6話:魔術士の日常
夢を見ていた。
地平の先まで続く蒼い藍い海の夢。
水面に反射する淡い光と、大気を満たす元素の煌き。
心は海中を泳ぐ蝶となって翅を震わせる。
緩やかな波はこの身を静かに果てへ誘う。
ずっとここに居たい。漠然とそう思えた。満たされているのだ。
ここには全てがある。みんなが居る。
探せばきっと自分を産んですぐ亡くなったという母親も――
瞬間、気付いてはいけないことに気付いた者を拒むように景色が歪んでいく。
声もあげられず、魂は肉体の檻へと引き戻されていく。
そして、生と死の狭間で、凍れる時の中で、ソフィアは魂を喰らう“ソレ”を視た。
◇
朝だ。
カーテンの隙間から差し込む光でソフィアはそれを認識した。寝起きで殆ど機能していない知性もそれを肯定している。
意識が肉体に収まると同時に、何故か全身に寒気を感じる。
幸せな様な、おぞましい様な、そんな夢を視た気がするが……思い出せない。
寒気は止まない。
風邪かと思って毛布を捲れば、いつの間にか一糸まとわぬ姿になっていた。
寒いだろうからと厚手の寝間着にしたら、むしろ暑くなってきたので眠りながら脱いだ、気がする。朧気ながら覚えている。
「むー」
意識がまだ完全に目覚めていないようだ。半覚醒のまま水差しを取ろうと手を伸ばす。
その途中で何か柔らかいものに進路を阻まれた。水風船のような感触で、触れていると何故か落ち着く。
「ん……」
「イリス?」
同室の従者の悩ましい声を耳にしてようやく意識が覚醒する。
見れば、すぐ隣でイリスが枕を抱きしめるようにして眠っていた。寝息を立てるイリスはシャツ一枚で下着すらつけていない。
いつもは胸当てで隠れている二つの果実がベッドに押し付けられ、シャツの隙間から今にも零れ出そうになっている。
自分の手はその峻厳な谷間に挟まっていた。
周囲を確認する。自分のベッドが向こう側に見える。寝ぼけて相方のベッドに潜り込んでしまったのだろう。覚えていないが稀によくある。
「えっと……」
もう一度自分の手を挟んだままのイリスを見る。年齢的には殆ど同じなのに、その全身には柔らかさと女らしさが息づいている。
ほんのり赤みを帯びた頬にリボンと共に白髪がはらりとかかって彼女の美しさを際立たせている。
視線を下ろして自分の裸体を見下ろす。病的なほどに青白い肌と薄く、硬さの残る胸と尻。
(一緒に生活をしているのに真逆……不思議)
イリスに言わせれば「何もせずにそんなに細いなんて反則」らしいが、体力を付ける意味でももう少し厚みが欲しい所ではある。
(男性は大きい方が好みのようですし……)
兄が巨乳好きなのは察している。
最近はなくなったが、昔は胸が大きい人にあった時に若干視線が動いていたのをイリスがしっかり見ていた。偶に“読めた”こともあった。
前に酔っぱらったイリスにそれを指摘されて珍しく本気で凹んでいたのを思い出す。
魂の差異に比べて外見の違いなど些細なものでしかないが、社会ではそれが随分と重視される、らしい。
不合理だ。その程度なら魔法でいくらでも繕える。
やろうと思えばこの場でイリスと同じ体型に見えるようにもできる。何の意味もないが。
――だが、ならお前は何が大事なのかと訊き返されたとき、きっと自分は答えられない。
「わたしは、何なのでしょう……」
そんなことを考えていると無性にカイに会いたくなる。この問いに答えをくれる気がするのだ。何もない自分とは違う、確かな答えを。
「今度きいてみましょう」
「……ソフィア?」
呟きに反応したのか、イリスがあくびしながら起き上った。
「おはよう、イリス」
「ん、おはよー。朝食どうする? 作ろっか?」
寮の部屋には一室ごとに簡易キッチンがあるので朝食程度なら作ることもできる。気晴らしや調理技術の習得のために料理をする者も少なくない。
そうでない者は割安な学園内の商業区にある食堂を利用するか、乗り合い馬車を利用して街まで出るかする。
「今日は食堂へ行きませんか?」
「ん、じゃあ着替え出すね」
アルカンシェルで一番料理が出来るのはイリスだ。
いつもは簡単なものしか作らないが、材料と器具があれば貴族お抱えの料理人に迫る物を作ることもできる。
逆に兄や自分は時間が非常にかかってなんとか食べられる物をだせる程度だ。
なので、自炊する時は手を出しても邪魔になるだけなのでイリスに任せっぱなしだ。
