17話:想い
吹きつける風が頬を叩く感触に、カイは己が目を閉じていることに気付いた。
「――魔人変化・ブルーブラッド」
次いで、朦朧とした意識の中で懐かしい声を聞いた気がして、ゆっくりと目を開けた。
はじめに見えたのは青い空。この世のものとは思えないその澄んだ色に、自分がまだ原初の海にいることを察した。
どれだけの間、気を失っていたのか。
魔神を斬り、消滅の余波からソフィアを庇ったことまでは覚えていた。そこで限界が訪れたことも、また。
腕の中にはたしかにソフィアがいる。意識は戻っていないが、その全身を覆っていた封印の刻印は既に無い。
それは、封印すべき対象が消滅したからに他ならない。
『……起きたか』
カイの身じろぎを感知したのか、足元から声が響いた。
その段に至ってようやく、カイは自分たちが何かの背に乗って飛んでいることに気付いた。
痛む体に鞭を打って顔を上げれば、それが悠然と空を翔る金色の鬣と黒色の竜鱗を持つ竜種であることがわかった。
「何故、竜種が原初の海に……?」
知らず疑問と困惑が思考から零れる。
加えて言うならば、見たことない筈の竜からは見知った気配を感じるのも不可解に過ぎる。
そうして暫く黒竜を観察して、カイはその竜に右腕がないことに気付いた。
普通ならば有り得ないことだ。
竜種とは古代種のなれの果て。その身に宿る高い賦活能力は片腕の喪失など数瞬と経たずに再生させることができる。
竜が再生できない傷などそうそうない。たとえばそれは“破壊”の――
そこまで考えて、カイはようやくこの竜が誰なのか思い至った。
「ネロ、なのか?」
『……やっと気付いたのか、馬鹿弟子』
ネロ・S・ブルーブラッド、カイの師にして今や最後の純血の古代種となった男は呆れの混じった声で告げた。
この竜の姿こそが彼岸の世界に在るネロの魂、その実在。現世の肉体を喪おうとも死ぬことのない理由。
だが、ネロから感じられる気配はひどく儚い。全てを使い果たしたカイよりもさらに弱いその気配は、まるで死にかけの鳥のようですらある。
「ネロ、お前……」
『貴様とその娘は役目を果たした。その終わりが魔神と心中では釣り合わぬだろう』
元より、ガイウスの神技を受けてネロはひどく衰弱していた。
その上でカイ達を助ける為に心身に負担をかける魔人変化まで行ったツケは果たしてどれほどか。
訊けば、ネロは答えるだろう。だが、カイは答えを聞くことを恐れた。
「……魔神は滅びたのだな?」
『左様、後ろを見てみろ』
誤魔化しにも似た、答えを知っている問いにもネロは律義に応えた。
カイはまともに動かない体で苦労して首を巡らせて背後を振り返り、遠くで少しずつ崩れていく黒い影を見た。
魂を断たれた魔神が自己を維持できずに消滅しようとしているのだ。
『お前の勝ちだ、カイ・イズルハ』
「……そうか。俺は斬れたのか」
カイは心中の感慨を噛み締めるように呟いた。
斬れた。神を斬った。この大陸を救うことが出来た。命一つの使い道としては最上であろう。
この身は喪われた者達に報いることが出来たのだ。
『調子はどうだ、馬鹿弟子?』
「……わからん。消耗が大きく、体はまともに動かない。神技はもうなく、比翼も喪われている。刃金の翼は動いてみなければわからないが……」
『消滅する気配はないのか?』
「…………ないな」
あるいは、黒神が銀剣に力を吸収させたからかもしれない。カイは仮面の剣士、最後の黒国王だった男を想う。
彼のお節介のお陰で肉体への負担は最小限に抑えられた。今、自分が消滅していない理由の大きな部分はそれであろう。
「俺は最後の最後まで他者の世話になって、だから、人間のままでいられたのか」
『人間? ……そうか、これが人間か』
