10話:死と戦いの神
どこからか吹く渇いた風が頬を叩く感触に一瞬飛んでいた意識が引き戻される。
周囲は赤茶けた荒野の続く世界。己の心の世界だ。
そして、数歩先に待ち望んだ存在がいた。
『――よう、来たぜ、後輩』
アスラたちと同じ甲冑に、無地の仮面を着けた男が軽い態度で片手を挙げる。
以前よりも容姿がはっきりと視える。コレが本体なのだろうとカイはみた。
「貴方は黒国最後の王であり、初代の封印だったのか」
『そうだ。今は黒神の一部さ。黒国の王は代々死後を神に捧げてたんだよ』
「……だから、王墓もまた無銘なのか」
カイは納得した。この男は、歴代の黒国王達はその名前に宿る信仰すら足しにして、神の一部となったのだろう。
無銘王墓は王達の墓であり、同時に黒神達の墓でもあるのだろう。
彼らを表する名は黒神ケリオスただひとつなのだ。
『今のオレは――オレだったものは名もなく、姿も自我もない“権能”でしかない。本来はこうして能動的に活動することはできないし、お前と対話することもできない。人間が剥き出しの魂のまま神に接すればそれだけで発狂してもおかしくないからな』
「……」
『この身は黒神の中に残った最後の人間性だ。どこぞの忠義者達がオレ自体の存在を祀り、保ってくれているらしい』
「イキクサ達か」
『ああ、オレには過ぎた戦友たちだ。千年以上経っているのにな』
男は仮面の奥で声を苦笑を刻んだ。
表情は見えないが、声には深い感嘆が混じっている。それほどに主と従者は想い合っていたのだろう。
『ずっと仮面を着けたままで悪かったな。顔も名前も魂も、全部ケリオスにあげちまったんでな』
「気にしていない。だが……わざわざ此処まで呼び寄せたのだ。覚悟は出来ているのだろうな?」
カイの問いに男は――黒神の一部たる存在は困ったように頭を掻いた。
『お前は今代の封印……あの嬢ちゃんの為に命を捨てられるか?』
「無論だ」
『命も何もかも、全部失うかもしれないぞ?』
「それがどうした」
大切ならば、大事に取って置かなければならないのか。
命とはそういうものではない。ないがしろにする訳ではない。
カイは既に決意している。
「約束した。俺はそれだけだ」
『……そうかい』
ありったけの決意を込めた言葉に、黒神は遂に気配を変えた。
先までの軽い雰囲気は既に無い。対峙しているだけで魂が削れていくような威圧感がカイの身を苛む。
相手は一部であるとはいえ紛うことなき黒神。
本来は同じ域に至っていないカイが対峙できる相手ではないのだ。
『初めに教えとくが、使命を終えた封印は黒神に吸収される。より強力な封印を創る為の糧となる』
「……胸糞悪い話だ」
『だが、大陸に住むすべての生き物には代えられない。いつか、黒神は魔神を完全に封じられるようになる。犠牲は無駄にはならない』
「ソフィアはそうならない。その前に俺が魔神を斬る」
敢然と宣言するカイに、黒神はハンと鼻で笑うことで応えた。
『なら、神の一部を斬ってみせろ。お前にオレ達が強いた犠牲を超える力があると証明してみせろ』
「……やはり」
『“神殺し”に成る方法はきっとひとつしかない。すなわち、神をその手で殺すこと。単純だろう?』
己の言葉を鼻で笑い、黒神は剣を抜いた。
一目で神剣とわかる強烈な気配を纏う剱。
カイもまた理解した。封印と神殺し、望む方向性こそ違うが、かつて人間であったこの男もきっと同じ方法で封印に至った――神の一部に成ったのだろうと。
『ここでお前が負けるようなら、オレはお前を殺す。お前の魂でこの身の損耗を埋め、もう一度、今度こそ永遠に魔神を封印する。単純な理だ。強い方が残る。強い方が魔神に挑む。
……まあ、オレが顕現できるようになるのは、お前のツレが完全な封印になった後だがな』