そしてカイは……調理はできるが料理にはならない。毒抜きして、腐ってなくて、噛み千切れることがカイの調理基準らしい。
先日の依頼で野営した時に干し肉をかじりながら言っていた。
それでできるのは断じて料理ではないだろう。
イリスが教育してやると意気込んでいた。たしかに、おいしい食事というのは人生でも重要な要素の筈だ。ソフィアでもそう思う。
ギルドを結成してから半月が経ち、いくつか依頼を受けてきたが、その中でカイが戦闘関係以外は本当に興味がないことを知った。
カイの事を知れたのは嬉しくて、しかし知れば知るほど寂しくなるのは何故だろうか。
「……着替えなきゃ」
「はい、これね」
イリスが衣装棚から出してくれた服に袖を通す。
従者は何も言わなくてもその日自分が着たい物を選んでくれる。もう十年近く仕えて貰っている。その程度の意志疎通は造作もないだろう。
今日は講義がないので戦闘用ではない。
それでも一応、そのまま上からローブを被っても動きを阻害しないシンプルな白のワンピースと厚めのストッキングだ。
隣でイリスもホットパンツにシャツとベストの軽装に着替える。
ベルトには薬瓶を引っ掛ける所があり、――本人が言わないので黙っているが――ベストの裏地に毒ナイフが仕込んであるのをソフィアは知っている。
自分や兄に気遣わせたくないが為に黙っているのだろう。なら、それに甘えるのも護衛される側の役目だ。
「んじゃ行こうか」
屋敷では考えられないほど砕けたイリスの物言いに頷く。学園に入って最初にイリスに頼んだ事だ。これからは人前でも対等に話そう、と。
少なくともパーティ内で貴族がどうのなどと気にしたくはなかった。
貴族だろうと奴隷だろうと死ぬ時は同じように死ぬのだ。自分はまだ“あそこ”に還る気はないし、ギルドの皆を逝かせる気もない。
本人は気付いていないが、それは少女が初めて手に入れた執着、自我と呼べるものだった。
◇
イリスと連れ立って学園内を歩く。
すれ違うだけで脳内に曖昧模糊とした声や下卑な思考や嫌味が聞こえてくる。全て無視を決め込む。
ソフィアとて常に心を読んでいる訳ではない。
ある程度は意識的に“塞いで”いるし、そうでなくとも多くは聞き流している。でないと情報量の多さに狂ってしまう。
とはいえ、こちら側の集中力とは別に人の心や魂には波があるようで、同じ人でも時と場合によってどの位読めるかが変わってくる。
例えばイリス。数少ない家族知人の中でも特にムラがあり、簡単に読めることもあれば表面的な感情さえ読めないこともある。
魂については読まれたくないようで完璧に拒絶されている。イリスの唯一といっていい願いだ。彼女はそれ以外の全てを職務に捧げている。
そこに踏み込む時が来たなら、おそらく己の全てを賭けることになるだろう。
イリスとは逆にクルスとは波長が合いやすく、安定して思考まで読める。
が、逆に表層の感情は板を一枚――兄らしく考えるなら盾だろう――を挟んだように伝わりにくい。
自己への厳しさの表れだろうが、他者と比べて頑なに過ぎる。あるいは本人ですら自分が感情を硬化させていることに気付いていないのかもしれない。
……それを伝えた時、おそらく自分では兄を支えきれない。
自分は、無力だ。
どれだけ魔法が使えても、心が読めても、家族の歪みすら治せない。
「ソフィア、あんまりノンビリしてるとご飯食べる時間無くなるよー」
「あ、はい。今行きます」
ソフィアの表情から何かを察したイリスが声をかける。
思考を振り切り、少女は従者を追って歩き出す。
そして、最後のひとり。
カイには――“波”がない。
こちら次第で常にどこまでも深くいけるし、逆にこちらが聞きたくないと思えばまったく聞こえない。
時や場所に影響を受けない不惑不動、必ずそこに“そう在る”中庸の精神。
鋼のように強靭で、翼のように自由な魂。
魂の奥底まで共感した際に感じた感動を少女は言葉では言い尽くせない。
そして、それこそが少女自身気付かぬ内にその心を自覚させた。
読心の弊害。他者の心情に流されて模倣と自動的な反応ばかり返していた少女はもういない。
自分のなかったソフィアは今、カイという灯台を得て、感情の大海の中で急速に自我を成長させていた。
とはいえ、それを少女が自覚するのはもう少し先の話である。
◇
朝食後、授業のあるイリスと別れ、午後の依頼まで図書館で過ごすことに決めた。
ギルドを結成してからの日課、カイの心臓に掛けられた呪術について調べる為だ。
