14話:剱
それはまるで色褪せた本に記されたような、風化した記憶であった。
その男はある時、辺境の村のはずれで倒れているところを村人に発見された。
有体に言って怪しい男であった。魔物に襲われて重傷を負った際に記憶を喪失し、何故、自分がその村へやって来たのかすら分からないというのだ。
素性の知れない男を村の人々はそれでも歓迎した。
男は辛うじて体が覚えていた剣の鍛錬に励み、村の誰よりも強くなった。男は村で唯一、神との契約者であったのだ。
辺境の村には教会もなく、そもそも人口が少なすぎて契約を受けられるだけの素質を持つ者もそうそう生まれない。
その村においても男は百年ぶりの契約者であった。
男の怪我は長く尾を曳いたが、それも徐々に癒え、数年ほどで村は魔物の襲撃に怯えることがなくなった。
天からの贈り物だと村の者達は男の類稀な武勇を称えた。
十年が経った。
男は村に拾われた時から面倒をみてくれていた女性を妻に娶り、子宝にも恵まれていた。
決して裕福な暮らしではなかったが、素朴で、穏やかな日々がそこにはあった。
記憶は戻らずとも、このまま幸福な日々が続くと男は無邪気にも信じていた。
だが、そんな日々は唐突に終わりを告げた。
ある時、隣の村近くに大型の亜竜が出現した。
一日と経たず数人の生き残りを残して隣村は壊滅した。
亜竜は明らかに村人程度の手に負える存在ではない。話に聞いただけでも、魔獣級、ひょっとすればその上位の可能性すらあると男は判断した。
国軍やギルド連盟の救援は見込めない。村は大陸南部の外れも外れだ。最寄りの街へ行くにも五日はかかる。
もっと早くに気付いていれば何かしらの手も打てたかもしれないのが、今となっては村人達を避難させるのが精一杯であった。
他の者では手に負えない。自分がやるしかない。
男は妻の制止を振り切り、単独で討伐に出かけた。
今こそ拾って貰った恩を返す時だと、そんな想いを抱いて――。
三日三晩続いた死闘の末に男は亜竜を撃破した。
持てる全てを使い切る程の戦いを男は制した。
男の武は英雄と呼ばれるにふさわしいそれであった。
そうして、疲れた身体を引き摺って村に戻った男が見たのは、炎に焼かれた村と、半身を食い千切られた妻子の姿であった。
亜竜は二体いたのだ。
半狂乱の中で二体目を葬った後、炎に焼き尽くされた村の中心で男は必死になって考えた。
あるいは、何の手立てもなければ男も諦めたのかもしれない。
だが、戦いの中で位階をあげた男は朧げながら過去の記憶を思い出していた。
自身に与えられた時間に干渉する加護、その存在を思い出していた。
男は考える。加護が可能性の拡大だというのなら、己には時に干渉する才覚があるのだろうと。
五年後、想像を絶する鍛錬と戦いの果てに、男は英霊級に至り、過去へと戻る権能を獲得した。
その魂の名を“■■■■”という。
魂の消耗と引き換えに己の意識を過去へ飛ばす権能。
時間停止と並ぶ、神に許された超越の異能である。
時間遡行には危険がある。記憶を失っていたのもおそらくはそれが原因だろう。
男の本能はそれを認識していたが、それでも躊躇なく過去へと跳んだ。
あの村を救う。ただそれだけを願う存在に男は成り果てていた。
意識が覚醒する。
男の目の前には一体目の亜竜の死体があった。死んで間もない。数秒すれば死体は四散し、魔力結晶だけが残るだろう。
できるだけ跳んだつもりだったが、この時点が限界であったことに男は記憶を喪失してから初めて己の能力を呪った。
それでも、男は拭いがたい魂の消耗を気合で補い、ひたすらに走った。命を削り、限界を超えて走った。
――それでも、間に合わなかった。
あるいは、それで諦めればよかったのだ。