「ふざけるなッ!!」
それは断じて許容できるものではなかった。
カイの精神は一瞬で沸騰した。憤怒のままに吼える。
「魔神を倒す気がないのなら、どけ。邪魔だ!!」
『いいぜ、後輩。人間はやっぱそうでなくっちゃな!!』
黒神は仮面の奥で笑い、その全身に刻まれた金色の刻印を起動した。
神に属する者の持つ莫大な魔力が物理的な圧さえ伴って解き放たれる。
『目ん玉ひん剥いてよく見とけ。これが――神の封印の行く末だ』
瞬間、世界が凍りついたのをカイは知覚した。
一切の無明、大気すらも壁の如く硬い色のない凍結世界。
間をおかず、凍る世界を切り裂くようにしてカイは駆けだした。
『オレの封印も効かないか。これが本当に偶然だっつうから世界は面白いなあ、後輩!!』
「ほざけッ!!」
咆哮と共にカイは銀剣を抜きつけた。
黒神もまた神剣を振り上げ、猛然と突進し、激突する。
互いの剣がぶつかり甲高い金属音を響かせる。
「――ッ!?」
押し負けた、と理解した時には既にカイは吹き飛ばされていた。
空中でとんぼを切って再度の突進をかける。
手には痺れが残っているが、足を止めれば時間ごと止められる。攻め続けるしかない。
『テメエにオレ達の千年を否定する力が、意志があるのかよ!?』
だが、同門にして源流。それを証明するかの如く、黒神は先手を取って追撃をかけてきた。
撃ち込まれる一刀に横合いから銀剣を叩きつける。
無明の世界に火花が散り、カイは辛うじて受け流して致死圏を抜ける。
『退けねえんだよ!! オレ達がどれだけの屍を積み上げたと思ってる?
――どれだけの祈りを背負っていると思ってる!?』
「その結果が新たな人身御供か。聞いて呆れるぞ、黒神!!」
追撃を避けると同時、カイは即座に足を返して黒神の首元を薙ぎ払った。
攻撃、攻撃だ。相手が誰でもあれ、手を出さなければ斬ることはできない。
だが――
『魔神に挑んだこともないヒヨッ子が息捲いてもなあ!!』
「ッ!?」
届いたと思った瞬間、黒神の全身の刻印が眩い光を放った。
直後、カイの足が僅かに鈍った。踏み込んだ筈の一歩が空転する。
銀剣の切っ先が空を切る。
時間停止の権能が“刃金の翼”の加速を僅かに上回ったのだ。
その隙を逃す黒神ではない。上半身の流れたカイに対し、その胴を両断せんとする神剣の一閃が振り抜かれる。
カイは咄嗟に銀剣を立てて受け止める。
が、威力を殺しきれず、再度勢いよく吹き飛ばれ、二度三度と荒野を転がった。
「グッ……」
『どうした、後輩。脆すぎだぜ。テメエの力はこの程度か?』
「好き勝手言うな……」
重い。カイはただそれだけを感じた。
技量に大きな差はない。状況で覆せる程度だ。だが、決め手がない。
カイは銀剣を杖にして立ち上がりながら心中でそう断じた。
速度では上。だが、相手の一太刀一太刀の重さに抗するものが己にはない。
考える。この一戦は魔神と戦う予行でもあるのだ。
神を殺す為には、神との境界を定める肉体と、神と対峙する覚悟と、神を殺す技が必要となる。
聖地を経由して体は持ってきている。覚悟も既に定めている。
ならば、あとは――
(――技……ここにきて技か)
人極たる今の己の技でも足らないのか。
その迷いが動きを鈍らせる。手足の先から時が凍りついていくのがわかる。
この場所は心の世界。気迫で負ければそれが即、敗北に繋がる。
そうわかってはいても、このままでは結局――
その刹那、天より二筋の流星がカイの目の前に降り立った。
「ッ!! ……あ、ああ――」
それを見て、カイの目は涙に滲んだ。
目の前に突き立ったのは二振りの銀剣であった。
一目見れば、それが誰の銀剣かはわかる。
二十年近い付き合いの者たちなのだ。わからない筈がない。