学園内を突っ切るように歩き、魔術の塔の西にある図書館へと向かう。
学長であるローザ・B・ルベリアが卓越したウィザードでありクレリックであるのを皮切りに、英雄級の教官が揃うこの学園は常に更新され続ける彼らの研究成果を含め、蔵書においても他の追随を許さない。
大陸として見れば青国の国立図書館に蔵書量で及ばないものの、常に貪欲に仕入れられる最先端の知識と戦闘系魔法に関する蓄積は十分比肩しうるだろう。
さらに言えば、国に属していない人間が容易く入れる場所としても最高の環境である。他の研究機関ではソフィアのような小娘はよくて雑用、悪ければ実験体だろう。
受付を済まし、地上三階地下一階の内部で呪術に関する資料を探す。
蔵書の殆どは既に目を通している。今は新しく持ち込まれて、未整理のまま積まれた本を消化している途中だ。
少女は無言で読み進めていく。
その大半の部分が禁術とされている為、呪術についての情報はかなり少ない。今月入った本も今日明日中にはすべて調べ終わるだろう。
(卒業するまでに目処がつけばいいのですが……)
先達たる教官たちの研究が進展して解除できるならそれに越したことはない。だが、呪術の解析は難航している。
その代わり自分の勉強も難航しているが。それでも、魂を視るという点においてソフィアの才覚は教官達よりも頭三つほど抜きんでている。
これから先、さらに呪術を深い視点で解析する必要が出た時、この能力が必要になってくる。その時になって勉強不足ですなどとなれば笑い話にもならない。
だから、頑張ろうと少女は決意を新たにする。
「……おはよう」
不意に、頭上から声をかけられた。
見上げれば魔術師然とした黒のローブと三角帽子を被り、目尻を下げてあくびする女性が箒に腰かけてふよふよと空中に浮かんでいる。
ソフィアもよく知っている人物だ。
ヴァネッサ・アルトレングス魔法担当教官。
億劫そうな見た目に反して――歩くのが面倒くさいからと浮遊の魔法を使うような怠け者なのは真実であるが――学園設立時から在籍しているベテラン教官であり、学園における呪術研究の主任でもある。
「こんにちは、ネッサ教官」
「……もう昼なんだ」
ソフィアが笑顔で挨拶を返すと、ヴァネッサの波打つ緑髪から突き出た尖った耳がぴくりと動いた。
彼女は緑神の民とも呼ばれるエルフの血を半分引いたハーフエルフであり、人よりも遥かに寿命が長い。
そして、その長い半生の大半を研究に費やした根っからの探究者でもある。
「少し出てくる……ソフィアもあんまり根詰めすぎないように」
「わかりました。一旦区切ります」
教官の言に逆らわず本を置く。
ソフィアが学生の身で呪術の研究ができるのは彼女の確立したノウハウのお陰だ。一から独りで手を出していたら既に狂死していただろう。
ヴァネッサは正気のまま生き残っている呪術研究者としては大陸でも指折りだ。
かつて、青国の魔術師協会に所属して研究していた際に、研究し過ぎて拘束されそうになったので学園に逃げ込んで来たという。
どう考えても国際問題になった筈なのに、学長はどうやって乗り切り、あまつさえ研究継続を勝ち取ったのだろうか。考えてみれば謎である。
青国の対応は決して間違ってはいない。
――関わってはならない。
それが呪術に対する人間の基本姿勢だからだ。
魔力操作および術式構成スキルは大別して三種ある。
一般に知られているのは、障壁などの魔力を直接変化させる“術式”と、魔力を触媒として高次元にある元素と感応して奇跡を起こす魔法、正確には“発現魔法”と呼ばれる二種だ。
術式には刻印術式のような高度なものもあるが、基本的に、効果は低い代わりに難度も低い技術だ。
対する魔法とは触媒とした魔力を通り道として元素を呼び出し、その力を借りて奇跡を顕現させる技術だ。魔力消費や難度が高い代わりに効果も非常に強いものが多い。
これらの違いで代表的なのはクレリックの『治癒術式』と『再生魔法』の違いだろう。
治癒術式は本人の持つ自然治癒力を増大または加速させるものだが、再生魔法は文字通り元の状態を復元する。その効果はたとえ本人が死んでいようとも、魂が散逸してさえいなければ蘇生できる程に強力だ。
このとき、魔法には魔力操作以上に高次元の元素を捉える為の“感応力”と術式を構成する為の“精神力”という先天的才能が重要となる。ウィザードやクレリックが前衛と比べて少ないのはこれが原因だ。