感嘆の混じったカイの呟きに刹那、ネロが劇的な反応を示した。
全身を震わせる黒竜に、カイはソフィア諸共危うく転げ落ちそうになった。
だが、そんな背の上の二人の様子には構わず、ネロは咆哮と共に長首を天に向かって反らせ、己の気付きに途轍もない驚きと喜びを見出していた。
『これが人間か!! 戦いの終わった貴様に、刃金としての役目を終えた貴様に残ったこれが――これこそが“人間”なのか!!』
それはネロが長年追い求めていた答えであった。
魔人は古の戦争で己を殺す“死”が人間であると確信した。だが、人間とはなにかを知らなかった。
故に、探求した。国をひとつ塗り替えるほどの時と手間をかけて探求した。
その千二百年の旅路の終わりが、答えがここにあった。
『感謝する、カイ。我はひとつの答えを得た。何も返してやれないのが残念だ』
「気にするな。お前にはもう十分貰っている」
『であるか――ッ!?』
瞬間、ネロがその巨体をぐらつかせた。
咄嗟に羽ばたこうとした翼はぴくりとも動く様子を見せず、黒竜はそのまま澄んだ水面に墜落した。
高々と水飛沫があがり、跳ね飛ばされたカイはなんとか空中でソフィアを抱きしめて転がるようにして水面に着地した。
「なに、が……?」
鈍く響く痛みを無視して顔を上げれば、視線の先に人間体に戻ったネロが水面に倒れ伏しているのが見えた。
「ネロ!?」
「構うな。貴様らを魔神の中から引っ張り出すのに少し無理をしただけだ」
どこが少しだというのか。
そう言い返そうとしたカイはしかし、喉が何かで詰まったように言葉を発することができなかった。
その間にも、ネロの体は少しずつ光の粒子に変わっていく。
目の奥に熱を感じながら、カイはどうにか声を絞り出した。
「お前まで逝くのか、ネロ!!」
「いいや、我は死なぬ。しばし眠るだけだ」
嗚咽混じりの問いに返ってきたその声は、カイも初めて聞くほどに穏やかな声音であった。
どうして、その問いが喉元までこみ上げる。
どうして、そんな優しい眼差しをしているのか。
「――だから、いつか、貴様の剣の継嗣と相まみえることを願う」
答えはそこにあった。
ネロは伏せたままカイを見てにやりと口元を歪めた。
五つの時から何度となく見た皮肉気な笑み。
見下されるばかりで、手を差し伸べられたことなど一度もなかった。
だが、師弟だった、家族だった。その笑みはいつも共にあった。
ぼやけた視界の中、新たな約束を胸にカイは頷き、消えゆくネロの姿を脳裡に焼きつけた。
「……首を、洗って、待っていろ。必ず、もう一度――」
「ああ、いつか、もう一度、貴様の剣に出会える日を待っている。……ではな、カイ、誰よりも人間であった者よ――」
そうして、最後の古代種はゆっくりと光の中に消えていった。
◇
消えていくネロを見送って、カイは仰向けに寝転がった。
身じろぎに応じて生じた小さな波紋が水面を揺らす。
空の青さから逃れるように目を閉じ、大きく息を吐く。
ようやく、全てが終わった。今はそれだけを想った。
――父さん、俺は精一杯、生きた。この命の価値を示した。
――きっと今なら、貴方に会っても胸を張ってそう言える。
生きろと言われた。天命を超えろと言われた。
その遺言を自分は確かに果たした。
カイはそれを誇らしく思った。ようやく思えるようになった。
「――それでも、心残りがある。俺はまだ終われない」
閉じていた目を開く。
傍らには力を使い果たして眠るソフィアがいる。
額にかかった前髪をそっとよけてやる。
触れた頬の暖かさと柔らかさに改めて約束を思い出す。
この娘を現世に帰してやらねばならない。
「ギ、グッ――」
魔神に抉られた上半身を起こす。震える膝を叱咤する。
諦めろ、お前はよくやった。もう十分だろう。
