15話:氷影
落ちる。堕ちる。墜ちる。
上下も分からない暗黒の世界でしかし、ソフィアは確かに落下する感覚を受けていた。
気を抜けば体から魂が抜け落ちてしまいそうな浮遊感が心を苛む。
そうしてどれだけの間耐えていただろうか。
ソフィアは気付けば肉体を保ったまま原初の海に到達していた。
其処は彼岸の世界、魂の還る死後の場所――魔神の座す海。
青く澄んだ水面に降り立ったソフィアは神の気配をひどく近くに感じた。
夢で訪れたことのある場所よりもずっと深い。帰り道は――視えなかった。
「――来たんだね」
そして、元凶がすぐそこにいた。
濡れ羽色の黒髪に美しいかんばせ、妖しく輝く金の瞳と額のサードアイ。
ソフィアとそう変わらない背を包むのは優美な闇色の夜会服。
佇まいに顕れた老成した雰囲気に反し、口元を彩る笑みはどこか幼い。
(この方が“戦乱の導”テスラ……)
初めてみるソフィアにもはっきりとわかった。
神から離れようとしていたガイウスとは異なり、テスラは神に近付こうとして神域に至った存在だ。
感じる気配はどこか儚いのに、一度目にしてしまえば決して目を離すことができない不思議な存在感がある。
(やはり読心は効きませんか)
心中で伸ばしていた感応力の糸がその存在感に食い千切られる。
ガイウスや黒神に読心が効かなかったように、テスラにもまた読心が効かない。
ソフィアにとっては大きな不利となる事由だ。
「礼儀として一応訊いておこうか、神の封印」
にこりと、まるで旧友に対するかの如く親しげな笑みを浮かべてテスラは口を開いた。
実際、相手はそんな心持なのかもしれない。ソフィアもまたそう思ってしまったのだ。
「こっちにつく気はないのかい? ボクならキミの全てを愛せる。他の誰にもできないことだ。もはや誰も、神に捧げられるキミの魂を理解することはできない」
「それがどうした、です」
互いに人と古代種の枠を超え、最早、常人とはみえる物も感じる物も違っている。
既に種族の違いなど些細なものだ。今、同じ領域にいるのは僅かに四人。
「人にして人にあらず。古代種と同じだ。この大陸にはキミを受け入れる余地はない。居場所を得るにはもう砕くしかないんだ」
「だから、犠牲にすると? それは許されることではありません。
わたし達はわたし達の理によって生きます。あなたの言葉ではとまりません」
「……そう。そこまで覚悟しているのか。交渉は無意味だね。残念だ」
――遠からず三人に、そして、今から二人になる。
「……」
「……」
道が違えばあるいは友となれたかもしれない。
徐々に魔力を解放しながら、ふとソフィアはそんな益体もないことを思った。
だが、そんな“もしも”は訪れない。二人が出会えたのは、互いに真逆の目的があったからだ。
魔神にとって代わろうとするテスラと魔神を倒そうとする自分達。
互いの目的が交わることはないし、未来永劫妥協の余地はない。
ここでどちらかが脱落するのは既に決定した未来なのだ。
「――はじめよう、神の封印。祈りはいらない。ここで果てるといい」
「――わたしは貴女を否定します、古き者の最後の王」
そうして、二人だけの戦争の幕は切って落とされた。
◇
二人の戦いはごく静かに始まった。
「――来なさい、“影の槍兵”」
指を鳴らしてテスラが告げる。
応じて、足元の水面を呑み込むかのようにその影が急速に広がっていく。
黒く染め上げた水面からは、その名の如く無数の槍持つ兵がずるりと音を立てて生み出される。
頭のない不完全な泥人形のようにも見えるそれらは、しかし、裡に確かな魂を感じる。
武器の創造、命の消費、魂の支配。配下の者達がひとつずつしか得ることができなかった権能を少女の“捕食”は一挙に再現する。
「――氷結せよ」
対するソフィアは宙に浮かんで槍の射程から逃れつつ、己の魔力を無数の氷槍に変えて背に翼の如く展開した。
二対四翼の氷槍の翼がその羽先の全てを眼下に向ける。
「――貫け」
少女の号令に従い、無数の氷槍が驟雨の如く辺り槍兵達に降り注ぐ。
両者の激突に音はなかった。