だが、男には煌めくような才能があった。神が肯定する可能性があった。
絶望とは、文字通り望みが絶えることであることを、男はまだ知らなかった。
主観時間でおよそ五百年後。
百度の鍛錬と百度の挑戦を経ても、男は望みを叶えることができなかった。
どれだけ手を尽くしても、村の滅びに、妻の死に、男は間にあわなかった。
男は、狂った。
全てを失った男は神の加護すらも捨て去り、幽鬼のように大陸をさまよった。
何の希望もなく、淡々と魔物を狩り、時に戦場に乱入し、独力で位階を上げていった。
男には百度繰り返した五年間があった。成長性を拡大する神の加護がなくとも、その身に蓄積された経験は神域に指をかけていた。
何より、今さら神に縋る気にもなれなかった。男にとって、神とは崖の先に希望をちらつかせた悪魔でしかなかった。
そんなある日、男はソレに出会った。
戦乱の導テスラ、古代種の復権を願い、魔神に挑まんとする古き者の王に出会ってしまった。
「面白い奴だな、キミは。どうだい、一緒に魔神に挑む気はないかな?」
夜闇に笑う少女の言葉に呼応して、男の中に何かが生まれた。
憤怒であり、憎悪でもあるそれは、男が再び顔をあげる原動力となった。
男の中に新たな目標が生まれた。
――神を破壊する。
その結果、世界が壊れるのなら、この身に絡まった因果も消え去るだろうと。
百度の時間跳躍で原因すらも色あせてしまった絶望を乗り越えられるかもしれないと、一縷の望みをかけて。
この絶望が、古代種たちを遠因とするものであることも直感していた。
それでも構わなかった。
男は、既に思い出すことすらできない望みを叶える為に王の手を取った。
“破戒無式”ガイウスと名乗る男の旅が始まった。
そうして、男は遂に原初の海へと降り立った。
狙うは魔神、そしてこの大陸を守護せし五柱の神々。
全て破壊する――が、その前にひとり、決着をつけねばならない者がいる。
――カイ・イズルハ、五人目の武神。
己の魂に、怒りとも憎しみとも違う何かを呼び起こした存在と決着をつけねばならない。
◇
気が付くとカイはひとり原初の海に立っていた。
肉体を持ったまま彼岸の世界へ来ることには成功したようだった。
隣にソフィアはいない。おそらく此方側の世界への適応度の違いだろう。
ソフィアとテスラはもっと深い場所、すなわち魔神に近い場所に降りているのだろう。
追いかけねばならない。
ソフィアひとりでは未だ上位に位置するテスラは分が悪い。
だが、その前に決着をつけねばならない相手がいる。
目の前、剣の間合いに立つのは四人目の武神。
返り血に染まった赤黒の短髪に、巌のような巨躯、手には父の形見たる無銘。
数え切れないほどの傷痕をその身に刻み、傷に倍する返り血を浴びてきたことを窺わせる人型の刃金。
直接戦闘能力ではテスラよりも、ひょっとすれば魔神よりも上の存在。
ここで斬っておかなければいつどこで盤上をひっくり返されるかわかったものではない。
「いや、理由など瑣末事か……」
敵は斬る。心に浮かぶはただその一念。
「……ガイウス」
宿敵の名を口にして、カイは不思議な気分だとひとりごちた。
怒っている。憎んでいる。だが、それらを口にしようとは思えなかった。
父の剣を奪われ、技を盗まれ、仲間を傷つけられ、遂には師まで殺されたのだ。
戦場の習いとはいえ恨みごとのひとつでも言っておくべき所だ。
なのに、言葉が浮かばない。
(……ああ、そうか)
しばらく考えて気付いた。
この男は“過去”だ。何かを踏み外し、そして、立ち戻ることのできなかった己の、あるいはクルスやソフィア、イリスの似姿だ。
未来から目を逸らし、可能性を否定した映し身だ。
(だからこそ――斬る)
