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刃金の翼  作者: 山彦八里
三章:暗雲
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11話:湖のほとり

 一芸は多芸に通ずるというが、それは果たしてどこまで適用されるのだろうか。

 大岩に腰かけたカイは未だに魚の一匹も釣れない己の竿を睨み上げながら溜息を吐いた。


 アウディチ領の安堵にも目処が付いた休日に、カイ達は学園の所有する山中の湖に来ていた。

 深い山の中にぽっかりと空いた湖は他に訪れる者もおらず、遠くの滝の音だけが辺りに響いている。


 晴れ渡った空に穏やかな湖面、木々を抜ける風が優しく頬を撫でるが、カイの竿に当たりは訪れない。

 気配を探るまでもなく、湖にはいくつもの魚影が見える。

 読心の可聴範囲を広げてズルしようとしたソフィアが目を回す程にいる。魚はいるのだ。


「……」


 侍とて釣りは初めてではない。生存技術の一環として学んでいる。

 ……学んではいるが、師の第五位(ジョセフ)には「お前はナイフを投げればいい」と言われて殆ど実践することはなかっただけだ。


(ジョセフ、お前が正しかったようだ)


 今なら師の言っていた意味が理解できる。

 小刀の投擲で獲れる魚如きに対してわざわざ釣り糸を垂らすなど非効率に過ぎる。

 あるいが素手掴みでもいい。どちらでも鼻歌交じりに乱獲できる自信がある。

 どう聞いても負け惜しみにしか聞こえないが、ひとまずカイは己をそう納得させた。


(クルスの方は?)


 ちらりと対岸を見れば、クルスとシオンが二人して断続的に魚を釣り上げているのが見えた。

 食べられそうにない魚は放流しているようだが、それでも足元に置いてある桶には大量の魚が確保されている。

 釣りは初めてだと言ったクルスの言葉を疑うつもりはない。

 実際、餌の付け方すら知らなかったのだ。

 ただ、四半刻もすればコツを掴み、カイなど歯牙にもかけない錬度になっただけだ。


「……」


 なんとなく悔しいので、針に再度餌を刺し、岩影を狙って糸を垂らした。

 途端に岩影で休んでいた魚達が慌てて逃げていく。

 殺気でも漏れているのだろうかとカイはもう一度ため息を吐いた。


(コツ、か。才能なのだろうな)


 原義からして、コツとは“骨”を表している。

 すなわち、物事の根幹にして要点、『気付くか、気付かないか』を分かつ感覚である。

 クルスの感覚は天性のものだ。

 己の心を真っ直ぐに貫く芯が多芸においても本質を掴み取るのだろう。

 それはソフィアのように表立った才能ではないが、余程恐しいものだとカイは感じる。


 鉄火場になればなるほど騎士の才覚は鋭さを増していく。

 クルスが自己を追いこみがちな性質なのも性格だけが原因ではないのだろう。

 無意識に、己の能力が最大に発揮される状況を察しているのだ。


 そして、その才覚は他者に伝染する。先の革命鎮圧でカイは確信した。

 他者の力を引き出す才覚。他者を率いて熱狂させるカリスマ性。


 カイは知っている。

 それは乱世の王となる才覚であると。

 時代が違えばクルスは間違いなく国の頂点に立っていただろう。


(奇縁、巡り合わせか)


