あとがき
――ここに語られざる虹の軌跡を記す
魔神争乱の終結を以て暗黒地帯は消滅した。
狂わしの魔神は消え、パルセルト大陸は安寧を取り戻した。
無明に沈んだ千余年の夜は明けたのだ。
それでも世に争いの種は尽きないが、少なくとも人智の及ばぬ存在によって理不尽に民草が脅かされる時代は終わったといえよう。
新たな混乱を呼びこむことを危惧し、“アルカンシェル”はその功績を公にすることはなかった。
公的には、彼らは戦乱の導を討った者達として記録されている。
異世界より喚ばれた魔神の名も、存在も各国の歴史書には記されていない。
いずれ世代が移り変われば、さらに多くの事柄が忘れ去られていくのかもしれない。
それでいいのだと、もう闇夜に怯える者はいないのだと。そう言って微笑む彼らの顔を私は生涯忘れないだろう。
時代は変わろうとしている。
神の庇護を受けていた時代から人が自らの足で立つ時代へと変わろうとしている。
あるいは、全ての奇跡、加護が役目を終える時が来るのかもしれない。
後世、この時代の出来事が空想と断じられる日が来るのかもしれない。
故に私は筆を執った。
彼らを幻想にしたくないと願った。
彼らは栄誉もなく、名誉も欲さず、ただ魂の命じるままに駆け抜け、すべてを救った。
そして、彼の剣は神を斬った。
後世に伝わらず、その功績を誰も知らぬ時代が来ようとも、その事実だけは真である。
この大陸は、あるいはこの世界は彼の一刀によって救われたのだ。
後に、彼はひとつの家を立てた。
剣のイズルハ、あるいは夜のイズルハと呼ばれるその家は共和制へと移行する白国の動乱期にあって尚、精強なる武門として密やかに名を知られている。
かの一門には銀の剣が伝えられている。いつか最後の魔人を斬る為に。
彼は自らの魂が受け継がれることを願った。
名誉の為ではない。栄光の為ではない。
それはひとつの答えであり、人間が自らの時代を生きる為、善き未来に向かう為の祈りであった。
ならば、我らは言葉を伝えていこう。
彼が仕え、援け、導いてきた我らの手で。
剣に生きることを誓ったひとりの男が、その生涯を賭けて残したものが誇らしくあることを伝えていこう。
故に、我らの子孫よ、どうかこの言葉を覚えておいてほしい。
――“刃金の翼”
それは魂の名、人の持つ可能性の結晶。神に届いた男の名。
受け継がれた刃金がいつか再び羽ばたくその日まで、どうか覚えておいてほしい。
今度は我らが助ける番であると。億千万の盾に連なる血族として、それを忘れないでほしい。
最後のFとして、クルスの子として、私は望む。
――ハルキス・F・ヴェルジオン
◇
涼やかな風が吹く。
春。出会いと別れの季節。学園から卒業生が旅立ち、新たな若者達を受け入れる季節。
設立から九百年を経たルベリア学園でもそれは変わらない。
四大国が大陸統一連合に移行し、八賢人によって治められる時代になっても、ルベリア学園は変わらず溌剌とした若い熱気にあふれている。
とはいえ、学園をして今日まで存続するのは決して平坦な道のりではなかった。
このパルセルト大陸と同様、学園も幾度の混乱と繁栄を経験した。
過去、白国が崩壊の危機に瀕した事件に於いてはこの学園も存続を危うくしたこともあった。
それら全てを乗り越えて、学園は今もこの地にある。
魔神争乱から八百年。
悠久の時の流れは多くの事柄を変えていった。
その一生を捧げた初代学長も没し、当時を知る者は二代目学長となった知識収集用ゴーレムくらいだろう。
神の在り方も変わった。人が自らの足で歩き出す時代が訪れた。
多くの変化と発展があった。喪われたもの以上に得たものは多い。
時代は変わったのだ。ハルキスが予想したとおりに。
あるいは、それ以上の繁栄と共に。
「――――」
実家から送られてきた十五歳の誕生祝いを読み切って、少年はその想いを強くした。
言葉にならない感動が熱のこもった吐息となって吐き出される。
机の上で広げられたその分厚い一冊の本には全てがあった。
冒険があった。悲劇があった。苦難が、絶望があった。
そして、それらを乗り越える輝かんばかりの意志と希望があった。
八百年前の己の先祖が歩んできた軌跡に少年は胸を熱くした。
誇りが全身を満たしていくのを感じた。敬虔さに似た想いが溢れてくるようであった。
今ここに自分がいることを、先祖がかつて所属していた学園に居られることを五柱の神に感謝した。
願わくば、もう一度読み直したい所なのだが――
その時、コンコンと控え目なノックの音と共に寮室の扉が開かれた。
「どうしたの? 急がないと授業始まるよ」
扉の隙間から顔を出したのは同室の少年、生まれた時から共にいる幼馴染の姿であった。
その白い髪はあの従者のものか、その蒼い瞳はあの少女のものか。
服の上からでも鍛えられているのがわかるその体は伝えられる武術の成果か。
長い時を経てふたつの血とひとつの技は此処に集ったのだ。
そして、なによりも、その背に負った銀の剣に少年の視線は吸い込まれる。
自分とは違う形で先祖の祈りを受け継ぐ幼馴染の姿は昨日とはまるで違って見える。
――刃金は今も受け継がれているのだ。
――いつか、羽ばたくその日の為に。
「……ああ、すまない。行こうか」
金色の髪をふわりと揺らし、少年は椅子から立ちあがった。
過去に誇れる己になる為に、未来に誇れる己になる為に、歩き出した。
◇
――かつて、ひとつの物語があった。
剣の道に生きるひとりの男が仲間と出会い、いくつもの戦いを経て神へと挑む物語。
それは決して平坦な道のりではなかった。出会いと等しく別れもあった。
だが、後に残されたのは悲しみだけではない。
そこには希望があった。祈りがあった。愛があった。
なによりも、受け継がれる魂があった。
開け放した窓から風が吹く。涼やかな風が吹く。
数奇な出会いが呼んだ風は、宿命を超えた戦いを駆け抜けて最後のひと撫でを残す。
そうして、その本は静かに閉じられた。
―― 刃金の翼、完