魔神の消滅に伴い、往きに通った大穴も消滅している。
帰り道はない。元より帰れるようにはできていない。
そんな言葉が心のどこかから聞こえてくる。
だが――
「――それは俺が諦める理由にはならない」
水平線の如く澄み渡る青空と蒼海が交わるその場所で、全身を軋ませながら、それでもカイは立ちあがった。
躯が重い。視界は暗く、手足には力が入らない。
血はまったく足りておらず、息をする度に命の削れる音がする。
この身にはもう武神の力はない。神殺しの剣はない。全て使い果たした。
だが、鍛え続けた刃金はこの腕に、翼はこの胸に宿っている。
そして、此処は全てが還る原初の海。死後を司る彼岸の世界。
ならば、あの剣に魂があるのなら――
「――来い、“菊一文字則宗”」
その名を唱えた一瞬、懐かしい気配を感じた気がした。
かつて、いつも傍にあった大きな掌、預けていたモノを渡される感覚。
(ありがとう、父さん)
想いと共に掲げた手の中に淡い光と共に愛刀が顕現する。
細い銀月に似た緩やかな反りの片刃の刃金。
頬を撫でる涼やかな風。
柄をとる。手に返る懐かしい重さに、こんなときだというのに口元が綻ぶ。
祈りはない。これは己の我儘だからだ。
だから、この身に残る全てを振り絞る。
ガイウスの魂が――“刻の飛翔”が証明している。全てを捨てれば時すらも斬れる、と。
ならば、彼に勝った自分がここで後れを取る訳にはいかない。
「――いくぞ」
これが最後の一刀。
これで自分に残るものはなにもない。
それでも構わない。ソフィアを連れて帰れないのに、一体何を残すというのか。
一緒にいると誓ったのだ。帰ると約束したのだ。
彼岸の世界を構成するのは元素と魔力。
雷切ならばそこに“裂け目”を入れることも不可能ではない、筈。
右の心眼が空間の繋ぎ目を見切る。
そうして、あと一太刀。どうか届けと想いを込めて――
「――シッ!!」
その一刀を振り抜いた――
――しかし、全てを込めた一閃は、甲高い音を立てて弾かれた。
反動にふらつきながら、カイは絶望の眼差しでそれをみつめた。
目の前、空間に罅が入っている。だが、向こう側には届いていない。
この期に及んで心眼が告げる。あと一撃必要だと。
肉体が結論する。もう剣を振るう力はないと。
命は既に限界を超えて賭けている。これ以上、絞り出せる物はない。
「……何故だ」
知らず、声が震える。
何故いつも最善に届かない。
何故いつも喪われる。
何故いつも、ほんの少し、あと少しが足りないのだ。
自分はいい。せめてソフィアだけでも――――
『――カイ、其処にいるのね』
ふと、声が聞こえた。
いつも励ましてくれた仲間の声だ。聞こえる筈のない声だ。
カイは初めに耳を疑い、次いで己の正気を疑った。
あるいは、死に際にみる幻かと。
――そんな筈はない。
男が仲間の声を聞きたがえることなどない。
その確信を得た瞬間、額が――此方に来る前にイリスが触れた場所が熱を持つのを感じた。
これは目印だ。カイは確信した。
顔を上げる。まだ何も終わっていない。
諦めるには早すぎる。
『――大丈夫。視えてる。もう少しだけ頑張って。――クルス!!』
『諦めるな、カイ!! 二人とも“帰って来い”!!』
「ああ――」
心に響く真っ直ぐな声に尽きたと思った力が蘇る。
軋む体が、魂が歓喜の咆哮をあげる。
騎士の声はいつだって背中を押してくれた。
今もそうだ。流れ出る涙と共に胸の奥から暖かい熱が湧いてくる。
『神よ、あと一度だけ奇跡をいただきたい』
『くれないならこっちから貰いに行くわ!!』
力強い声と共に七色の光が正確に罅を撃ち抜く。
空間が軋みをあげる。罅が拡がっていく。
ここだ。この一瞬しかない。
その意に応じるように、愛刀が手に優しい風を寄越す。
