9話:時の遺物
かつん、かつんと硬質な音が暗闇に伸びる階段に響く。
カイは螺旋を描いて地下深くへ続く階段を一昼夜かけて下っていた。一度、下の方までを覗き見て段数を数えるのは諦めている。
地上の事を思えばいっそ底まで飛び下りてしまいたい衝動に駆られるが、隣にいるソフィアが、繋いだ手から伝わる微かな緊張がその焦りを鎮めていた。
ここで迂闊な行動をして手がかりを逃すわけにはいかない。なにせ魔軍との決戦は数日後に迫っているのだ。この場所の探索も次はない。今回の一度で魔神と神の封印、そして神殺しについて掴まなければならないのだ。
「底はまだ視えないか、ソフィア?」
「すみません。視覚、感応力ともに妨害されていて……。おそらくは古代種が転移してくるのを防ぐ為だとは思いますが……」
「……腐っても古の戦争の最前線だったことはあるか」
黒神の聖地にして黒国の王族の死後を祀る『無銘王墓』。
盗掘者避けの罠は勿論のこと、いざというときの戦略拠点としても使えるよう設えられているのだろう。
地下深くにあるのも、あるいは宗教上の理由ではなく、防衛上の理由なのかもしれない。
ひとつひとつ階段を下りながらカイは過去の王墓に思いを馳せた。
(しかし、黒神の聖地が黒国王族の墓所か。“聖域”に自分たちの遺体を埋めるなぞ不遜の誹りも免れないのでは……)
「ソフィア、やはり黒神というのは――ッ!?」
ふと隣を見てカイは驚愕に硬直した。
そこにいた筈のソフィアは忽然と消え失せていた。
一瞬前まで繋いでいた手もなく、握りしめた手の中には手袋だけが残されていた。
◇
パルセルト大陸には五柱の神がいる。
緑、青、赤、白、黒。五色の神。
その中で黒神にはいくつかの謎がある。学園でも何度となく議論された話だ。
緑神は自然そのものであった。故に、生命や生物のもつ感覚や機能を司る。
青神は海を旅する者であった。故に、旅の中で育まれた芸と知と商を司る。
赤神は武器の作り手であり担い手であった。故に、鍛冶士や戦士の技能を司る。
白神は契約者であり、聖者であった。故に、加護と守護、治癒を司る。
だが、黒神について詳しいことは伝わっていない。
白神の係累ではないかという推測と、女性であったという証言があるだけだ。
黒神が司る『死と戦い』というのもその内容が判然としない。
古代種との戦争に前後して黒神は発生していることから戦いを司るのは理解できるが、死を司るとは何なのか。それに由来する加護もないため、詳細を知る者はいない。
しかし、ソフィアはひとつの仮説を立てていた。
手がかりは幾つもあった。黒神が魔法と剣技という相反する加護を与えられること、カイが夢の中でみた仮面の武神、神と王を同列に祀る聖地の存在。
すなわち――
「――黒神は習合神なのですね」
どことも知れぬ白い闇の中、ソフィアの零した言葉に頷きの気配が返ってきた。
原初の海に還る筈の魂を『黒神』という概念に取り込む。それこそが黒神の真価。
永遠に還ることのない魂。それが黒神の司る死だ。黒神が武技の加護を持つのも、取り込んだ魂から得た後付けの権能によるものだろう。
「あなた方の存在に近付いているからこそわかります。黒神の本質は収束と停滞。魔神を封印したのも同じ原理ですね」
再び頷きの気配が返ってきたことにソフィアは小さく溜め息を吐いた。
己の両腕に刻まれた精緻な金色の刻印。どれだけ調べてもそれがなんなのかはわからなかった。
だが、事ここに至っては答えを予測することはたやすい。
原則として、神は能動的に行動することはできない。加護という形で間接的にしか現実世界に影響を及ぼせない。神の封印も原理はそれと同じだ。
すなわち、封印の起点に選ばれた人間を通じて魔神を封印する。
神の封印とは、詰まる所、黒神を受け入れる為の器、黒神の振るう杖。そして――
「――わたしは魔神を封印すればあなた方の一部になるんですね」
今度は頷きは返ってこなかった。しかし、否定する気配もなかった。
ソフィアは思う。神の一部となること、それを怖いとは思わない。
元より皆の居場所を守る為なら命を差し出すことを恐れはしない。そう決めているからだ。
それにカイがいる。まだそうなるとは決まった訳ではないのだ。
『……すまない』
いつからか、白い闇の中心にひとりの老人が立っていた。
口元を覆う白い髭にやや下がった目尻。対峙しているだけでも、穏やかで温和そうな雰囲気を受ける老人だ。
その容貌をソフィアは肖像画で見たことがあった。
アルバート・リヒトシュタイン、ギルド連盟の初代本部長にして二代目の神の封印。
二百年前、ギルド連盟を創設した後に、行方不明となった人物である。
「お初にお目にかかります、アルバート様」
それが人間であった頃のアルバートが遺した“影”でしかないことを理解しつつ、それでもソフィアは己に出来得る限りの敬意を込めて腰を折った。
黒神の聖地たるこの場所こそ『神の封印』の終の場所なのだろう。
今、望めばソフィアもまた封印としての役目を果たすことになるのだろう。無論、少女にその気はなかった。
『弟子が迷惑をかけたね』
「ご心配には及びません。わたしには仲間がいます。だから、だいじょうぶ、です」
『そうか。その言葉だけで救われる気がするよ』
