行ける行けないではありません。殺すのです。確実に」
シデンは、怒り狂っている。だが、俺達が進むのを止めるように、辺りに黒い布を被った死神達が現れ始めた。それらは、紫の壁に内包された霊達を、殴ろうと鎌を振り上げて近づいてくる。だが、その死神たちの尽くが、紫の鎖にその体を打ち砕かれた。
「ゲス共が……」
シデンが、死神たちを睨む。その瞬間、俺はシデンの身体が大きな狐に変化していこうとしたのが、見えた気がした。
「まずい、怒りに飲まれています!!」
空中で、死神達が鎖に焼かれて消えていく。その光景を睨んでいるシデンを、ミルクが抱きしめて止めた。
「ミルク姉さん、どうしたんですか?」
「焦るなシデン!!焦っては駄目です!!怒りに、自分を任せてはいけません!!貴方は、誰と共に居たいんですか!!誰のために、ここにいるんですか!!」
「ミルク姉さん、私は……。ご主人様と……」
「ええ!!そうです。貴方の大切な思い出は、汚されない!!だから、ここで怒りに身を任せては駄目だ!!」
「ミルク姉さん。……はい」
冷気が、止んでいく。気温が元に戻り、辺りが静寂に包まれた。死神が消え、辺りにはシデンが作った岩だけが残る。シデンが、辺りから敵の気配が消えたのを確認すると、ミルクに体を預けるように倒れ、目を閉じて眠った。
「一度帰りましょう、マスター。シデンさんの為にも」
「ああ、そうだな」
アルティに言われ、俺はミルクに近づくとシデンを受け取り抱き上げた。そして、急いで拠点へと戻る。拠点に戻ると、俺はシデンをそっとベッドへと寝かせた。
「なるほど、進化を、強制中断させた負担ということでしょうか。このようになるのですね。ですが、間に合ってよかった。ミルクさんのお陰です」
「ほっ、なんともないんですか。なら良かった」
「進化を、中断したのか?」
「のようです。聖魔級への進化、それを、シデンさん自体が途中で拒絶した。だから、途中で進化が止まり、身体に負荷がかかったのでしょう。それ故の睡眠だと思います」
「止める必要が、あったのかしら?」
「見たところ、シデンさんは獣に近くなろうとしていました。本能に身を任せ、敵を殺す方向にです。恐らく、シデンさん自体の意識は消えないでしょうが、より攻撃的な、今のシデンさんとは違ったシデンさんになっていたことでしょう。それが良いとは、私には思えないのです」
「進化も、良いことだけじゃないってことね」
「ええ。おかげで、シデンさんが目覚めるまで時間が掛かるでしょう。待つしかありませんね、私達は」
「シデン……」
俺は、寝ているシデンの顔を撫でる。すると、幼女の姿から、シデンは少女の姿へと戻った。今は、これが本来の姿だもんな。
「私、町の混乱を見てきます。皆さんは、休んでいて下さい」
そう言うと、ローゼットさんが町に向かって出ていった。俺は、寝ているシデンの手を握る。寝ているシデンの顔は、何処か悲しそうにその表情を歪めていた。