氷槍は抵抗なく槍兵達に突き刺さり、そのまま水面ごと凍結させ諸共に砕き散らしていく。
合わせて凍結の波動が拡散し、一帯が影の海から氷原に塗り替えられる。
「ふむ、これでは消耗戦にもならないかな?」
とん、と軽やかに背後へ跳んで凍結の波動を回避しつつ、テスラが告げる。
「この程度でなにを――」
「なにって、キミの両腕の刻印の侵食に決まってるじゃないか」
「――ッ!!」
図星を突かれたソフィアは心中で臍を噛んだ。
テスラの指摘の通り、魔力を放出する度に両腕の刻印が徐々に広がっている。
元より、封印の権能は魔神の覚醒に伴って発現するものだ。ここまで魔神に接近した以上、刻印が反応するのも当然と言えよう。
「さしものキミもそれが全身に回ったら余計なことはできなくなるんじゃないかな?」
「……その前にあなたを倒します」
「できるかな、キミに? ――来なさい、“熱砂の四刃”」
テスラが再度、指を鳴らす。
応じて、黒鉄の如き甲殻に呪いの影を明滅させた大蠍が少女の影から出現する。
カイに両断された傷も既に無い。テスラに囚われた魂はすべて彼女の思いのままだ。
間をおかず打ち込まれる柱の如き尾針をソフィアはギリギリの所で前面に張った障壁で受け止めた。
衝撃が浮遊する少女を吹き飛ばし、防ぎきれなかった紫電が障壁越しに腕を痺れさせる。
「――くっ!?」
じくりと熱を持った刻印がさらに広がっていく。金色の蔦は肩を超えて胸の辺りまで伸びてきていた。
応じて、ソフィアの魔力が爆発的に増大していく。
その一方で、人間としての機能が徐々になくなっていくのを感じた。
(長引けば、こちらが不利になる……)
この段に至っても、少女に黒神を恨むつもりはなかった。
この刻印は元よりそういうものであり、ソフィアにしてもカイを蘇生する際に一度は受け入れている。
完全に封印となるのに抗っているのは己の我儘なのだ。
だが、それでもソフィアは生を諦める訳にはいかなかった。
(幸い、相手は魔人変化を使う素振りはない)
この期に及んでテスラが出し惜しみをする理由はわからない。
だが、好都合だ。ここで押しきる。ソフィアは溢れ出る魔力を魔法陣に変えて展開する。
「キミは生き残ってどうするんだい? ボクらがいなくなれば次に迫害されるのはキミだよ」
「そんなことにはなりません!!」
再度、大蠍が宙に浮かぶソフィアへと尾針を構えるが、砲撃が放たれるより僅かに早く、少女は魔法陣を完成させた。
眩い蒼の光を纏う魔法陣から瀑布のごとく凍気の光条が放たれる。
打ちつける滝の如く大蠍に叩きつけられた凍気は、その絶大な圧力で大蠍の巨体を水中に引き摺りこみ、周囲の海水ごと凍りつかせた。
一瞬にして水面に突き立つ巨大な氷山に押し包まれた巨体は、目を丸くするテスラの前でゆっくりと罅割れていき、そのまま崩れ落ちていった。
「これでも駄目か。やるじゃないか。
なら、とっておきだ。――来なさい、“世界獣”」
三度、テスラが指を鳴らす。
荒い息を吐くソフィアはそれを止めようとして、眼下の違和感に手を止めた。
空中からでも水面が微かに震えているのがみえる。水面が押しのけられるように徐々に盛り上がってきているのも、また。
“ベヘモス”。その名にはソフィアも覚えがあった。
「ッ!?」
直後、本能的に離れた位置に転移したソフィアは一瞬前に自分がいた場所に、塔のようなモノが勢いよく突き出したのを見た。
否、それはおそろしく太く長い魔物の首であった。
天高く突きあげる魔物は槍兵や大蠍と同じ影の如き黒色で、水面から出ている首から上だけでも大喰いに匹敵する大きさを有している。
魚獣というよりも竜種に近い頭部、全長は考えられないほど巨大であろう。
ベヘモスがぐるりと首を振れば、眼下に大津波が起こり、離れた位置に浮遊するソフィアにまで矢の如く飛沫が飛んでくる。
少女は宙を飛んで慌てて距離を取った。
「この大陸を支えていると言われた聖獣さ。さあ、どうする、神の封印?」
「……」
神話に語られる怪物の出現にソフィアの頬を冷たい汗が流れ落ちた。
幸い、テスラの使役する者達は生前よりも動きが単純化している。が、テスラもそれを見こして量、硬さ、そして大きさを以てソフィアに消耗を強いている。