否定や破壊もここまで極めればひとつの道なのだろう。
最早、言葉では何も伝わらない。この魂だけがあの男に届くただひとつ。
だが、それでも、ひとつだけ言っておかねばならないことがある。
「誓う。俺はお前に勝った後、必ず魔神を斬る」
カイの宣言にガイウスは微かに眉を顰め、しばらくしてゆっくりと頷いた。
「――いいだろう。オレは貴様を倒した後、必ず魔神を破壊する」
「……かたじけない」
無骨な応えに目礼を返し、カイがじりと一歩を踏み出す。
対するガイウスは両手で無銘を構えた。
無明壊刃の構え。しかし、感じる威圧はかつてのそれとは異なる。
「こうしてお前とまた戦う日を待っていた……改めて名を訊かせてくれ、侍。
武神としてではなく、剣士としてオレはお前と死合いたい」
「……少し、変わったな」
「貴様もな」
覇気があるというべきか。武神ではあってもどこか空虚だったガイウスに確たる中身があるようにカイは感じた。
それが何故なのか。考えるまでもなかった。
(ゲンハ、イアル。お前達は届いたのか)
そう悟った。相手はもう狂った刃金ではない。ひとりの剣士だ。
ここに至るまでガイウスという男に誇りはなかった。
復讐から誇りは生まれないからだ。
だから、この一戦だけ。この一戦に勝つ為に男は復讐を忘れた。
代わりに抱くは唯一つ。老兵と老剣士が思い出させてくれた――武の魂。
その胸に宿った熱こそ、男に足りなかった最後のひと欠片。
――武の頂きは此処に成る。最強の敵として此処に在る。
ならばこそ、カイは真っ直ぐにガイウスを見据えて告げた。
「カイ……お前がそう云うのなら、俺はただのカイだ」
「そうか。オレはガイウス。ただのガイウスだ。では――存分に殺し合おう」
「……ああ」
最早、カイに憂いはなかった。あとは全力を尽くすのみ。
足元の凪いだ水面の如く、澄んだ心のままカイは一振り目の剣を抜く。
鞘から離れた銀剣“比翼”が神気を纏う。黒神の欠片をその身に秘めた神剣として凄絶な威を放つ。
それ以上の言葉はなく、カイは水面を蹴って一気に間合いに踏み込む。
同時に、待ち受けるガイウスの剣が真っ向から振り下ろされた。
応じるように斬線に比翼を差し込み、烈剣の軌道を僅かに逸らす。
轟音と共に躱した一撃が水面を深々と断ち割り、水飛沫が飛ぶ。
その小さな飛沫すら足場にしてカイはさらに加速、鋭く斬り込んだ一閃がガイウスの頸を断たんと奔る。
迫る銀光をガイウスは上向くように頸を反らして避けた。剣の起こした風に男の額が僅かに裂ける。
険しいまま固定された修羅の貌に、血の滴る壮絶な笑みが浮かぶ。
「――ッ!!」
直後、カイが咄嗟に跳び退った空間に猛然と無銘の剣先が打ち込まれた。
大気が諸共に砕かれ、頬の薄布一枚向こうを切っ先が通り過ぎる。
空間ごと捩子切るような衝撃波がカイの肌に裂傷を刻む。
(避けきれない。だが、喰らえば致命に届く。これが神を捨てて得た力……)
改めて対峙してわかった。
神の否定、それこそがガイウスの“破戒無式”の正体だ。
魔法も、加護も、契約もこの男の前では意味を成さない。
鍛えた技と体一つ、そして己の魂だけで相対せねばならない。
果たして、それはどれ程の執念の果てに成った力だろうか。
神の力を借りず、身ひとつで神の加護に匹敵する力に辿り着いたのだ。
あるいはこの男こそ、真の意味で武神に至ったただ一人なのかもしれない。
「だが――ッ!!」
否定の想いを胸にカイは真っ直ぐに突っ込む。
魂が消し飛ぶような迎撃を紙一重で躱す。
反撃とばかりに放つ一閃はガイウスを傷つけるが、致命傷だけは弾かれる。
与えている損傷はこちらの方が多い。一撃で覆る優位だが、現状は優勢だと思考が告げる。
