006「04 勇気」
「04 勇気」
柔かい腐葉土を踏みしめ、蜘蛛の糸を除けながら
薄暗いひんやりとした水の香り漂う森を一人進む
根元が苔生した木々の茂る足場の悪い場所を
一歩進む度に、体の何処かに蜘蛛の糸が引っ掛かる
糸を除けると…木の枝や、木の葉がむき出しの素肌を傷付け
チクチクして痛痒い感覚を肌に残した
「どれくらい振りだろうか?」
勇気は浅い眠りの中、何時もと違う夢を見ている事に気付きながら
何故か夢の中で「大切な者」を探していた。
頭の中には、花井とその彼女の姿が浮かぶ
勇気が「失いたくない」と実感した頃の2人の姿を思い浮かべ…
勇気は久し振りに自分の悲鳴では無く、別の理由で目を覚ます
目を覚ました理由は・・・
寝る前に枕元に仕掛けた目覚まし時計ではない
勇気の耳に届いたのは、女性の金切り声・・・
それは、勇気の母親の悲鳴だった。
続いてカサカサカサと、硬くて小さな物が擦れる音がする
勇気がベットの上で上半身を起こすと
肩の辺りから黒い物が膝の布団の上にポトリと落ちる…
一瞬、血の気が引いて…冷や汗がぶわっと噴き出した
それは見た事の無い種類の黒く大きな蜘蛛だった
勇気は蜘蛛を布団と一緒に跳ね除ける
そしてベットから降り、他にも蜘蛛が存在しないか確認する。
『うっわ・・・びっくりしたぁ~・・・』と
勇気が独り言を呟いていると
いつの間にか部屋に入り、悲鳴を上げ姿を消した
勇気の母親が、蠅叩きと殺虫剤を持って再び参上する
嫌な予感しかしなかった
『母さん!それだけは勘弁してくれ』
取敢えず勇気は、母親がやろうとしている事を制止した。
勇気の母親は、追い回し殺虫剤で殺してから
『まだ、生きてるかも知れないじゃない!』と
死んでる事を確信できるまで叩き潰すのだ
特に、ゴキブリとかを…多分、蜘蛛も同じ運命を辿る事であろう
正直、勇気はそれを自分の部屋でやって欲しくない
部屋中を殺虫剤塗れにされるのと
勇気の布団&勇気の部屋に敷き詰められた絨毯…
それに、潰れたら体液を撒き散らしそうな蜘蛛のバラバラ死体が
染みを作り、残骸を強く付着させるのは頂(いただ
)けなかった
勇気は、後は自分でするからと母親を追い出し
花井の彼女なら、そうするだろうと思い浮かべ・・・
蜘蛛を今いる自室の、2階の窓から庭へと捨てた。
「朝から疲れたな・・・」溜息が零れる
『さてと・・・今日も仕事だ』
勇気は着替える為、クロゼットを開けパジャマを脱ぎ
クロゼットの扉の裏の鏡を見て驚く
首筋に深紅の球体が滲み出しては、滴る様に首筋を辿って落ちていく
足元に脱ぎ捨てたパジャマの首の部分にも
自分の血液が、割合多く付着していた
怖い考えが勇気の脳裏を過ぎる
『助けてやったのにアイツ…
もしかして、毒蜘蛛だったりとかしないだろうな?』
勇気は、今直ぐの着替えを断念して
傷口を洗い消毒する為に、スーツ等の着替え一式と
血で汚れたシーツとパジャマを手に、風呂場へと向かう。
脱衣所に着くと廊下の向こうから、勇気の母親の声がした
『蜘蛛はちゃんと退治したの?』
『あぁ~うん・・・そうだ、かあさん!救急箱は何処?』
勇気は適当に返事をし、用件だけ述べ
話しかけられない様、足早に風呂に入りシャワーを浴び始める
シャワーを浴びている時
母親が『取敢えず、病院に一緒に行きましょう』とか言い出し
勇気が拒絶すると、説教染みた事を喋り始めた…が
勇気がずっと無視していると、勇気の母親は諦め
脱衣所から姿を消してくれた。
勇気は今日、2度目の溜息を吐く
『あぁ~もぉ面倒臭い!これくらいの事で病院なんて行かねぇ~し
そもそも、親と一緒に行きたくもねぇ~し』
勇気は母親と言う、一難乗り越え・・・
鏡で傷口を確認し、異常がなさそうなので風呂を出て
着替えの上に母親が置いて行った救急箱の中から