(大丈夫だ、ガーベラ。俺はまだやれる)
もう一度だけ力を貸してくれ。その誓いと共にカイは柄をとる。
小指から順に、己の全てを切っ先に伝える為に握る。
そうして、二人と一刀に背中を押されたカイが最後の剣を振り抜いた。
渾身の一振りに、会心の手応えが返る。
空間に一筋の剣閃が描かれる。
届いた。そう感じた時には既に手の中にガーベラの姿はなかった。
代わりに、空に刻まれた亀裂の向こう側から伸びる騎士の腕がみえた。
カイは痛む体に鞭打ってソフィアを抱え、一心に手を伸ばす。
そうして、騎士と侍、二人の手がしっかりと繋がれた。
◇
カイとソフィアが現世に帰還したのと同じ頃、人知れずもうひとつの決着がつこうとしていた。
“戦乱の導”テスラ、全ての元凶たる少女が目を覚ました時、彼女は懐かしい友人に膝を貸されていることに気付いた。
「気が付いたかしら、テスラ?」
「……やあ、二百年ぶりだね、ローザ」
逆さに映る目を閉じた白皙の美貌に笑みを返す。
ローザは応えず、テスラの体にそっと指先を添わせた。
少女の体は冷たく、鼓動は既にない。魂は既に散逸し、此処に残っているのは魔神に取り込まれなかった残滓に過ぎない。
もってあと数分。それを確認した。もしも生き残るようならトドメを刺すのがローザの役目だったのだ。
「酷い有様ね」
「キミに言われたくないな。目、みえてないだろう?」
皮肉気に返すテスラにはしかし、腰から下がなかった。痛覚も既にない。もう長くはないことが自分でもありありと分かる。
己の無様な姿に、少女は肩を竦めようとして、腕が動かないことに気付いて代わりに溜め息を吐いた。
「私は自業自得よ。未来を視ることで現実を確定させ、多くの可能性を奪ってきたわ」
「なら、ボクがこうなったのもキミが未来を視たからなのかい?」
「そうよ。恨むなら、私を恨みなさい」
それは詭弁だ。テスラは知っている。
ローザの予知は現在からの連続で確定した未来を覗き見ているだけだ。未来を左右するような力はない。
かぶりを振ろうにも首は動きそうにない。仕方なくテスラは笑った。力ない笑みだった。
「そんなのはゴメンだ。ボクはボクの意志でこの道を選んだ。この結末は、感情はキミにだって譲れない」
見上げれば、永遠の曇天に包まれていた空が徐々に晴れていくのが見える。
目に沁みるような蒼穹。その美しさにテスラはしばし言葉を忘れた。
「彼らは強かったかしら?」
「……ああ、強かった」
ふと投げかけられた問いにテスラはそう答えた。
全てを捨てて、決着すら投げ出して、それで勝ったと思った。その結果がこれだ。
目を閉じれば、魔神の中でみた最後の一刀を思い出す。
脳裡に焼き付いた魂を斬る閃光。
美しかった。ただひたすらに美しかった。
次元すら飛び越えた、魂を振り絞った可能性の果て。
これには勝てないと心のどこかで思ってしまった程のひたむきな強さ。
あれこそが、人間の心に灯る熱なのだろう。
「貴女の負けね」
「彼らの勝ちだ」
徐々に消えていく意識の中で、テスラは頬に触れるローザの手のぬくもりを感じた。
二百年前、まだテスラが人間の中で生きていた頃、よく二人でこうしてじゃれていたのを思い出す。
アルバートに姉妹のようだと言われたのがどうにもくすぐったかったのを覚えている。
「ちゃんと死になさいよ? 私もそっちにいくのにそう時間はかからないわ」
「……そうかい。それじゃあ、また、いつか……三人で――――」
言葉が途切れる。テスラの体は白い灰となって風に吹かれて消えていった。
後には魔力結晶すら残らない。
多くを奪ってきた者にはふさわしい末路だろう。
それでも、閉じた瞼からローザは一筋だけ涙を零した。
かつて、共に競い合った姉弟子の鎮魂を祈った。