何故、この彼岸の世界にきたのかも、また。
「イアル、ゲンハ……」
こうなることはわかっていた。覚悟はしていた。別れも告げていた。
それでも、心は軋みを上げる。
涙は堪える。奥歯を砕かんばかりに噛み締める。
悲しみは火にくべる。ここで心を萎えさせるわけにはいかない。
二人は自分を高みに押し上げる為に死んだ。その命を背負えるのは自分だけなのだ。
そうだ。背負っているものならば負けはしない。
この身に伝えられた武は決して――神に劣るものではない。
カイは決意した。神殺しに成るのではない。この身は、この剣は神にも届くのだと証明するのだ。
その一心で己の銀剣を背の鞘に納め、両手にイアルとゲンハの銀剣を握った。
即席の二刀流、歯を食い縛って構える姿には流麗さの欠片もない。
『――来るか、後輩』
「――いくぞ、黒神」
だからこそ、恐ろしい。それをよく知る黒神は歯を剥いて剣を構えた。
『――震えよ、“空我”!!』
黒神の詠唱に従ってその手の中で神剣が眩い黒光を放つ。
神の恩寵高き黒国の秘宝が空間を捩じ切らんばかりの威力を纏って神威を発動する。
構わず、カイは全力で駆けだした。
五歩で音の壁を超え、足跡の代わりに焼け焦げた轍を曳いて真っ直ぐに黒神に迫る。
その脚はイアルと共に森を駆けた日々を覚えている。
一度として主を裏切らなかった俊足は彼に鍛えられたものだ。
『――シッ!!』
迎撃する黒神が上段から一刀を叩きつける。
放たれる黒光が致死の威力を以て迫る。
カイはそれを――避けなかった。
斬られた。頭頂部から股の間まで一刀両断される激痛に、黒光に魂が削られる恐怖に意識が途切れかける。
気合で堪える。此処は心の世界。気迫で負けていないならば、勝機はある。
「――オオオオオオオオッ!!」
吼える。咆える。悲しみすらも糧にして魂の限り咆哮をあげる。
神剣の纏う神威に魂が消し飛ばされる――よりも僅かに早く、その両手の銀剣を黒神に突き立てる。
古式の甲冑を砕き、肉を裂く感触が二度、手に返る。
その腕はゲンハと斬り合った日々を覚えている。
如何なる相手をも断ち斬る剣腕は彼に鍛えられたものなのだ。
咆哮を放ちながら、カイは止まらず進み続ける。
たたらを踏む黒神へさらに一歩を踏みこみ、加速し、背の銀剣を抜く。
「――斬■一刀オオオオオッ!!」
絶叫に等しく紡ぐは必斬の誓い。
白熱する脳髄が、積み上げてきた修練が、絶対を誓った魂が証明する。
そうして、振り抜かれた一刀を阻む者は何もなかった。
気付けば、視界に光が戻っていた。時間停止が解除されたのだ。
荒い息をつきながらカイは斬り抜いた黒神へと向き直った。
同じように振り向いた黒神は正中に沿って体を両断されていた。
断面から零れるものはなく、剣士の体が力の塊でしかないことがわかる。
『……負けた、か。剣で負けたのはいつぶりだったか』
「――――届いた、のか」
『驚き過ぎだぜ、後輩』
己の剣は神の一部とはいえ、確かに届いた。斬った。その事実にカイの心を震えた。
苦笑を滲ませる黒神の顔から、からんと音を立てて両断された仮面が落ちた。
「――ッ!?」
カイは息を呑んだ。仮面の下には何もなかった。ただ空洞が広がっていた。
己の顔すら封印の足しにしたという男の言葉は真実だったのだ。
運命から外れたカイにはもう、その空洞に過去も未来も映らない。ただ黒国最後の王となった男の覚悟がみえるだけだ。
『無様な姿で悪い。オレはこれで消えるからもう少しだけ我慢してくれ』
「……こうして会話することはもう出来ないのか?」
『できないだろうなあ。この欠片がオレに残った最後の人間だからな。あとは全部神サマってなもんだ』