ともあれ、術式と魔法、この二つは『術者が魔力を消費する』という点においては近しい技術である。
同様にサムライの刀気解放は武器の貯蔵魔力を消費し、モンクは消費するのが気力、つまり生命力と異なりはするが、原理はそう変わるものではない。
だが、“呪術”だけは根本からして外れている。
何かしらの事象を起こすというのは魔法と似ているが、それが“何故起こるのか分からない”のだ。
さらに、消費した魔力は魔法や術式のように大気中に還ることなく、どこかに忽然と消えてしまう。その行方も判明していない。
何より、攻撃魔法における黒神。治癒術式、再生魔法における白神と異なり、誰が呪術を人間に授けたのかが分からない――呪術を修める呪術士は明らかに何かと契約しているのにも関わらずだ。
過去、多くの者がこの謎に挑んだが結果は散々だった。多くの学者や魔術士が発狂し、怪死した。
故に、その技術体系を許可なく研究すること禁止する“禁術”の一種として区別し、赤国のギルド本部と青国の魔術士協会が連盟で封印した。
呪術と呪術士。これらはあってはならない存在だ。
魔力はこの星の生命力に他ならない。それが還元されず、何処かに消えてなくなるようなことになれば、このパルセルト大陸はおろか、世界全土が荒廃してしまう。
だが、いつの時代にも禁忌に触れようとする者は絶えない。敵を滅ぼそうと考えた時に呪術に頼ろうとするのは、残念ながらよくあることなのだ。
毎年、少なくない数の人が呪術に関わって亡くなっている。
そういった事態への対抗策として呪術を解除する為の技法は各国の学問機関で研究、保持されている。このルベリア学園でも同様だ。
ソフィアはカイに掛けられた呪術の研究しているヴァネッサ魔法担当教官、ヤコブ錬金術担当教官を手伝って、カイの血液を調べたり、魂の状態を診断したりもした。
結果、それが学園の知識にはない未知の呪いだということが確認できた。
今は彼女たちの更なる解析待ちだ。
ソフィアも内容を見せて貰ったがまったく意味が分からなかった。呪術に対する根本的な知識が足りていない事を自覚した。
ただ、教官たちも全くの手探りなのでどれだけかかるのかも分からないらしい。
そもそも、生物を生かしたまま“魔力だけを無くす”というのは原理的に不可能なのだ。
魔力は空気のようにそこかしこに遍在する霊的エネルギーであり、個々人の固有の魔力は、これを魂の中に取り込み、己に合う形に精練、生成された後、体の中を循環させているものだ。
この吸収と循環の原理は魔力を核とする魔物にすら該当する生物の常識であり、魂があれば自動的に起こる現象だ。
魂が魔力を生成しないとなれば、それはもう魂が機能を停止しているということ。そして、魂が機能停止しているならば、肉体の状態に関わらずその生物は“死んでいる”のだ。
だが、カイは生きている。おかしなことに魂にも異常はみられない。
魔力を活動エネルギーとし、魔力と核――魔物の心臓にあたる部分である――が密接に関わっている魔物ならともかく、人間の心臓と魔力に関連性は薄い。人間が死んでも魔力結晶が出来ないのがその表れだ。
教官たちと出した仮説は、この呪術は魂に作用する物ではなく、本来は肉体と精神に影響を与えるものであり、その効果から自身を守る為にカイの体が本能的に魔力を“食わせて”呪いを抑制しているのではないか、というものだ。
ソフィアとしても十分に納得できる説であった。といっても証拠はない。今のままでは仮説のひとつに過ぎない。
ひとまず知識を補う為に精神汚染系の呪術を調べているが未だ成果はない。解決策まで至らずとも教官たちの手助け位にはなりたいというのに。
だが、そもそも原理の分からない呪術に対する解決策は少ない。多くは力尽くだ。
一度仮死状態にして呪術を終わらせた後に蘇生させる、などという手もある。しかし、おそらくカイはその手の方法は既に古巣で試しているのだろう。侍の所属していたのはそういった災害の対処に特化した部門なのだ。
実戦的な解呪が効かず、学術的な方向から研究し、そして、難航しているのが現状の筈だ。
「だけど……」
実の所、方策はある。ソフィアは知っている。
前に一度カイと共鳴した少女は、彼自身は掛けられた呪術が本来はどんな効果なのか体験していることを察していた。
そこに糸口がある。だが、カイ本人にとってもトラウマらしく記憶の大半が欠けている。
覚えていないことはソフィアにも分からない。
