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刃金の翼  作者: 山彦八里
二章:ギルド
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18話:従者の日常

 それはどれだけ前のことだっただろうか。

 幼い自分は母に手を引かれて夜の森を走っていた。

 母の表情は必死そのもの。歩幅の違う自分は時に木の根につっかえながら、なんとかついて行っていた。

 なぜ、同じ村の住人から逃げているのか。なぜ、父がいないのか。

 幼い自分は何も知らなかった。ただ、母に連れられて走っていた。


 どれだけの間、森の中を逃げ進んでいただろうか。気付けば周囲は鬱蒼とした木々に囲まれていた。湿ったような空気は森の奥深くに来たことを示唆している。

 母の足が止まるのに合わせて自分も止まり、荒れた息を整えようとした。


「どうするの、お母さん?」


 他領に続いている上に、この辺りは魔物も出る為、入ることを禁じられていた筈だ。

 息継ぎの合間にそう問おうとして、振り向いた母親の姿を見て息を呑んだ。


 母は胸元から肩口までを大きく斬られていた。裂かれた服の中からじわりと赤黒い血が滲んでいる。

 控え目に見ても重傷だ。ここまで走ってこられたのは奇跡――あるいは母としての意地か――だったのだろう。


「お母さん、ケ、ケガしてる!? はやく手当しなきゃ!!」

「いいのよ、■■■■。それより、あなたはここで隠れてなさい。かくれんぼは得意でしょう?」

「で、でも……」


 ――お母さんはどうするの?