一方で本能はこのままでは勝てないと結論する。
どれだけ傷を重ねようとも、斬れないならば殺せない。
カイ・イズルハという剣はそういうものなのだ。
故に、さらに踏み込む。
先よりもさらに深く。命を晒し、命を奪う相殺の剣。その意を果たす。
ガイウスは待ち構える――とみせて、するりと一歩を踏みこんで無銘を打ち込んできた。
機を奪われたカイは水面を弾くように跳んで一撃を回避し、その反動を乗せた一閃をガイウスに首元めがけて撃ち放った。
「――俺は勝つッ!!」
◇
(速い……)
迎撃に放った破戒無式の斬撃が、刃金の翼によって更に加速した一閃に斬り払われる。
あらゆる加護、契約、守りを砕く神技を、神を斬ることに全てを賭けた一刀が相殺する。
この男には神の否定は意味を成さない。ガイウスは悟った。
相手もまた神から離れている。借り物の力ではない。
互いの力は既に神域、人間の限界を遥か超えた所で同格。
つまり、勝敗を決する要因は――互いの剣と魂のみ。
白熱する思考の中、首を刈る一閃を皮一枚を断たせて凌ぎ、
これ以上ない瞬間に放った裂帛の一撃が絶影の一歩で躱される。
交わることなく互いの命へと迫る斬撃は、ただ冴え冴えとした刃音だけを原初の海に残す。
「――――」
「――――」
海が割れ、風が散り、無数の火花が咲き誇る。
人の速度は既に彼方、互いの剣は更なる加速を刻んでいく。
言葉すらも剣技にくべて、ただひたすらに技を汲み交わす。
戦いの灼熱に脳髄が沸騰し、身を斬るような殺気に心が凍りつき、技を尽くした十数合を経て互いが生存していることに魂が歓喜の声をあげる。
叶うならばずっと続けていたいと、そう願うような死闘だった。
だが、剣を抜いた以上、斬らずにはおれない。
互いのその魂は刃金でできているが故に。
数奇な人生を送ってきた二人である。
運命が/偶然がその身を鍛えた。
悲劇が/英雄が熱き刃金を打った。
繰り返す時が/魔神の呪いがその身を縛った。
秋霜烈日が/果てなき荒野がその身を導いた。
――すべてはこの一戦のために。
そして、互いに致命の一撃を放ち、互いに凌いだ刹那、ふとカイが苦笑するのをガイウスはみてとった。
「何がおかしい?」
身体から余裕を掻き集め、剣と共に問いを放つ。
水面を縦横無尽に駆ける侍は横薙ぎの斬撃を過たず避けて、しかし、生真面目に問いには答えた。
「神殺しだと持て囃されても、結局、何も変わっていないことに気付いた」
「当然だ。どう生きようと、己は己以外の何者でもない。何者にも代われない」
「……それはお前の後ろで好き勝手している奴に言ってやれ」
「神とひとつになれるかなど、オレにとってはどちらでもいい話だ。たとえテスラが魔神を御す者になろうと、ソレを破壊することに変わりはない」
「そうか。……そうだろうな」
この男は孤高だ。剣戟を放ちつつ、カイはその事実を確と心に刻んだ。
神の加護を捨て、呪術ですら縛ることはできず、ただひたすらに己を鍛え抜き、独力で神域まで辿り着いたのだ。
それはカイにはできなかったことだ。
カイの半生は他者の力を借りてばかりだった。
父と十二使徒の皆に鍛えられ、クルスに守られ、イリスに支えられ、ソフィアに導かれ、そうして多くの人と神の力を借りてようやく此処に辿り着いたのだ。
いつ途切れてもおかしくない細い道のりだった。それを考えれば、非才の身で此処に自分が居るのは神にすら再現できない奇跡だろう。
「……いや、元より俺は何かの力を借りねばならないモノだったな」
カイ・イズルハは剣がなければ何者にもなれない半端者でしかない。
だが、それを卑屈に思うことはない。何も恥じることはない。なぜなら――
(だからこそ、俺は此処まで来れた。そうだろう、ガーベラ?)