なにかショックがあれば思い出すのかもしれないが、記憶の断片から見てそれが最大級のトラウマであることは確かだ。
あるいはこれから先、思い出すことのない人生である方が幸せなのかもしれない。
彼はもう十分に苦しんだのではないか。垣間見た記憶から少女はそう想った。
丁度その時、遠くで正午の鐘が鳴るのが耳に入った。
「……時間、ですか」
ソフィアは本を返却して教会の依頼を受けに向かう。内容はクレリックとして教会の治療室の手伝いだ。
学園の教会は有料で治療も引き受けている。ただし、それは業務と言う訳ではなく、本来は無医村などで行われる暫定的な処置だ。
ただ、学園内にある施療院が常に満員なので、主に怪我などの外傷の治療を受け入れていたら、そのままなし崩し的に外傷者を全面的に受け持つことになってしまったのだ。
冒険者は怪我をするのが仕事と言われるほどに生傷が絶えない。故に、怪我人がひっきりなしにやって来るので慢性的に癒し手は不足しており、クレリックの学生向けに年中手伝いの依頼が出されている。
だが、肉が裂け、骨が折れ、血が噴き出し、時に悲鳴をあげている人間が運び込まれる現場で治癒術式を使い続け、包帯を巻き、薬を処方するのは好き好んでやろうと思える依頼ではない。
だが、ソフィアは時間が空けばこの依頼を受けていた。
元々は前衛で攻撃を引き受けている兄を助ける為の治療技術と経験を学ぶのが目的だった。
だが、自分の能力を効率的に使用できることに気付いた後は積極的に受けるようになったのだ。
他の人とは色々と感性が違うソフィアは、初めて依頼を受けた時から、噴き出す血に竦むことも零れた内臓に悲鳴を上げることもなく、その膨大な魔力を駆使して淡々と治療を続けることが出来た。
ソフィアにとってみれば、常に様々な感情が渦巻く人間の心より“痛み”で統一されている時の方が“静か”だと思えるのだ。
精神的な動揺さえないなら、あとは魔法、術式の腕次第。勿論、軽傷程度ならば現役冒険者のソフィアの手に負えないことなど有り得ない。
こんなことを貴族の娘にさせて良いのかと悩んでいたクイント達もその手腕には唸るしかなかった。
教会に着いたソフィアは勝手知ったるとばかりに、奥の居住区で身を清め、白衣に着替え治療室へと向かった。
本来は食堂だという広間のそこかしこに怪我を負った学生が寝転がっている。
忙しく指示を出している司祭に一言告げて手伝いを始めた。
客観的に見れば美少女で、なおかつ手際の良いソフィアに当たった運の良い学生が歓声を上げる。
そんなに怪我が治るのが嬉しいのだろうかとソフィアは内心で疑問に思いながらも次々と治療を施していく。
喜んでいるのは分かっても何故喜んでいるのかが分からない。読心の上位の共鳴まで踏み込めば別だろうが、別段興味のある話でもないので少女は無視した。
司祭やクイントに比べて腕は劣るが、とにかく魔力に余裕のあるソフィアは主に軽傷の患者を数多く相手にする。
施療院との住み分けのおかげで教会に運ばれてくるのは主に軽傷の患者だ。治療できないなどということはないし、もしあれば施療院に運ぶだけだ。
ただ、軽傷であっても数が膨大で手も魔力も足らなかったのが問題だったので、ソフィアの存在は掛け値なしに救い手だった。
一刻ほど経つとソフィアひとりで半数近い患者の治療が終わっていた。
軽傷な者を中心にしているとはいえあっという間に治療室が空いていく様は圧巻だ。
ただ、患者が多くて忙しくしている時は皆気を遣って話しかけないが、ソフィアの手もある程度空いてくると治療にかこつけてお近づきになろうとする学生も出てくる。
負傷から復帰したてで心身が昂ぶっている所為もあるが、そういう輩はクイントが容赦なく蹴り出していく。
治療の終わった者はすぐに治療室をでていき、礼拝堂で多少の寄付を払うのが慣習だ。
寄付を渋る者はいない。強制はされていないが、神の御前でそんなことをして加護を失ったりしたら目も当てられないからだ。
信仰心や善悪と加護の間に関係性はないが、それでも“もしも”を考えるのが人間の心理である。
今日は二刻と経たず患者を捌き切った。新たに患者が運び込まれることもなく、そのまま時間になったので報酬を受け取り、普段着に着替えたソフィアは教会を出た。
太陽の位置を見て、日没までまだ幾分か猶予があることを確認してひとつ頷き、カイのいる草原へと歩き出した。
◇
「……いませんね?」