 天頂に昇った太陽の輝きを水面が反射して七色の輝きを発する。

 悪くない。それがはじめてクルス達と依頼を受けた時から変わらぬカイの心情だった。

 太陽の為に剣を振るうのは快い。斬る相手は向こうから転がりこんで来る。

 刃たる己が存在するのにこれ程合致する場所はないだろう。


 もしもクルス達と会うのが数年遅ければこうはならなかった。

 学園を卒業したクルスはヴェルジオンの次期当主として領地経営に携わることになる。今のように大陸各地に足を伸ばすことはできない。

 あるいは、ソフィアはどこぞに嫁に行っていたかもしれないし、イリスは出奔していたかもしれない。


 逆に出会うのが数年早くてもこうはならなかった。

 よしんばギルドを組んだとしても、カイの戦場を呼び込む凶運に引き摺られて誰かが死んでいただろう。

 それを考えれば、冒険者を養成するという学園という存在の妙をカイは感じずにはいられなかった。


「――竿、引いてるわよ」


 ふと、思考に没頭する侍に声がかけられた。

 反射的に竿を引けば、糸の先には今日初の釣果がぶら下がっていた。


「ふむ……かたじけない、イリス」

「オメデト」


 針を外した魚を背後から突き出された桶に投げ込む。

 水を張った桶の中で魚は己の未来を知らず漫然とたゆたっている。


「気を抜くくらいで丁度いいんじゃない? 殺気漏れてるわよ」

「そのようだな」

「ん、ホント剣以外は不器用ね」

「まったくだ」


 声とともに背中に僅かに重みと確かな暖かさを感じる。

 背中合わせで座ったイリスは珍しく会話を振ろうとしない。


「ソフィアは大丈夫だったか?」

「ええ。木陰で休ませてる。暫く安静にしていたら回復するわ」

「そうか」

「こんなことするの初めてだからちょっとはしゃいじゃったみたいね」

「そうか。……そうだろうな」

「……」

「……」


 それきり会話が途切れる。沈黙が二人の間を流れる。

 何か言うべきかとも考えたが、結局カイは口を閉じたままだった。

 人付き合いにおいて自分が不器用であることを侍は理解している。

 故に、待つ。今は問うのではなく、聞くべき時だとそう信じた。


 触れ合う背中から互いの体温が混じる。

 言葉よりも雄弁に鼓動が互いの心のありかを証明する。


「カイってさ、怖いものってないの?」


 暫くしてぽつりと問われた言葉は互いの核心に触れるものだった。


「ある。稀にだが」

「何が怖いの? 私達もけっこう修羅場超えたけど、アンタが震えた所なんて見たことないわよ」


 イリスが振り向いた分、背中にかかる重みが僅かに増す。

 風に揺れる純白の髪がカイのうなじを柔らかにくすぐる。


「……死ぬのが怖い訳ではない。それは俺の武が及ばなかったまでのこと」


 少し考えてカイは口を開いた。

 人が死を恐れるのは、その先がないことを知っているからだ。

 生きとし生ける者は死ねば魂は散逸し、原初の海に溶けて消える。

 それを恐れる者がいることはカイも理解できる。ただ共感することはできない。


「負けるのも、死ぬのも――実の所、戦えなくなることも怖くはない」


 生と死は金貨の表裏だと侍は定義する。

 裏でないなら表であるというだけ。ただそれだけのことであると。

 侍にとって自身の死は金貨を返す程度のものなのだ。


「だから、怖いのはな、イリス。怖いのは――俺が俺でなくなることだ」


 己が仲間(カゾク)を斬る剣でなくなることが怖い。

 詰まる所、カイの裡の恐怖とはそれだった。

 “そう在れかし”と望まれたままに何もかもを切り捨て、父親すら斬ったのだ。

 今更、生き方を変えることはできない――筈なのだ。


「剣は使い手を選ばない。剣は斬り捨てる相手を選ばない。刃の前では全てが平等。故に、剣に敵はいない」

「……」

「だがな、お前達を見ていると、ふと思うのだ」

「え、私達?」

「ああ、お前達の為に――誰かの為に剣を振るうのも悪くない、とな」


 カイは僅かに振り向いた。

 片頬に滲む苦笑は如何なる故か。

 あるいは、カイが最も怖いのはそう考える自分に違和感がないことなのかもしれない。


「そんなの……」


 当たり前ではないか、と言おうとしてイリスは言葉に詰まった。

 主の為に戦うのは従者にとっては当然のことであっても、侍にも当てはまるとは限らない。

 従者は知っている。カイは己の為に剣を振ることはない。その身は常に誰かの為にある。しかし、それは特定の誰か(・ ・ ・ ・ ・)ではない。

 使徒として教皇の下にあった時ですら、その刃は主を定めなかったのだ。


(カイ、あなたは……)