今まで前線に出てこなかったテスラだが、そこはやはり古代種。戦場の呼吸を読むのはソフィアよりも上手だ。
そして、戦闘の合間に告げられる言葉は一々癇に障る。
似た者同士だからか、テスラの指摘はひどく的確にソフィアの心に突き刺さった。
「キミは神の操り人形だ。どれだけ足掻こうと神の掌から抜け出すことはできない」
「――ッ」
刻印の侵食以上にテスラの言葉がソフィアの心を深く犯さんと響く。
生まれついての異常な才能、神に愛され、神の杖として捧げられる為に作られた存在。
神の被造物だと言うのなら、ソフィアはまさにそれだろう。
だが――
「――それがどうした、ですよ、テスラ」
ソフィアは胸を張ってそう告げる。
この大陸でどれだけの人が才能を活かせず死んでいるのか。一度ならず他者を殺したことのあるソフィアは知っている。
そして、才能がなくとも足掻く者もいる。ソフィアが今、ここにいられるのもそんな人のおかげなのだ。少女はそれを忘れていない。
「たとえ始まりは神によるものだとしても、わたしがここにいるのはわたし自身の選択です」
深く息を吸い込み、直後、ソフィアの目が燦然と輝きを増す。
抗うことやめたその身が急速に刻印に覆われていく。
裡に溜めきれない魔力がその背から放出され、無数の蒼い蝶となって舞う。
「この期に及んで時間停止は使わないのかい?」
「最後まで足掻いてみせます。わたしは諦めない。――世界を覆え、大冷界」
ここで決着をつける。ほぼ全身を刻印に覆われたソフィアは金色の光と共に魔力を解放する。
呼応してその細い背に二翼一対の蝶の翅を模した異形の魔法陣が展開する。
「これは……」
「逃がしません。最後まで付き合ってもらいます」
不利を悟ったテスラは退こうとして、その足に小さな蝶がとまっていることに気付いた。
即座に凍りつく両脚が少女の身を水面に縛り付ける。
「いつにまに……!!」
「――八つの圏を超え、嘆きの大河を此処に」
氷を溶かし、脚を解放するのに数秒の時間を盗まれた。
今のソフィアを前にしては致命的な遅れだ。
障害物もない原初の海では距離をとっても逃げ切れない。テスラは咄嗟にベヘモスを盾にする。
大陸を支えるとまで言われた巨体は反応こそ鈍いものの、テスラ一人を守るには十分すぎる。
大きさを考えれば城塞すらも遥かに凌ぐ難攻不落のそれだ。
「――堤は断たれ、万象一切、凍てつき砕けよ」
防ぐのがソフィアの心技でなければ、の話であるが。
「ボクが死んだら魔神を制御する術はなくなるよ。それでもいいの?」
戯れにテスラが問いかける。
純粋なる邪悪、これに屈してはならない。
「キミなら――」
「言葉を尽くしても無駄です。わたしはもう決めたのです。あなたはここで終わらせます」
テスラの言を遮り、ソフィアは淡々と覚悟を告げて、心技を完成させる。
「――シンの果てまでこおりつけ、“デリュージ・オブ・コキュートス”」
直後、空間がひび割れる音を立てて凍結した。
原初の海に集った死が少女の足元を堤防として無限に集まる。
堤は満たされ、そして、決壊する。
生まれるのは極低温の大河の氾濫にして暴虐の雪崩。
全てを瞬きに凍てつかせ、魂まで砕く破壊のキセキ。
ベヘモスが顎門を開いて迎撃するが、大陸を支える巨体すら絶対零度の洪水の中に押し潰されていく。
テスラも障壁を展開するが、魔力すら凍りつく世界では全てが無意味に気する。
そうして、全ては極大の冷気の洪水に呑み込まれた。
◇
ソフィアはふらつきながらも凍りついた水面に着地した。
魔力の消費は激しいが、戦闘を終えたことで刻印は一旦落ち着きを取り戻している。まだ暫くはもつだろう。
少女の足元には半身を凍らせたテスラが水面に浮かんでいる。
その裡に貯蔵された命も使い切ったのだろう。砕けた四肢が再生する様子もない。
「馬鹿、だねえ。……黒神ですら……魔神を、殺せなかったのに……」
「カイは神を斬れると信じています」
息も絶え絶えに皮肉を口ずさむテスラにソフィアはゆるゆるとかぶりを振って、己の絶対の一言を告げた。
