記憶は森の中
それは記憶だ。誰かが見ている記憶の断片にすぎない。その誰かが目を開けると、そこは森の中だった。
「……」
それは、生まれた初めの頃の記憶だった。どのようにして誕生したかは、自分でさえ覚えていない。ただ、木の根元に穴が空いており。そこから自分が這い出て、初めて外の世界を見た。その時の記憶は、今でも鮮明に覚えている。光が森に差し込んでいた。木と葉と地面を光らせて、まるで微笑むかのように自分を出迎えてくれている。その誰かは、その時の景色をそう思った。
「……っ」
生まれて初めて外の世界を見た時の感覚は、少しの恐怖と大きな楽しさだった。夢中で森の中を駆け回ったのを、今でも覚えている。見たこともない生物、自分と同じような形の生き物。それらを観察し、接触し、生きるすべと、この場所のルールを学んだ。同じ形の生物を観察することで、食べ物の取り方も、戦闘の仕方も理解することが出来た。毎日がまるで、川の流れの様に過ぎていったことを、彼女は今でも覚えている。
「……で、そうだろ?」
それは雨が、降り続いていたある日のことだった。見慣れない生物を、彼女は発見した。だが、彼女はすぐに、その生物に接触しようとはしない。何故なら、今まで生きてきた中で、観察することが大切だと本能で理解していたからだ。だから彼女は、その聞きなれない音を発する生物を、遠目に観察することにした。
「手応えがない」
「先生が言ってただろ。初級なんだよ、ここは」
「中級ぐらいでよかったんじゃないか。これじゃあ、危機感なんて芽生えないぜ」
茂みの影から、彼らを彼女は見た。その彼らの周りには、自分と同じ姿をした生物。そしてこの森にいる別の生物。それらの死体が、多く転がっているのが見受けられた。やばい。一目で彼女はそう感じた。だから、すぐにその場を離れて、自分が暮らしている巣穴へと戻っていった。できるだけ物音を立てないように、素早く慎重にだ。
「……はぁ、はぁ」
息を切らしながら彼女は、安住の地へとたどり着いた。だが、それだけでは安心できず。近場にあった木の葉や枯れ木で、穴の入口を覆い隠した。これでもう安心だろう。そう思い、彼女はその日は眠りについた。
あれから月日が過ぎていく。そうする中で、彼女は例の生物が、度々森の外からやってきているらしいという事実を突き止めた。しかし、観察すれども例の生物は、この森の住民をただ殺しては出ていくだけだった。なにが目的かなど、彼女には理解することができなかったが、近づいてはいけない存在であるという認識だけは強まっていった。
「……こん」
例の生物を観察するうち、慣れというのだろうか。例の生物がいようといまいと腹は減る。その慣れのおかげか、せいとでもいうのだろうか。彼女は、次第に人間がいようとも、外出を躊躇することがなくなっていった。勿論、外出時には耳をいつもより研ぎすませて、慎重に行動している。人間の目をすり抜けて、木の実を咥えて巣穴に持ち帰って食べる。その生活にも、次第に彼女は慣れ始めていった。外敵を、あっさりと欺ける存在だと、いつしか心の何処かで思うようになり始めていた。
「……♪」
それはある日のことだった。いつも通り、彼女は餌を求めて森の中を移動していた。その時、まさに目の前で木の実が枝からゆり落ち、目の前に降ってきたのだ。彼女は辺りを見回す。進行方向に敵はいない。彼女は、茂みから飛び出すと、木の実を咥えて嬉しそうに微笑んだ。しかし、それと同時に、彼女は嫌な音を感じた。だから、とっさに彼女はその場から飛び退いた。
「ちっ、気づかれた!!」
それは風の刃だった。人間の放った魔法が、彼女に向かって飛んできていたのだ。だが、彼女はこれを寸前で躱した。
「下手だな」
「いや、惜しかっただろ。次は当てる」
敵は複数人いた。彼女が確認できるだけで、2人。音からすると3人いるようだ。彼女は、脇目も振らずに茂みに飛び込み、その場から逃げ出した。
「おい、逃げられたぞ」
「回り込めるか?」
「走ればな」
茂みを突っ切って、少し開けた道へと出る。そして、彼女がいつも通路として使っている、小さな岩の穴に向かって進もうとした。その時だった、目の前に、先程の人間の一人が出てきたのだ。その人間は、なにか分厚い鉱物のような物を構えている。彼女は警戒し、別の道に向かって走ろうとした。
「逃がすか!!」
その時、先程の人間が彼女目掛けて風魔法を、連続で撃ち放っているのが見えた。だが、立ち止まっている暇わない。彼女は、脇目も振らずに駆けだした。だが、その途中で、風魔法が彼女の片足を削ぎ落とした。
「……!!」
急に足に力が入らなくなり、彼女はバランスを崩す。激痛、恐怖、混乱。そのどれもが彼女に大波となって押し寄せたが、彼女はそれらを噛み殺し、這いずるように茂みの中を進んでいった。
「血の跡だ」
「仕留めたな」
「死体はないが」
「ほっとけよ。手負いなんて、訓練相手にもなりゃしないさ」
「そうだな」
その人間たちは、彼女を追うのをやめていたが。そのことを知らない彼女は、必死に自分が生まれた巣穴を目指していた。足から、大量の血が彼女から流れ落ちていく。段々と呼吸がしづらくなり、目の前が暗くなっていく。だが、彼女は僅かな感覚を頼りに、巣穴を目指して進んでいった。彼女の頭に、今までの記憶が過ぎ去っていく。もう、巣穴は目の前だ。だけど、もう彼女の身体には、力が入らない。
「……」
助けてと、その時彼女は願った。生まれてから、この森で過ごした日々を思い出しながら、冷たくなり遠ざかっていく自分の意識に恐怖しながら。彼女は、その多くの感情が渦巻く中で、まだ死にたくないと、誰か助けてと、声にならない声を上げていた。
「む……」
「え、あれって……」
その時、彼女は薄れる意識の中で、その青年の声を聞いた。
「……こん」
「……こん?……鳴き声がこれか?」
身体に、はっきりとした感覚が戻ってきている。最初に感じたのは、暖かな光だった。気がつくと、彼女はその青年の目の前にいた。ああ、助かった。この人が助けてくれた。その時、彼女はそう思った。間違えるはずがない。何故なら、さっきまでの暖かな魔力が、自分を癒やしていてくれていた魔力が、この人だと教えてくれているから。嬉しくなり、彼女は彼へと擦り寄っていった。
「……」
無言で、彼は彼女を優しく抱き上げる。その時、彼女は今まで味わったことの無い感情を感じていた。胸の中が熱く、幸せになっていく。その感情が理解できなくて、堪らなくなり彼女は鳴いた。すると、彼は彼女を優しく下ろしてくれた。
「……」
気持ちを整理するために、彼女は彼から一旦離れた。だが、二度と彼に会えなくなるのは嫌だという気持ちがあり、一度距離を取りながら彼に着いていくことにした。そこから先は、驚きの連続だった。彼について行った先で見たもの。多くの、強大な力を持つ先輩たち。自分が住んでいた森の先にある世界。そのどれもが美しく、また刺激的で楽しい思い出となった。それも、彼が居てくれたからだろう。
「んっ……」
そう。シデン・アルフェルトは、その記憶の夢から目を覚ました。そして、まだ暗い室内を眺めて目をこすり、ベイの顔へと近づいていく。そして、優しくキスをした。
「いつまでも、ご主人様と共にいます。この暖かな気持ちとともに……」
ベイに寄り添って、再びシデンは眠りへと落ちていく。その胸の中に、暖かな感情を感じながら。