 今でも思い出す。

 何故、この時の自分はその先を言えなかったのか。

 二人で隠れて父を待つ。失敗する可能性は高くとも、それが最善だった筈だ。

 母は自分のようにうまく隠れることはできなかったが、それでも自分が手伝えば追跡を逃れることも出来たかもしれないのだ。


「お母さんは大丈夫よ。だから、あなただけでも――」


 そう言って、命を振り絞って必死に笑顔を浮かべた母は元来た道を戻っていった。自分への追跡を撒く為に。


 自分は言われた通り、隠れた。隠れるのは得意だった。

 きっと父と母が迎えに来てくれる。そう信じ、息を殺してじっと待っていた。


 太陽が昇り、沈み、再び昇っても迎えは来なかった。

 空腹になることはなかった。幸い、森の奥は人の手が入っておらず、父に教えられた狩りや採取の方法で、幼い自分でも水や食料は十分手に入った。

 だが、腹は膨れても、孤独は癒えなかった。心は少しずつすり減っていった。


 一週間が経った。遂に迎えは来なかった。

 自分は村へと戻ることにした。一人きりに耐えられなかったのだ。

 人と“違う”からと自分たちを追い立てたのが村の者たちだと分かっていても、それでも構わなかった。

 このままひとりでいるよりは、いっそ――。



 ある意味、予想通り、村の外れにあった自分たちの家は打ち壊され、燃やされていた。

 生まれた時から暮らしていた家を焼かれたことは、居場所を失ったことはとても悲しかった。

 そして、その時になって違和感に気付いた。


 ここまで近づいても人の気配がしないのだ。


 不安と嫌な予感を抱えつつ、村へと向かった。


「…………え?」


 辿り着いた村はまるで嵐にでもあったかのように全てが跡形もなく打ち壊されていた。

 家も、人も、何もかもが破壊されていた。火事の痕はないのに、微かに人の肉の焼けるにおいがした。


「だれか、いないの?」


 呼びかけた声は空虚に響いた。

 応える者はおらず、そして、その時になって自分は本当に“孤独”になったのだと自覚した。


 心の中、何かが崩れ落ちる音がした。


 無言で踵を返して森へと戻る。

 孤独なヒトは“人間”ではない。ならば、獣のように暮らすのがお似合いだろう。

 幸い自分には隠れる術も、“矢を生み出す”力もある。森の中でも生きていける。


 そうしている内に言葉を忘れた。名前も、歌も、何もかも忘れた。

 いつしか両親の顔も思い出せなくなった。孤独な自分には必要なかったからだ。


 どこか色彩を失った森の中、曖昧とした意識のまま自分は生きていた。


 ――彼女(・ ・)に出会うその時まで。



 ◇



 朝だ。窓の向こうでは春の太陽が陽光と暖かさでもって世界を照らしている。

 体内時計が起床時刻を指すと同時にイリスはぱちりと目を開けた。

 部屋には一人きり。当然だ。ギルドハウスは全員に個室が宛がわれている。

 だが、夢見が悪かったせいか、それが少しだけ寂しかった。


「……朝ごはんつくらなきゃ」


 パン、と頬を叩いて陰気を吹き飛ばして、イリスはベッドから跳ね起きた。

 白一色の髪を整えつつ、手早く平服に着替える。

 午後から郊外の討伐依頼に出る予定なので、服は上から軽鎧を付けられる形状のものにする。


「また大きくなってる」


 ボタンを閉めた上着の胸元が少し苦しい。

 胸自体もそうだが、弓を引く関係で背筋が伸びている為に余計に圧迫しているのだ。

 仕方のないこととはいえ、服もこまめに買い替えないといけないので意外と面倒だ。ソフィアの何をしても、しなくても太らない体質が羨ましく感じられる。


「胸当ても一回調整して貰わないといけないかな」


 ぼやきながら、忘れずに髪にリボンを結える。

 自分はもう孤独ではない。仲間の為に生きている。だから、終わったことをいつまでも気にしている訳にはいかない。

 ソフィアから貰ったこのリボンはその証だ。


「よし、今日も頑張ろう!!」


 差し当たって、まずは主を起こすことから始めよう。




「ソフィア、朝だよー。起きてー」

「ん……」


 リビングのソファで毛布を被っていた眠り姫を揺り起こす。

 隣にカイはいない。日の出と同時に鍛錬に出たのだろう。裏庭から気配がする。


「あ、イリス……おはよう、ございます」

「おはよ。すぐ朝ごはん作るから顔洗って来て。服は部屋に出しておいたから」

「はい……」


 若干ふらつきながらもソフィアは自分の足で洗面所へと向かって行った。

 朝が弱いのは相変わらずだが、最近は多少マシになったので出来るだけ一人で行動させるようにしている。


「さて、こっちも準備しないとね」


 地下の倉庫から食材を出し、コンロに魔力を入れて着火する。