 今になってイリスは、カイがクルスのことを“リーダー”と呼んだことの重みに気付いた。

 どうにも言葉の足らないこの侍はその一言に己の信念を預けたのだ。


「もう半年以上前になるのか。お前は俺に何故戦うのかと問うたな」

「あ、うん、よく覚えてたわね」


 ただ斬る為に生きている。かつて、侍はそう答えた。

 そして、イリスは――


「お前は“愛”の為に戦っていると答えた」

「ええ、確かにそう言った。今でもその答えに変わりはないわ」


 でも、と続ける言葉が喉から出かかって詰まる。

 『愛とは奪うこと』、奇しくも同じ命題で戦う女が告げた言葉が従者の心に棘のように突き刺さっていた。

 そんな筈はない。自分の愛は与え、捧げるものだと信じている筈なのに。


「イリス、俺は口が達者ではない」

「知ってるわよ、鈍感」


 心中の懊悩は噫にも出さず、イリスは笑みの仮面を被る。

 カイは気にした風もなく言葉を続ける。

 表情を繕われても、触れた場所から不安は伝わってくるのだ。


「耳が痛い話だ。だから、何と言えば分からないのだが……」


 それでも言わねばならない。これからも仲間であらんとするならば。

 柄ではなくとも、ソフィアのように相手の心がわからずとも。



「――お前の生き方は美しいと思う」



 告げられた言葉は平坦で、感情の彩りはなく、ただ淡々と紡がれた。

 だが、裡に込められた真摯な響きが少女の鼓動を少しだけ早くした。


「な、なに、口説き文句のつもり?」

「さてな」


 茶化すように返した言葉も男には通じない。

 背を向けたまま淡々と言葉を紡ぐ。


「お前の芯はきっと変わらない。何がどれだけ変わってもその美しさを損なうことはないだろう」

「……」

「だから……何と言えばいいのか……」


 続く言葉が見つからないのか、男は竿を持ったまま唸り始めた。

 そんな男の背中を感じながら、少女は小さく笑った。


「もう、そこまで言ったなら最後まで伊達を貫きなさいよ」

「すまん」

「……馬鹿」


 ぽつりと呟かれた小さな言葉は背中合わせの男には届かなかった。


「イリス?」

「振り向いちゃ駄目。今みっともない顔してるから」


 少女は珍しく男の鈍感さに感謝した。

 早まった鼓動も、頬に感じる熱も今はまだ自分だけのものだ。


「……」

「ダーメ。もう行くわ。……話聞いてくれてありがとう」


 くすりと優しげに笑った少女は一度勢いをつけて立ち上がると、そのまま振り返らずに去っていった。



 暫くして、勘に任せて竿を引けば、二匹目の釣果がぶら下がっていた。

 カイは無言で針を外して釣果を桶に投げ込むと、竿を置いて立ち上がった。


「――おや、もういいのかい?」


 侍の手にはいつの間にかガーベラが握られている。

 視線の先には、湖面に立つ男。深緑の外套とシンプルな革鎧を着たウィリアム・ボウがいた。


「折角の休日だろ、楽しんだらどうだい?」

「呼んだのは此方だ」

「別に気にしないけどね。まあ、いいならいいか。それで何の用だい?」


 にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる無駄に若づくりな教官に、カイは黙って背中から引き抜いた長大な“矢”を投げ渡した。