バンドエイドを取り出して、貼り付けた。
まだ、少し血が滲んでいたが問題無い
『それにしても、腹減ったな・・・』
勇気は着替えて、朝食を食べる為にキッチンへ向かう
キッチンに入ると・・・
システムキッチンのカウンターの向こうに隣接するリビングで
母親がTVを見ながらソファーで寛いでいるのが見えた。
勇気の母親は勇気に構うのに飽きたのだろう
TVニュースを真剣に見入っている
山の手の自然の多い地域で、車の多重事故が起きたらしい
『怖いわねぇ~…あんな場所で事故に遭いたくないわ』
都会や、海外にしか興味が無く
そんな場所に縁のなさそうな勇気の母親が
TV中継で繰り返されているそのままの情報を
勇気に向かって話して聞かせた。
勇気は聞き流しながら、適当に相槌を打ち
通いの家政婦さんが用意してくれている朝食と
簡単に淹れたてのコーヒーが楽しめる
家庭用の機械で淹れたコーヒーを胃に流しこみ
『時間無いからもう行くね』と
母親の支配する場所から逃げ出した。
勇気の母親は不満そうに頬を膨らまし
『まだ、時間があるじゃない!』と、言い掛けて
TVのニュース速報に気を取られ、ソファーに座り直す
TVのニュース曰く
あちらこちらで火事や、事故が起こっているらしい
『あらやだ、勇気!あんたも気を付けるのよ!』
ニュースを見ていない勇気に対し
勇気がニュースの内容を知っている設定で、勇気に話し掛ける
勇気は勇気で母親に対し、階段を昇りながら
話を聞いている設定で、適当に対応する
安心した勇気の母親は、繰返されるニュースに飽きて
TVのチャンネルを適当に変え気に入らなかったのか
DVDを見る事にした様子だった。
1階から、海外ドラマのオープニングテーマが聞こえて来る
勇気は、次に家に帰って来るまで母親に干渉されない事を喜び
安心して仕事への支度を整え
少しのんびり部屋で寛いでから家を出た
玄関を出て鍵を閉め、階段を下りると
タクシーで朝帰りした父親と遭遇する…勇気は会釈だけして
「今夜は家に帰りたくないなぁ~」と、朝っぱらから思った。
勇気は一人・・・
今頃、一悶着起こってそうな家を尻目に駅までの道を歩く
数日前まで、途中で合流し一緒の電車に乗っていた
同じ会社の花井は、今日も姿を見せない
重くなっていた気持ちが、更に重くなる。
暫く一人で歩いていると、勇気の携帯にメールが入った
鞄から携帯を取り出しチェックすると、花井からだった
「結婚式の中止の連絡」の続きに
「駆け落ちするから
婚姻届の保証人欄に友人代表としてサインして欲しい」との
メールの内容に頬が緩む
それと同時に、複雑で寂しく切ない思いが駆け巡る
花井のメールには
「今日は何時もの電車には乗らず、会社を休んで
役所に書類を取りに行って来る」
とも、書かれていた…勇気は、その事に感謝した…
今の勇気にとって、正直「今直ぐに、花井と会うのは辛い…でも」
『今夜は、2人を祝福しよう…
花井なら大丈夫だ、絶対に彼女を幸せに出来る』
勇気は、決意を自分に言聞かせるかの様に言葉にし
「今夜は彼女も連れて何処か遠くまで飲みに行こう」と
「保証人の事、OK」だと言うメールの返事を花井送った。
勇気の中で何かが切り替わる
「さてと、あの二人を何処へ飲みに連れて行こうか?
保証人がもう一人必要ならば、花井と時々行くBarかな?」
頭の中で、プランを色々立てていると、勇気の心は癒された
「Barのマスターはノリが良い
頼めばOKしてくれるだけでなく、届を出しに行くのに車だって
頼まなくても出してくれるだろう」
勇気は自分の考えに酔いしれ、鼻歌を歌いながら歩いていた。
そんな勇気を並木道の高い木の上から
黒い蜘蛛が黒い瞳でじぃ~っと、見詰めていた
そして、この日を境に…
眠りの中で見る悪夢が、微かな夢の記憶と引き換えに姿を消す。