それだけがソフィアの信じる全て。今、此処にいる理由なのだ。
「…………そうだったね。じゃあ、特等席でみてるよ」
瞬間、テスラがにやりと口元を吊り上げた。
同時にその顔に縦一文字の亀裂が生まれた。
「特等席? ……まさか!?」
ソフィアが二の区を告げる前にテスラだったモノの体が崩れる。
裡から溢れ出るのは黒い泥。
すなわち、“分け身”のそれに他ならない。
一瞬、ソフィアは目の前の事象が理解できなかった。
暫くして現実に思考が追いつく。
「そんな……だって、この力は明らかに――」
否、ソフィアは気付いた。
テスラは残る命と力の全てを分け身に与え、本体は無力な命ひとつで魔神の許に向かったのだ。
「なんて無茶を――」
「ソフィア!!」
鋭く声が響く。直後、カイが氷山の隙間を縫うようにしてソフィアの隣に降り立った。
感応力に乏しいカイでもここまで大規模な心技を使われれば居場所を特定するのは難しくない。
カイは即座に視線を巡らせて周囲を見回す。
ソフィアがこの場にいてテスラがいない。それだけで状況を察した。
『本体で会えるときを楽しみにしているよ、カイ・イズルハ』
(出し抜かれたか。不覚――)
つまりは、夢でカイに告げた言葉の通り。
全てはこの瞬間の為の布石。テスラは目的の為に全力で突き進んでいたのだ。
「やってくれる。……ソフィア、体はまだ大丈夫か?」
「はい。あまり長くはできませんが、ここからでも魔神は止められます」
ソフィアは首から下を余さず刻印で覆われながら、気丈にも頷いた。
封印を起動すれば千年でも止められるが、互いにそうする気はない。そうさせない為にカイは此処にいるのだ。
形のないものを斬ることはできない。
神は神のままでは殺せない。不死性を否定せねばならない。完全性を破壊せねばならない。
故に、ソフィアの役目はひとつ。
魔神を自分たちの存在する次元まで引きずり出すことだ。
「……おそらく何かしらの合図が出る。発動はそれに合わせろ」
「わかりました。どうか、ご武運を」
ソフィアに頷きを返し、カイは再び走りだした。
この深度まで来れば魔神のいる場所ははっきりとわかる。
進む先から、心臓が捩子きれるような痛みを感じるのだ。
カイにしてみれば怒りすら感じるほどに懐かしい呪いの気配だ。
走りながら背の剣に触れる。
銀剣“比翼”はあと一振り。ガイウスに勝つ為には二振り目を抜く他になかったとはいえ、後がないというのは精神に重しが載ったような気にさせる。
この身が“神殺し”となれるのはあと一度だけ。
(いや、元より魔神相手に何度も剣を振る余裕がある筈もないか)
ならば、すべてはただ一刀。たった一度に賭けるしかない。
その想いを胸にカイは空間すらも飛び越える勢いで駆け抜ける。
そうして、遂に魔神の座す場所へと到達した。
近付くほどに空気が重くなる。水面はドス黒く濁り、息をする度に肺が爛れるような不快感が漂う。
そんな汚濁にまみれた世界の中心で一糸纏わぬ姿のままテスラは巨大な影と正対していた。
「――遅かったね、カイ・イズルハ」
振り向かず、テスラはどことなく残念そうに告げた。
カイに応える余裕はない。
止まることなくただ真っ直ぐに、少女の背へと駆ける。
(間に合えッ!!)
ひたすらに駆ける。
少女は既に蠢く巨大な影へと両手を差しのべている。
「魔神にも名前を付けてあげないとね」
その時、テスラの心に浮かんだのはひとつの言葉だった。
『故に、お前を斬る。この大陸に二つも太陽はいらない』
そうしよう。背に迫る気配に少女は艶然と微笑んだ。
彼らが五色の神と共に“虹”を任じるなら自分達は“太陽”を名乗ろう。
「――其は地獄の果てで煮え滾る炉神、二度と沈まぬ黒き太陽」
――黄金の瞳と蒼き双心の誓いをここに」
「テスラッ!!」
遂に追いついたカイの声に一瞬、テスラが振り向く。
透き通るような笑み。己の生まれた意味を果たした瞬間を捉えた笑みであった。
剣を抜く――より、一瞬早く、テスラが最後の言葉を紡いだ。
「――魔神融合、“天ノ黒陽”」
そうして、急速に広がっていく魔神の闇が少女を、カイを呑み込んだ。