 朝は軽めにパン、ベーコンエッグ、サラダにコーンスープというメニューだ。合わせて昼の携帯食料と水も用意しておく。


 そうしている内に着替えたソフィアがテーブルにつく。まだ眠そうに目尻が下がっているが、起きてはいるようだ。

 少しして、テーブルに皿を並べる頃には部屋で書類仕事をしていたクルスもリビングに集まって来た。


「すまない、遅くなった。おはよう、ソフィア、イリス」

「おはようございます、兄さん」

「おはよー。はい、これで、最後っと」


 サラダを入れた大皿を置いて朝食は完成した。

 だが、常ならいつの間にか席についている侍の姿が今日に限ってない。


「カイはまだ外かな。――我が声を届かせよ」


 練習がてら従者は“風声”で裏庭にいるカイに通信を繋ぐ。


「あれ? 繋がらない?」


 術式は完成している。カイの位置もきちんと捕捉している。だが、肝心の通信だけが何故か繋がらない。

 首を傾げながらイリスは勝手口から裏庭に出た。


 太陽が昇ったばかりの裏庭ではカイがこちらに背を向け、刀を構えて立っていた。

 足元の踏み固められた雑草を見るに長時間そのままの姿勢でいたのだろう。

 触れれば斬りかかられそうな張り詰めた様子に声をかけるのを暫し躊躇う。


「……イリスか」


 こちらが声をかけるまでもなく、カイは従者の存在に気付き、振り向いた。

 激しく動いた訳でもないだろうに、その額には微かに汗が浮いている。珍しい光景だ。


「おはよー。朝食が出来たから呼びに来たんだけど、大丈夫?」

「問題ない」


 掌で一度汗を拭ったカイは既にいつも通り。

 だからこそ、先程までの余裕のない様子が不可思議に感じられる。


「風声も繋がらなかったんだけど、何してたのか訊いていい?」

「“音”を斬ろうとした」

「……ん?」


 端的に告げられた答えに対してイリスは返事に窮した。

 そもそも音を斬るなど可能なのか、いや、この侍ならできそうだ等々、想定外の答えに脳内で思考が空回りする。


「冗談、じゃないわよね。だってカイだし」

「よくわからんが……そうだな。風声が繋がらなかったということは一応は形になったのか」

「どういう……あ、音ってもしかして魔力の?」

「そうだ」


 理解の早い従者に侍は頷きでそれが正着であることを示した。

 音が空気を震わせて伝わるように、感情は大気中の魔力を震わせている。魔術士の感応力はその揺らぎを観測し、必要に応じて組み換え、元素の世界に干渉しているのだ。

 魔力は現世と元素の世界の両方に影響を与えることができる特殊な存在だ。魔法などはその最たる例だろう。

 その中でも、“読心”は相手の感情が与えた影響を魔力の揺らぎから感知し、結果から遡って原因である相手の思考を読み取っている。

 魔力の発するその“音”こそが此方の世界と彼方の世界を繋いでいる証なのだ。


「ほほう。なるほどねー」


 そこまで思い返して、これが誰の為の技術か得心のいった従者がにやりと笑う。

 カイは僅かに顔を顰めたが、構わず話を続ける。


「原理は理解した。ソフィアが俺の心を読んだり、読まなかったりできる理由も分かった」


 瞑想の完成により森羅と合一したカイの心は常に外界に開かれている。同時に、情動を完全に制御下において無駄な揺らぎを発しない。

 感情という揺らぎではなく、魂という固体として世界の一部となっているのだ。

 それ故に、ソフィアの側から接触がない限り、カイは木石と同じように“そうあるもの”としてその場にあるだけだ。


「カイは魔力に干渉できるの? ソフィアから見れば、アンタと魔力は同じ接触される側なのよね?」

「ああ、限定的にだが。揺らぎという“現象”として現世に存在するならば――魔力は斬れる」


 一片の疑念もなく断言するカイを見て、イリスは微かに苦笑した。

 何よりも自分の腕前を信じられる侍が羨ましかった。


「なんかもう、できるできないの次元じゃないわね、それ」

「まだ未完成だ。今は何度か振った中で当たっただけ。斬ったとはいえない」

「それは……」


 しかし、イリスは再び返答に詰まった。

 どれほど強固な意志で挑もうと、カイの行いが不可能に近いことに変わりはない。


 感応力のないカイには大気中の魔力の揺らぎが視えない。

 蓄積された経験と直感によって術式の核を見抜くことのできる侍でも、魔力は視覚には映らない。

 サムライには“心眼”の技能があり、視覚を偽られても看破することができるが、これもまた過去に経験したことを基に見破る機能である為に、視たことのないものは視えない。

 そもそも、現在のカイは魔力の喪失に伴い心眼も喪っている。