「……もう時間がないようですね」
ソフィアのみている前で老人の像にぴしりと大きな罅が入った。
封印が破られようとしているのだ。それがソフィアにもわかった。
暗黒地帯の中心部で曰くしがたいおぞましい気配が立ち昇っているのを感知したのだ。
そして、封印が破られれば、アルバートも役目を終える。その身は黒神に吸収され、こうして言葉を交わすこともできなくなるだろう。
『あなたはケリオス様にどこか似ておられる』
「ケリオス様……最初の、大本の黒神様ですか」
『ええ、これも運命の巡りあわせなのかもしれないね』
アルバートの体の罅は時の経過につれて広がっている。
罅割れるその姿は人のそれよりも氷像のそれに近い。封印は己の時をも凍りつかせてしまうのだろう。
(なら、わたしも全力で使えるのは一度きり、ですか)
タイミングを誤ってはならない。ソフィアはそれを強く心に刻んでアルバートに向き直った。
最早、罅は老人の全身を覆い、崩壊寸前に至っていた。言葉を交わせるのもこれが最初で最後だろう。
だから、ソフィアは想いと覚悟を込めて深々と頭を下げた。
「今までありがとうございました。あとはお任せください」
『頼みます、次代の子よ。君は、私達とは違う道を――』
声は最後まで続かなかった。
少女が顔を上げれば、そこにはもう誰もいなかった。
◇
「ソフィアッ!! ……クソッ!!」
迷いは半瞬と続かない。カイは躊躇なく階段から地の底へと飛び下りた。
耳元で風が轟と唸り、全身を浮遊感が包むこと十数秒、暗い視界の中でぐんぐんと地面が迫るのを感知する。
空中で姿勢を変え、足裏に魔力で足場を作り、段階的に減速をかける。
そうして、カイは地の底、無銘王墓の入り口に着地した。
「……」
微かな抹香のにおいが鼻を掠めた気がした。
地の底にあったのは小さな墳墓だった。其処に眠る人がただ安らかであるようにと願って作られたのであろう静かな佇まいだ。
ただ、墳墓の前面に刻まれた“凍りついた炎”の紋章が聖域の証明を果たしていた。
(ソフィアの気配はない。向こう側に行ったのか)
かつてカイとクルスも緑神の聖地である“神樹の森”で肉体ごと彼岸の世界に行ったことがある。
聖地という場所はそれだけ向こう側に、彼岸の世界に近接した場所なのだ。
(やはり先代の神の封印が目指したのはこの場所だったか)
カイは思考する。
神と相対するとき、人間は肉体を持って臨まなければならない。
肉体という自他を分かつ境界がなければ、人間はこの世に遍く存在する神に容易く呑み込まれてしまう。存在の質量が違い過ぎるのだ。
それはきっと神を封印しようとする者も、御そうとする者も、そして、神を斬ろうとする者も同様であろう。
(ソフィアの状況如何によっては黒神も斬ることになるか)
あるいは魔神と戦う予行になるか、という思いを抱きつつ、それでも委細構わず、カイは墳墓へと歩を進めた。
だが、その歩みは数歩と続かなかった。どこからともなく声が響いたからだ。
『立ち去れ、人間よ。ここは我らが王の眠る場所。許可なき者が踏み入ることは許さん』
低く凍てついた女の声音と共に、眼前に黒い鬼火がぽつりと灯る。
直後、墳墓の前に整列するかの如く仮面を纏う霊人の集団が現れた。
その全員が手に手に武器を携え、魔力で形成されたとは思えないほど濃密な存在感を放っている。
整然と並んだ姿は紛うことなき軍隊のそれだ。
(この数は……)
カイは足を止めて、心中で警戒度を跳ね上げた。
背の銀剣はまだ抜いていないが、肩の力を抜いていつでも抜けるように体が備える。
目の前のアスラ達は単独ではこちらより二枚か三枚落ちる、英霊には届かない英雄級だろう。
だが、立ち並ぶ者全てがそうとなれば話は別だ。下手すればここにいる数十人で一国を落としかねない。
(黒国の戦士団がこれほどとは……いや、彼らは複数の古代種と戦っていた時代の存在、この位はやれねば嘘か)
カイの視線を何と判断したのか、集団の中から代表と思しき女性が一人が前に進み出てきた。
古い意匠の甲冑に身長よりも長い薙刀。顔にはやはり模様のない白地の仮面を着けていて表情は読めない。
『この場所を荒らしたくはない。お引き取り願おう。それとも、そなたは墓荒らしの類か?』
「同伴者が消えた。どこに行ったのか知らないか?」
カイの問いに仮面の女性は僅かに首を傾げ、暫くして解答に至ったらしく、薙刀の石突きを軽く地面に打ち当てて快音を鳴らした。
『もしや神の封印のことか? であるならば、黒神様の許へ迎えられた筈だ』
「帰ってくるのか?」
『本人が望めば』
「なら、まだ大丈夫か。……では、俺の目的も果たしておこう」
『目的? 何の用だ?』
女が警戒に薙刀を構える。両手で上段に構えた姿には長い修練が窺える。
油断は出来ない。カイは己を戒めた。彼らはおよそ千二百年前、古代種と人間達との全面戦争。その矢面に立った存在なのだ。
だが、ここで時間を食う訳にはいかない。カイは慎重に口を開いた。
「目的は二つ。ひとつ目は、アセビからの言伝だ。彼女は王命を果たしたと」
告げた言葉に、ざわりと周囲を囲むアスラ達がどよめいた。
(たしかアセビは己を王の供回りの一人だと言っていたな。なら、ここにいるのは同僚か?)