「……あちらも佳境のようだな」
剣を止め、虚空を見上げたガイウスが呟く。
周囲の海は僅かに波立ち、強烈な力の奔流が肌を震わせている。
カイはソフィアのことを想う。これ以上の時間はかけられない。
「決着をつけよう、ガイウス」
「――ああ」
応じるように、ガイウスが無銘を上段に構える。
カイもまた比翼を右腰に流し、全速で駆け出す。
水面に微かな波紋を残し、水きり石の如き疾走で侍は駆ける。
ひたすらに心が澄み渡る。カイ・イズルハという存在の最高速度がここにある。
人生で最高の一瞬。きっと、この身にこれ以上はない。
この一瞬の攻防が己の神だ。
「――真に輝け、至高なりし、白銀剣」
カイが紡ぐは祈り。魔を祓う澄んだ白銀の光が原初の海を照らす。
魔力を受けて一刀を形成する比翼の剣にカイは己の全てを込める。
全てはただこの宿敵を超える為に。
「――全て超え、全て、破壊する」
ガイウスが紡ぐは呪い。しかし、男の魂を穢すことは呪いにすら不可能。
強引に捩じ伏せた呪いがガイウスの肉体を強化する。
気炎と共に真紅の呼気を吐き、赤熱化するその身は束の間、死を忘れる。
そうして、互いの間合いが触れる。
全力の加速で音の壁を破り、自身の最速を超え続けながらカイは踏み込む。
ここにガーベラはない。刀気解放は起こらない。あの剣の息吹はない。
だが、剣がサムライの魂と言うならば、この胸に共に在る筈だ。
魂に刻んだ斬撃の軍勢を今一度ここに。
「――吹き荒べ、天ツ風ッ!!」
――心技・アメノムラクモ――
白熱する魂に応じて、透き通る至高白銀の一刀が翻り、神速の連斬が放たれる。
対するガイウスの無銘は緩やかな真円を描く。
無明壊刃、絶対の防御と必殺の破壊を併せ持つ剣が嵐の如き翼刃を迎撃する。
だが――
「――ッ!?」
一刀目を防いだ瞬間、ガイウスは瞠目した。死の予感が己が背骨を掴んだのだ。
アメノムラクモ、一太刀でも許せば即座に命へ届く必斬にして連刃の剣。
だが、あまりにも速すぎる。斬撃の始動と到達が殆ど同時、それもほぼ零距離から放たれている。
防ぐためにはガイウスをして一歩退く必要がある。
だが、ガイウスが退けば、その分だけカイが前に出る。
前に出た分だけ侍は更に加速する。
刃金の翼、その魂はこの段に至って尚、加速し続けている。
一瞬が果てしなく長い。斬り刻んだ時間の中で無間の刃が煌めく。
男の心臓ががなりたてる。未来予知の域に届く心眼が告げる。
このままでは負けると。加速し続ける相手を防ぎきれなくなる瞬間が来ると。
(オレは――)
いつの間に魂の名を喪ったのか。そこに宿る意味をなくしてしまったのか。
逃れ得ぬ死に抗しようとする走馬灯が導いたのはその問いであった。
繰り返す時の中で摩耗した魂は答えすら忘却の彼方に追いやっている。
「――ッ!?」
次の瞬間、カイの加速が遂にガイウスの反応限界を超えた。
時間がない。永遠にも感じられる一瞬、次の一刀は防げないと確信する。
そうして、明確な死を認識した刹那、ガイウスは――
「オレは負けないッ!! 今度こそッ!!」
無意識の言葉と共に剣戟の嵐の中、一歩を踏み込んだ。
勝てない、死ぬ。それがどうした。その前に敵を破壊するだけ。
この身はただ、それを成す為に鍛えた刃金。
「――オォオオオオオオッ!!」
神速域で翻る斬撃に削られながら、ガイウスは無銘を振りかぶる。
どれだけ削られようと魂が折れぬならばこの身は不滅。そう自己を規定する。
折れぬ魂、不滅の肉体、最強を任ずる剣。
故にこの身は神にすら届く。
そう強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く、一心に念ずる。
そうして、翼刃に頸を落とされた刹那、同時に振り抜いた一閃が遂に時を破壊した。
思い出す。思い出す。魂がその手応えを思い出す。
――“刻の飛翔”
喪われた筈の魂の名。男はそれを取り戻した。
即座に時間遡行の権能を発動する。
意識が真白い空間を抜け、一瞬前の世界に戻る。
遅滞なくガイウスは無銘を振り抜く。放たれてからでは反応できないアメノハバキリも、一瞬後の自分の死に様を知っていれば対応は可能。