 そして、たとえ視えたとしても、だからできると言えるものではない。


 現世とは別の条理によって常に変化を続ける魔力を斬るというのは、侍の得意とする“雷切”とは訳が違う。

 雷切はあくまで術式の核を破壊して術の構成を解くだけだ。

 極論、元素の世界にある魔力自体には何の影響も与えていない。


 故に、その技が成ったならば――それは世界を超えた“向こう側”を斬るに等しい。


 いくらカイが普通の人間よりも世界に近しい存在であろうと、世界を超えた先にまで剣を届かせられるとは到底思えなかった。

 だが、従者は同時に、それを不可能だと断じることもできなかった。

 完成する確率は万に一つか、億に一つか。それでも可能性のある限りこの侍は止まることはないだろう。

 ならば、それがどれだけ険しい道であっても、自分が阻む訳にはいかなかった。


「とりあえず、朝食にしましょう。冷めちゃうわ」

「了解した」


 刀を納めた侍が従者の横を抜け家に戻る。

 その背に続きながら、イリスは小さくため息を吐いた。吐息には自分でもわかるほどの羨望と不安が含まれていた。

 こちらが成長している間に、カイもまた成長し、あるいは取り戻している。

 恐ろしいことに、その差は広がるばかりだ。

 それ故に、いつか置いて行かれるのではないか。そんな気持ちが胸中に宿っていた。


 それは嫌だ。断じて認められない。

 誰かに尽くす以外の生き方をイリスは知らない。忘れたからだ。

 だから、主の帰りを待つ手弱女になどなれない。それならいっそ、主を庇って矢の一つでも受けた方がマシというものだ。


「私も負けられないよね」


 幸い、イリスの主は大事だからと置いて行くような真似はしない。だが、足手纏いを連れ歩くほど愚かでもない。従者筆頭としてそんな教育は施していない。

 ならば、できることはひとつ。やるべきこともひとつだ。


 焦燥を決意に変えて、イリスは従者の勤めに戻っていった。



 ◇



「――北西の方角、距離400、気配3」

「こちらも捉えた」


 帝都郊外の平原。イリスとカイは伏せた体勢のまま彼方の獲物を見据えていた。

 遠く離れた先には、柔らかそうな茶色の毛皮に包まれた人間大の四足獣がいる。

 そのどこか愛嬌を感じられる顔とは裏腹に、その尾は鎌のように研ぎ澄まされた刃を具えている。


 イヅナと呼ばれる魔物だ。それが三体。


 決して強くはないが、俊敏で警戒心が強く、とりわけ魔力に対する反応が鋭い。これまでも度々冒険者を撒いてきたらしい。

 その為、気配を消すことのできないクルスとソフィアは大城壁前で待機している。

 特にソフィアを連れて来た日には、漏れ出ている魔力の強大さだけで逃げられていただろう。


「一体はこっちでいけるけど、どうする?」

「先頭を狙ってくれ。残りは斬る。避けられた場合はそのまま戦闘に入る」

「りょーかい」


 イリスは静かに膝立ちの姿勢になって矢筒から一本矢を取り出す。

 魔弾生成は魔力を感知される虞がある為に使わない。持ちこんだ矢の鏃には麻痺毒も塗ってある。当たれば多少は動きを阻害できるだろう。


 隣でカイも伏せた体勢から僅かに腰を上げる。

 指先と爪先をしっかりと地面に噛ませ、そのまま疾走に移る体勢だ。


「いくわよ、3,2,1――」


 0、とカウントに合わせて狙いのままに矢を放つ。同時に隣のカイの姿が掻き消える。

 遅れて、チッと大気の焦げたような音がした。


 風を切って飛翔する矢に気付いたイヅナが顔を上げる。

 だが、それは遅きに失する。

 次の瞬間、先頭のイヅナの胸に深々と矢が突き刺さった。核を射抜いた手応え。致命傷だ。

 ほぼ同時、矢に迫る速度で間合いに入ったカイがガーベラを抜き打つ。クサナギの加護を受けたカイの一刀は一撃で二体の首を刎ねることが出来る。

 だが――


「ッ!?」


 一体目の首を刎ねた瞬間、残る最後のイヅナが振り返りもせずに跳躍した。カイの一刀は首の皮一枚で避けられた。

 侍の目が驚きに見開かれる。視線は自らの持つ一刀に注がれていた。


 着地したイヅナが即座に逃走に移る。

 カイもまた気を取り直してその背を追う。直線速度は、驚くべきことにカイの方が速いが、切り返す動きの柔軟さはどうしても四足獣には劣る。

 開けた草原を所狭しと駆け抜ける。

 付かず離れず、一人と一体の逃走劇は続く。


 その中で、イヅナは本能的に追い込まれていることに気付いた。魔物にしても驚嘆すべき警戒心であろう。

 故に、疾走の中で後ろ脚を蹴立てて強引に向きを変える。


 だが、それこそがカイ達の狙いだ。

 次の瞬間、無茶な切り返しで僅かに速度の鈍ったイヅナの前足に矢が突き刺さった。