いつもの大樹の前に来たソフィアは珍しくカイが不在なのに気付いた。ギルドの誰かと訓練に行く時以外にカイが此処にいなかったのはこの半月で初めてのことだ。
「……ん?」
そんな折、ソフィアの耳に微かに水音が聞こえた。耳を澄まし、音のする方へと歩いて行く。
そうして辿り着いた川には上半身裸のカイが浸かっていた。
「ソフィアか」
細長い投擲用の小刀を構えたままカイが告げる。
水浴びも兼ねていたのだろうか。いつもは後ろで束ねている黒髪も今は解かれ、しっとりと濡れたまま背中に広がっている。
傍の木には普段着ている黒い道衣と体を拭く布が掛けてあり、根元には薪が組まれ、その周りにハラワタを抜いて串を刺した魚が並べてある。
「御夕飯ですか?」
「投擲の訓練だ」
言っている間に小刀を水中へ三本投げ入れる。
風と水を斬って飛ぶ刃は三つとも泳ぐ魚のそれぞれの頭部へ正確に突き刺さり、その身を水底へ沈めていった。
「お見事です。貫通の技能ですか?」
「いいや。投げただけだ」
貫通はファイターの投擲技能だ。
狙いがあまりに正確だったので何かしらの技能を使ったのかソフィアは思ったのだが、よく考えてみれば、魔力のないカイに貫通の技能は使えない。
カイは静かに水中を進み魚と小刀を回収する。腰まで浸かる深い川だが、水中での歩みは殆ど波紋を立てていない。
前に隠密機動のコツは空気を揺らさず動くことだとイリスに聞いたのをソフィアは思い出した。少女には理解すら及ばない武と技の世界だが、そういうものなのだろうと受け入れたのを覚えている。
カイはそのまま鰓から指を入れてハラワタを抜き、簪のように髪に差していたピック状の暗器を引き抜き、串代わりに刺し込んだ。
無造作に見えて食べる部分には傷をつけていない。非常に手慣れた手つきだ。
これで味に執着さえしてくれれば料理も上手くなるだろうにと、少女は少しだけ残念に思う。
投擲訓練はこれで終わりのようで、カイが串を刺した魚を持ったまま陸に上がった。
カイが近づくにつれ、傷のない所がないかと思うほどに全身に刻まれた古傷の数々が目に付くようになる。
だが、真に目を惹くのは傷痕ではない。その体自体だ。
空恐ろしくなるほどに鍛え抜かれ、絞り抜かれた鋼の様な肉体。敏捷性を保つギリギリまで詰め込んだ筋肉と、武器を振るのに適した手足の長さ、重心、骨格。
生まれついてでは決して有り得ない。おそらくは体が成長しきる前に“作り変えた”のだろう。
それがどれほどの修練によってなされたのか、ソフィアには想像もつかない。
先程まで診ていた学生達とは根本からして作りが違う。ただ戦う為だけに鍛え抜かれたその身は一振りの刀のように鋭利な美しさがある。
じっと見ているとソフィアの心中にむくむくと興味が湧いて来た。
「お身体、触ってもいいですか?」
「……かまわんが」
「ありがとうございます」
突然の申し出にカイは怪訝な顔をしたが断る理由も思いつかず、少女の好きにさせることにした。
ソフィアは礼を言って、まだ濡れているカイに触れる。
とりあえず二の腕をみてみる。硬いかと思ったら意外に柔らかい。刀という速さで斬る武器を使うのに腕をしならせる必要があるからだろう。関節も踊り手か何かかと思うほど柔軟だ。
「これは……凄いですね。筋肉の質も骨の感じも根本から違います。神経もかなり太い」
「……よく分かるな」
「教会の治療室でお手伝いしているので、多少知識があるんです」
カイの体をペタペタと触った後、今度は自分の体に触れる。
本日二度目だ。冒険者とは思えない貧相な体に知らず溜息をつく。美しさを完成度として考えるならば、カイと自分の肉体には天地ほどの差があるだろう。
そう考えると、外見など何も関係ない筈なのに何故か少女の心は重くなった。
「とても同じ人間の体とは思えません」
「そうか?」
「……ご覧になりますか?」
「いやいい」
「魚焼くのに火を起こしますよね? せっかくですから私も水浴びします」
ソフィアは構わず脱ぎ始めた。ワンピースとストッキングを脱ぎ、そのまま下着まで脱ぎ始めたところでさすがにカイが止めた。
ひとまず胸と尻を薄手の布地で隠しただけの軽装で川面を爪先で突つく。
「一応言っておくが、水温はもう――」
「つめたッ!?」
「……」
カイは何も言わず髪を紐で括り、道衣を羽織って焚火の準備を始めた。
ソフィアは初心貫徹の精神で、歯が鳴るのを抑えながら水浴びを開始した。