踏み込み、振りかぶる。完璧な間合い合わせ、刹那にカイの目が見開かれるのがみえる。
――神たる神を赦さず。我は始原を砕く狂えし刃金
次の瞬間、ガイウスの薙ぎ払いの一撃が至高白銀の刃を破壊した。
宙に透き通る破片が散り、数瞬の後、吸い込まれるように水面に落ちていく。
間をおかず、ガイウスは剣の間合いに踏み込む。
勝利がみえた。この未来は逃さない。
後は振りかぶったこの剣を打ち下ろすだけ。
カイを見る。相手もまだ終わっていない。
互いの瞳に互いが映る至近距離、その手は既に背の剣を抜いている。
(――ク)
心中で大笑する。やはり自分の目に狂いは無かった。
この敵は強い。きっと誰よりも強い。
故に、決着はこの剣でつける。神や運命に横取りさせる気はない。
「これで――ッ!!」
ここにきてガイウスは己の真価に気付いた。
刻の飛翔を起こしつつ、破戒無式を振りかぶる。
相手の攻撃を認識した瞬間に時を遡り、完璧な間合いで必殺の斬撃を放つ。
誰も防げず、知覚すら許さない、己の最強の連携技。
世界から音が消える、色が消える。意識の中で全てが巻き戻っていく。
「――――」
だが、予想以上がひとつ――加速し続けた相手が逆巻く時に追いついたのだ。
有り得ない。そんな言葉すらこの刹那には陳腐に過ぎる。
事実はひとつ。影すら絶つ無間の加速が今、時に届く。
憤怒の五百年を乗り越えて、一振りの剱を振りかぶる。
神速の世界、振り抜かれるその一刀こそ光を追い越し、輪廻すら断ち切る涅槃寂静の一閃。
「斬刃一刀――」
――この世、最速の剣
その涅槃にガイウスはみた。
カイの背に連なる無数の人影をみた。
子供がいた。老人がいた。男がいた。女がいた。老兵と老剣士がいた。その誰もが戦士だった。
それこそは連綿と紡がれてきた戦いの歴史、技に宿った武の魂。
ひとつひとつは小さな断片でしかないそれらが翼の如く無数に連なってカイの背に続いている。
踏み込み、振りかぶり、振り下ろす。
祈りにも似たその所作に数千年の歴史が集い、迸り、一筋の剣閃を描く。
(これが、ヒトの――)
そして、互いの剣が振り下ろされた。
◇
凍りついていた時が動き出す。
鏡面の如く澄んだ原初の海はひどく静かであった。
小波すらも沈黙し、人の極みを見せた二つの斬撃に断ち切られたかのように、動くものはない。
だが、その静寂も長くは続かない。
くるくると舞っていた金属片が水面に突き立ち、決着を告げる涼やかな残響を鳴らす。
それを合図にしたかのように剣ごと断たれたひとりが血を噴き、ひとりが残心を取って血を払う。
「――見事だ」
背中を向けたまま告げられた簡潔な称賛に、カイは様々な思いを込めた黙礼で返した。
今までの人生の中で、最も魂を振り絞り、全力を尽くした戦いだった。
此処でこの男と戦わなければおそらく自分は魔神に負けていただろう。
この一戦は忘れていたことを、自分が自分であることを思い出させてくれたのだ。
手の中で比翼が役目を終えて砕け散り、括っていた髪が解ける。
相手の剣は後ろ髪を括る白紐に触れかけていた。
真実、間一髪。少しでも振り遅れていれば斬られていたのは此方だった。
相討ちにならなかったことすら奇跡といえる。
「今……生まれ……初め……戦い、楽しいと……」
「ガイウス……」
根元から断ち切られた無銘と体をそのままに、晴れ渡った青空を見上げるガイウスの背中はひどく澄んでみえた。
カイの手には確かに命を断った感触が手に残っている。水面に流れ落ちる血の量も致命傷を示している。
武神とはいえ不死身ではない。斬られれば、死ぬ。それだけの存在であった。
だからこそ、カイもまた本心で以て返した。
「そうだな、良い戦いだった。叶うならばもう一度やりたいと、そう願うような戦いだった」
「願、わくば……」
「ああ。先に還っていろ。俺も必ず“そこ”へ行く。再戦はその時に」
「――――」
返事はない。
悼むように吹く柔らかな風が原初の海に小波を生む。
カイはもう一度だけ目を閉じ、後は振り返らずに走り出した。