 イヅナの体勢が崩れ、地面に強かに頭をぶつけ、そのまま転がっていく。


 そこに追いついたカイが勢いのままに一刀を振り下ろす。

 イヅナは体勢の立て直しを放棄し尾の刃を振って迎撃に注力する。魔力を通し、風の刃を纏い鞭のようにしなった刃が高速でカイの両腕に迫る。


「――狂い咲け、“菊一文字”」


 刹那、風刃がより鋭い風刃で破られる。イヅナの尾刃は一太刀で以て斬り飛ばされた。

 血は流れず、斬られた尾がくるくると宙を舞って陽光を反射する。

 だが、尾を犠牲にして稼いだ時間で体勢を立て直したイヅナは再び逃走に移っていた。

 状況は振り出しに戻る。


 ――その直前に、小さな風切りの音と共に魔物の頭を矢が射抜いた。


 威力の籠った矢は小さな頭部を正確に貫き、首元まで貫いた。

 イヅナは数度痙攣した後に、どさりと地面に倒れ込み、今度こそ絶命し、魔力結晶を残して四散した。



「終わった?」

「周囲に気配はない」

「……みたいね。こっちも確認したわ」


 刀を納めたカイにイリスが合流し、周囲を索敵しつつ、魔力結晶を回収してクルス達の元へ戻る。

 太陽の位置はまだ高く、平原には暖かな風が吹いて、イリスの純白の髪を揺らしている。


「それにしても足速かったわねー。カイと競争できる魔物なんて初めて見たわ」

「“無間”を使えば追いつけはするが、それも方向を変えられては無駄になる。二足歩行の限界だな」

「素の身体能力でその速さがでるだけでも凄いわよ。殆ど目で追えなかったし」

「だが、お前は中てた。それが事実だ」


 会話の中で、ふと告げられた言葉にイリスの足が止まる。

 つられてカイの足も止まり、やや不審げに振り返る。


「どうした?」

「あ、ううん。カイに褒められるのがなんか珍しくて」

「……お前はよくやっている」


 それだけ言って、カイはイリスを置いて歩き出した。

 相変わらず褒められ慣れていない従者は慌ててその後を追う。


(気遣われちゃったかな)


 別段いつもと違った様子は見せていない筈だ。だが、それで偽れるような仲ではないとも思う。

 同じ釜の飯を食い、命を預け合った仲とはそういうものだ。


「あ、カイこそ一太刀目のときに驚いてたけどどうかしたの?」

「良く見えたな」

「仲間のことだからね」

「……僅かに振り遅れが生じた。柄の状態に気付かなかった俺のミスだ」


 そう言って腰の一刀に触れる。良く見れば柄木に罅が入っている。

 振っている最中に入ったものだろう。

 無論、カイは依頼に出る前に刀の手入れはしている。だが、ガーベラが侍の全力についてこられなかった為に、そのしわ寄せがこの結果に繋がったのだ。

 極僅かな振り遅れが死に繋がる時もある。カイの表情は変わらないが、感じる気配には悔恨の情が含まれていた。


「一度改修に出す必要がある」

「そっか」

「……」

「…………」


 それきり、会話が途切れた。

 四人で活動している時はそうでもないが、二人きりだとこうなることも少なくない。

 イリスは何か話題はないかと脳内で記憶のページを捲る。


「最近、胸当てがきつくなっちゃって。今度調整に行くから付き合ってくれない?」

「構わない」


 従者の体を張った冗談も侍には通じなかった。

 反応が素直過ぎて、会話を続けようがない。


「えっと、感想とか欲しいかな、なんて」


 前を行くカイの足がぴたりと止まった。

 くるりと振り返り、漆黒の瞳がイリスをまっすぐ見つめる。

 本人にも言っていないが、イリスはその目が好きだった。

 黒色はどんな色でも受け入れて、しかし、どんな色にも染まることはない。


「統率個体を倒した時から少し沈んでいたようだが、今日は一段とな」

「あ……」


 イリスは返答に詰まった。そこまで気付かれていたとは思わなかったのだ。

 見ていないようで、よく見ている。気付いても手を差し伸べず、ただそこにいる。侍らしい不器用な慰め方だ。

 だが、優しさや救いに正解の形はない。

 実際、今、手を差しのべられてもイリスには何の慰めにもならない。

 手を引かれれば、その分、相手の足が遅くなる。そんな自分は許せない。


(そっか。気付かれてたんだ)


 置いて行かれていない。待たれてもいない。ただ、付いて来ると信じられている。

 多少遅れてはいるが、そんなのはこちらが足を速めればいいだけの話だ。


「だから、ちゃんと追いつくからね」

「何の話だ?」

「なんでもないわ!!」


 イリスは笑って、カイを追い抜くように駆け出した。

 足取りは軽く、道は彼方まで続いていた。

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