モンクの修行にこういうのがあると聞いたことあります、などと思考を巡らしながら、寒いのを我慢して体に水をかける。その度に小さな悲鳴が口をつく。
おかしなことをしているとは一応自覚している。自分でも何故こんなことをしたのか分からない。
ただ、カイに近づいた時に微かに血の匂いがしたのが恥ずかしかったのだ。それがなんという感情なのか、ソフィアにはまだ分からなかった。
◇
「何しているんだ、お前達は……」
「さすがに寒いから勘弁かなー」
カイが着けた焚火から立ち昇る煙を目印にしたのか、ほどなくしてイリスとクルスがやって来た。
二人とも震えながら下着姿で水浴びしているソフィアを見て呆れている。
「んー、いい匂いがするー」
近づいて来たイリスが鼻をひくつかせる。
焚火のまわりで焙られている魚は脂が溶けだし水気が飛び、丁度食べ頃になっている。
「食うか?」
「いいのか? お前の夕飯なのだろう?」
「誰か来ればやるつもりだった」
「ん、一応みるよ?」
イリスは護衛として彼らが口に入れる物は最低限チェックする義務がある。
カイは頷きで返した。
その間に、道衣と一緒に掛けていた布を取りソフィアへ投げ渡す。
「ソフィアももう上がれ」
「はい……」
礼を言って少女は体を拭いていく。途中で一度小さくくしゃみをするのをみて、クルスが顔を顰めた。
「丈夫な方でもないのだから無理をするな」
「すみません、兄さん……」
「はいはい。二人とも、ね」
暗くなる兄妹の雰囲気を打ち破ったイリスがソフィアに手早く服を着せ、串を手渡す。
「ありがとうございます」
「すまない。いただこう」
二人は串を持って魚に噛みつく。
味付けはされていない。が、獲り立ての新鮮さと、森の中で食べるという雰囲気が魚本来の味を際立たせている。予想以上のおいしさだったのだろう。二人とも言葉もなく食が進んでいる。
その光景を笑顔で見ているイリスにカイは声をかけた。
「お前はいいのか?」
「うん。気にしないで」
「……他人から手渡されたものは苦手か?」
「ッ!? あー、やっぱりわかっちゃうのね」
「まあな」
従者は与えることはできても、与えられることには慣れていない。
侍にしても理解できることだ。これは信頼の問題ではなく、習性のようなものだ。
「イリス……はい」
それを見てソフィアが自分の持つ串をイリスに差し出した。
「い、いや、あのね」
「他人でなければよいのでしょう?」
「えっと。そうだと言えばそうだけど……」
「いい機会だ。何事も慣れ。違うか?」
子供の好き嫌いを矯正する親の様な表情をしたクルスにまで背を押されてしまい、イリスは観念して口を開けた。
「あーん」
小さく口を開けて焼き魚にかぶりつく。
「どうですか?」
「……ん、おいしい」
「カイもどうぞ」
「いや、自分で……」
「ダーメ。カイも道連れよ!!」
いつの間にかイリスも新しい串を手にしている。
カイも諦めて口を開く。そっと口元に寄せられた焼き魚に噛みつき、何度か噛んで咀嚼する。餌付けされているような気がして落ち着かないが、こういう日もあるだろうと文句も呑み込んだ。
その後、クルスも巻き込んで日が沈むまで皆で騒ぎ続けた。
◇
「そういえば、カイはどこで暮らしてるの? いつもここら辺に居るよね」
獲った魚が消費尽くされ、何をするでもなく皆で焚火に当たっている最中、ふとイリスが問いかけた。
「そこの奥に小屋を建てている」
侍はそう言って大樹の向こうを指差した。
クルス達が大樹をぐるりと回って見れば、奥には切り拓かれた小さな空き地があり、薪割りや焚火の跡と共に藁葺き屋根の小屋が建っていた。
「……小屋、まあ、たしかに小屋だが」
クルスが小さく唸る。今までにも何度か視界に入ったこともあったが、ずっと物置か何かかと思っていた。テントよりはマシといったレベルだ。
「魔力のないこの身は魔力錠もランプも使えない。ここで暮らしている方が楽だ」
魔力錠とは自身の魔力を鍵として登録する生体認識錠だ。
学園には至る所にこのタイプの鍵が付いている。それに適合できないカイとしては四つの塔に行くのも億劫だろう。
(これはカイの為にも早くギルドハウスを確保した方がいいか)
クルスが今後の予定を修正している横でイリスが首を傾げている。
「あれ? 魔力錠使えないなら教室入れないじゃん。授業は?」
「免除されている」
「そうなの!?」
「その代わり、呪術研究用の被検体だがな」
教官たちと呪術の研究をしているソフィアが微妙な顔をする。