王の墓所を守る存在。おそらく生前においては王の親衛隊かそれに近い存在であったのではないかとカイは考えた。
そして、未だ続くざわめきの中、薙刀の刃をカイから退けた女性が丁寧な一礼と共に声を放った。
『手前の名はイキクサと申す。貴公はアセビにそう伝えてくれと云われたのか?』
「そうだ。此処なら必ず一等の忠義者が残っているから、と」
『……そうか。もう何も残っていないと思ったが……あやつは逝ったのか?』
「ああ、微笑んで逝った」
カイの応えに、イキクサは地の底で天を仰いだ。
仮面越しでもわかる安堵と哀切。同僚のそれというには強すぎる情動をカイは感じた。
「アセビとは親しかったのか?」
『……手前の妹だ』
答えて、イキクサはおもむろに仮面を外した。
カイは微かに目を細めた。
二十代半ばと思しき整った面影はアセビよりも若干成熟した、しかし、よく似た顔をしているようにも思えた。
『よく伝言を頼まれてくれた。感謝する。……それで、もうひとつの目的は?』
「“神殺し”に成る方法を探している。知っているか?」
『ッ!?』
その一言に途端に雰囲気が変わった。
殺気だ。先までの湿った空気は消え去り、呼吸することすら許さない濃密な殺気が辺りを包む。
心なしかアスラ達の構える武器が冷たい輝きを増している。
イキクサもまた表情を隠すように仮面をかぶり直した。
『その問いには答えられん』
「魔神がもうすぐ復活すると言っても?」
『その為の神の封印であろう』
イキクサは頑なな態度を崩さず、周囲のアスラ達も殺気だって此方を睨みつけている。最早、隠す気はないだろう。
それでカイも大体の察しがついた――あの仮面の男が此処に呼んだ意味もまた。
『神の封印は王が黒神様と共に築かれた絶対の法だ。魔神はいつか必ず封印される。それで満足してはいただけないか?
手前らもアセビの最期を伝えてくれた貴公を斬り伏せたくはない。
それに――貴公の願いは無駄な足掻きだ。手前らも貴公も運命に選ばれなかったのだ』
イキクサの言葉は身を切るような冷たさと悔しさに塗れていた。
しかし、カイは一歩を踏み込むとともに否定の言葉を返した。元より、そんなことはわかっていたことだからだ。
「俺は進む。ソフィアにばかり重荷を負わせる気はない」
『正気か? 手前らも千年届かなかったのだぞ。ただの人間が神に届くものか』
「届かせる。その為に俺は今、ここにいる」
この刃に触れて断てぬものはない。そう信仰している。神すら例外ではない。
諦めた者の言葉ではカイは止まらない。
「ソフィアを失うくらいなら、俺は人間でなくていい」
『貴公……』
「故に、俺は神殺しになる――神を斬る、そういうものになる」
決意と共にカイは更に一歩を踏み込んだ。
イキクサが薙刀を構え直す。今度は警戒ではない。刃に確かな殺気が篭っているのが対峙するカイにも伝わった。
『止まれ。それ以上進むな』
「無駄だ。お前では俺は止められん」
『死しても戦い続けた手前らの武、舐めるなよ、小僧!!』
薙刀の刃が額に触れる直前でカイは足を止めた。
そのまま真っ直ぐに視線を向ける。
「……いつまで黙っている気だ? この忠義者を犠牲にする気か」
『なにを――』
疑問の声をあげる眼前のイキクサの奥、墳墓に――その中に納められている者に向かってカイは声を張り上げた。
「俺は来たぞ。其方もさっさと出て来い――“黒神”!!」
瞬間、カイの周囲の景色が変わった。