そう言って、黒国最後の王は両断された体を引きずるようにしてカイの前に立った。
『技は、神技はみえたか?』
「……ああ」
カイは確と頷いた。神を斬る。その為の技に手が届いた。
アメノハバキリ、アメノムラクモに続く最後の心技にして神技。
神代三剣。斬剣の涯。元より、カイにできるのはそれしかない。
『そうか。なら、オレの役目も……これで終わりか』
千二百年分の想いを一息に籠めて、顔のない剣士は天を仰いで大きく息を吐き、次いで、カイに向き直った。
『勝者の権利だ。オレの力も持って行け。黒神の欠片でしかないが、ないよりはマシだろう』
言葉と共に、黒神の体が薄れていく。
断たれた体が、神剣が三本の銀剣に吸収されているのを、カイの右目は知覚した。
『――お前は決して運命には選ばれていない』
消えゆく黒神が告げる。
『どれだけ候補がいようと同じ時代に二人の封印が現れることはない。オレ達はそういう法を作った。
――運命が選んだのはあの嬢ちゃんだ』
「……」
『だから、お前は自分で、自分の力で封印に、いや“神殺し”になったんだ。世界開闢以来、初めてのことだろうよ』
黒神の体は既に下半身が消え、上半身も徐々に消えかけている。
それでも、黒神は気配で笑って右手を差し出した。
カイもまたその手をとって握った。砂に触れたような儚い感触が胸を打つ。
『ようこそ、後輩。お前は今、神の領域に立った。さあ、その剣に名をつけてやれ』
「剣に?」
『名は存在を縛る。銀剣のままじゃオレの力には耐えられないぜ』
言われて、カイは目の前の剣士を想う。
その手にあるのは神剣“空我”。
空なる我、その全てを黒神に捧げた男の任じる全てが剣に籠められている。
ならば、自分は――
「――“比翼”、これから、この三剣は比翼だ」
「比翼か。いい名前だ」
遂に首から下が消えた黒神は最後とばかりに口を開いた。
『忠告しておく。お前が神として剣を抜けるのは三度だけだ』
黒神の力は三振りの銀剣――“比翼”に吸収されている。
いくら最古の魔導兵器とは言え、神の器には足りないのだろう。
一度抜けば壊れる。カイもまたそれを理解した。
一振りにつき一度だけの神殺しの力。使いどころを間違えてはならない。
「他の剣は持てないのか?」
『耐えられる剣がないだろうな。なんとかしてその力を魔神の所まで温存しろ』
「了解」
『三振り目を抜いた後にどうなるかはわからん。前例がないからな。死ぬかもしれんし、オレ達に吸収されるかもしれん。
後に何が残るのか。あるいは、何も残らないのか、神ですら知り得ないことだ』
「元より覚悟の上だ。――それと」
カイは居住まいを正して殆ど消えかけている黒神に心から頭を下げた。
今を逃せば、もう機会はないだろう。
「礼を言わせてほしい。五歳のあの日、はじめて人を殺したあの日から、この身は黒神と共にあった」
『ああ。……あのガキがなぁ』
黒神は苦笑する。久しく感じていなかった感慨があった。
ほんの気まぐれだったのだ。ただ、才能は無くとも戦う意志のある子供と少しだけ無理をして契約しただけ。
まさか、その子供が神殺しになるなど神の欠片たる身でも思いもしなかった。
『ここから先は予知も、加護も機能しない。お前は、自分を信じて進め』
「……承知した」
『じゃあな』
その言葉を最期に黒神の欠片は、黒国最後の王は跡形もなく消えた。
他に誰もいなくなった荒野でカイは己の胸に手を当てる。
己の中で何かが変わったことがカイにも感じられた。
加護を通じて可能性を肯定されていた。それが、今、終わった。
契約は終わり、神の加護は消え、己の魂だけが残った。
カイ・イズルハに、刃金の翼にこれ以上はない。
ここが可能性の涯、魂の終着点。
――この身は魔神に挑む“神殺し”と成った。