「……これは?」

「古代種との戦闘中に撃たれた。おそらくは『魔弾の射手』による生成、覚えはないか?」


 アルベドとの戦闘中に放たれたその巨矢はイリスの魔力によって形状を保っている。

 カイの知る限り、アーチャーの秘匿技術『魔弾の射手』を使える者はこの男の他に数人しかいない。

 無論、大陸中を探せば他にもいるかもしれないが、秘匿技術を取得できるだけの技量を持ち、かつ一里の向こうから狙撃できる者が不世出というのは不可解に過ぎる。


「僕を疑っているのかい?」

「いや、お前なら二射で終わらせる真似などしない。必ず三射目を放つ」

「信頼されてるって解釈するよ?」

「好きにしろ」


 皮肉気な笑みを浮かべた“必中の三射”(トライオリオン)の担い手は肩を竦めた。


「つまらないなあ。……実の所ね、心当たりはあるんだ」

「やはり古代種か?」


 であるならば、世に出ていないのも理解できる。

 今では片手で数えるほどしか古代種は残っていない。長大な寿命を持つ彼らはその身が朽ちるその日まで静かに隠棲している――と一般には思われているのだ。


「そもそも、秘匿技術の多くは古代種に対抗すために編み出されたか、逆に彼らから盗んだ技だ。魔弾の射手は後者だね」

「なら、これの射手は――」

「うん。いわゆる元祖ってやつさ」


 初めて会った時から姿形が変わる様子のないオリオンの射手はそう言って笑みを消した。


「この生成精度、強度、そして、生み出した巨矢を十全に扱う技量。間違いなく源流(オリジン)たる彼らの手管だね。この意味がわかるかい?」

「問題ない。対古代種戦闘は――」

「いや、君は古代種の“本当の姿”を知らないよ」


 カイの何倍も生きている男はその言を遮って弓弦を弾いて固くなった指を一本立てた。


「君が知っているのは使徒の第一位、ネロ・S・ブルーブラッドのことだろう? 僕も彼とはやりあったことがあるが“本当の姿”を見たことはない。きっと彼がその姿を見せるのは自分を殺しにきた相手だけなんだろう」

「……」


 言われてみれば納得する話だとカイは思った。

 心技を持たない古代種に宿る“本当の姿”をカイはみたことがない。他の使徒もみたことはないだろう。

 そして、ネロならば、たとえ弟子相手でも切り札のひとつやふたつ持っていても不思議ではない。むしろ、確実に用意しているとカイは断言できる。

 己が師のことながら賞賛すべき性根の悪さであろう。


「まあ、捻じ曲がった性格はさておいても、彼は他の古代種とはかなり毛色が違うけどね」

「……裏切り者」

「そうだ。もう千年以上前の話だ」


 かつて、五柱の神の下に集った人と亜人が古代種と戦争を繰り広げていた時代があった。

 後に暗黒時代を挟んだことで多くの資料は散逸し、正確な所は伝わっていないが、その終わりについてカイは他ならぬネロ本人から聞いている。


 最後に残った古代種四十八人による最終手段。神を殺す為の神を喚ぶ儀式。

 それに異を唱えたネロは同族達を裏切り、ヒト側についた。

 ネロをして完璧な裏切りだったというそれが儀式に与えた影響は小さくなかったのだろう。

 結果として儀式は不完全に終わり、僅かに残った古代種も散りじりになったという。


「僕もエルフの生き残りに聞いた話だけどね。その人も既に身罷っている。今でも生き残っているのはたぶん古代種だけだ」

「それで? 生き残った古代種が相手というだけだろう?」

「……君は戦闘に感情を持ちこまないからわからないだろうね」


 好ましいことだけどね、とウィリアムは呟き、伸ばしていた指先をすっとカイに向けた。

 ウィリアムから見ればまだまだ若い侍は何に狙われているのかを理解していない。


「数千年を生きる彼らは殆ど子を成さない。時と世代を経るにつれ恩も恨みも薄れていくヒトとは違うんだ。古代種は生の感情を抱いたまま今も生きている。君を狙ったこの矢には千年分の“憎悪”が詰まっているのさ」

「……」

「わかるかな? 彼らの戦争はまだ終わっていなのさ」

「傍迷惑な話だ」

「まったくだ。ともあれ、方々にはこちらから伝えておこう。狩りの時間になるよ――どちらが狩られる側かはまだ分からないけどね」


 消していた笑みを装い直し、ウィリアムは湖面上で踵を返した。


「心するといい、斬首の鬼人。彼らは生まれついての強者、英霊に伍する精霊級だ。凡人に生まれた君とは存在が違う」

「それでも、俺がすることは変わらない」

「……そうかい。あるいは、君のような存在がこの戦いを終わらせる存在なのかもしれないね」


 振り向かず、ウィリアムは頬に笑みを浮かべたまま静かに湖面を渡っていく。

 小さく波紋を立てる姿は徐々に景色の中に滲んでいき、去っていった。


 そのまま沈黙していたカイはややあって岩上から地面に降り立ち、木々の間に消えていった。


 誰もがまだ、この先に待ち受ける戦いを知らない。

 それでも、日々は巡り、運命の輪は回り続けていた。

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