「そういうつもりでは……」
無いとは言い切れない。自身の興味を満たすという気持ちがないかと言えば嘘になる。
カイはイリスに睨まれ、自分の言動を思い返してソフィアへと頭を下げた。
人の機微に疎いカイだが、それでも少女が自分の為に呪術の研究をしていることへの感謝の念は持っていた。
「すまない。揶揄するつもりで言ったのではない。助かっているのも確かだ」
「はい……あ、“中身”を覚えているのですか?」
無意識にカイの内心を読み取ろうとしたソフィアが関連する記憶まで読みこんでしまった。
「呪術を起こせば、暴走する。それは確信している」
「……」
薪が割れる乾いた音が森に響く。
「呪術はやはり呪術、禁術ということか……」
「カイにそれ押し付けたのってどんな奴?」
イリスが串を片付けながら問いかける。
カイは顎に指を添えて記憶を探る。
「顔は覚えていない。首を斬り飛ばしても再生した。会えば心臓が共鳴する」
「首を……人間、なのか?」
「さてな。自信はないな」
「ねえ……復讐したいとか思わないの?」
イリスがふと問いかける。前髪に隠れて表情は見えない。
カイは目を閉じて自分の心中を掘り起こす。暫くして首を横に振った。
「特にそういった感情はない」
「……私はたぶん、私を捨てた親に会ったら射っちゃうと思うな」
そのおかげでみんなに会えたんだとしてもね、と乾いた笑いを浮かべるイリス。
ああ、とそれにはカイも同意を返す。
「それなら俺もそうだ。復讐心はなくとも殺意は有る。どんな感情があったかなど、斬ってから考えればいい」
「ま、そうだよねー」
「い、いいのかそれで……」
「兄さん、感情はその人だけのものです。それは、どれだけ鮮明に読み取れても変わりません」
「……そうか」
四人はそのまま何をするでもなく焚火を囲んで雑談を続けた。
そうして月が顔を出した頃、ふと気が付くと、カイの隣でソフィアがこくりこくりと船を漕いでいる。寒空の下で行水したのが想像以上に体力を消耗させていたのだ。
「ありゃ、随分静かだと思ったら。どうするー?」
「部屋まで運ぶか? 同室のお前がいるなら鍵は開くだろうし」
「一応男子禁制なんだけどね、ウチの寮。あ、カイの家で休むっていうのは?」
「ベッドはないぞ」
「……どうやって寝ているのだ?」
カイは何も言わず視線を下げた。この体勢で、ということだろう。
そういえば車中泊の時でも横になった所を見たことがない、と思い返しつつクルスは半ば本気で呆れていた。
カイがどのような教えを受けたのかは知らないが、ここまで徹底して隙を無くそうとするなど狂っているとしか言いようがない。
「……カイ、可及的速やかにギルドハウスの手配をする。すまないが、それまで我慢してくれ」
「特に何も我慢していないが?」
クルスはがっくりとうなだれた。その隣で本気で同情しているイリスが慰める。
「クルス、あんたは間違ってないよ。私たちの精神衛生的にもさっさと手配しちゃいましょう」
「あ、ああ。そうだな」
そうこうしている内にカイが焚火の後処理を終えた。
そのままソフィアの背と膝裏に腕を差し入れて抱きかかえる。髪がまだ濡れているので背負うのは避けた。
「行って帰るのが面倒なら俺が運ぶが?」
クルスの提案にカイは首を横に振った。
「よくは分からんが、ソフィアが水浴びしだしたのは俺の影響だろう。なら、責任は持つべきだ」
「ふむ。なら、よろしく頼む」
「送り狼にならないようにねー」
「いや、お前は同室だろう!?」
思わず突っ込んだクルスにイリスは意地の悪い笑みを返す。
「それなら、私は席外そうかなー」
「魔力錠を開けて貰わないといかんのだが」
「……いや、そうなんだけどね」
カイに抱きかかえられたまま静かに眠るソフィアの頬を撫でながらイリスは慈愛に満ちた笑顔を向ける。
「ソフィア、最近夢見が悪いみたいでね。夜中に震えている時もあったんだ」
今日は全裸だったからかもしれないけど、と付け加えられた一言にクルスが頭を抱えているがイリスは無視した。
「それで?」
「カイが一緒に居たら怖くないかもしれないかなって思ったの。アンタなら悪夢だって斬っちゃうでしょう。どう?」
「……さてな。とりあえず運ぶ。本当に風邪をひきかねない」
「はーい。ほら、クルスも項垂れていないで、もう行くよ」
月明かりが照らしはじめた道を連れ立って歩く。
そうして、嵐の間の凪のような平穏な一日は終わりを告げた。