7話:無銘王墓
学園襲撃から一週間後、カイ達は再び暗黒地帯を訪れていた。
目的は無銘王墓にて、魔神を倒す為の手がかりを得ることである。
王墓の場所は四大国の総力を傾けた捜索によって発見された。
暗黒地帯の中心部から馬で三日。古代種達の能力を考えれば目と鼻の先にそれはあった。
無銘王墓は一見して何も無い荒野であった。
草木もなく、赤茶けた大地に瘴気混じりの風が吹き荒ぶだけの場所であった。
しかし、その地下から黒神のものと思しき魔力が感知されていた。
現在、調査隊とそれに協力するソフィアによって入り口が捜索されている。大砂漠にあった遺跡と同じなら、どこかに霊人もいるだろう。
「……」
そんな調査隊から離れた岩上にカイはひとり佇んでいた。
視線は遠く、暗黒地帯の中心部――戦乱の導の本拠地を睨んでいる。
おそらくは其処が決戦の地、魔神に最も深く繋がる場所。クルスの率いる人類連合軍もその場所にソフィアと――可能ならばカイを送ることを作戦の中心に置いている。
ともあれ、現状、専門技能も知識もないカイは調査にはまったく役に立たない。そして、己が為すべきことが他にあることも察していた。
見上げれば、曇天に覆われた空からはさめざめとした小雨が降り続けている。
頬に当たる雨粒はひどく冷たいが、天候の不安定な暗黒地帯では雨はまだマシな方であろう。ことによっては雷と共に雹が降ってくるのが暗黒地帯なのだ。
「カイって雨男だったりするの?」
「そんなことはない……筈だ」
この雨の中、本陣からイリスがふらりとやって来ていた。
雨に濡れた服は僅かに透け、真白い髪は仄かな輝きを放っている。
「お前はやはり近づけないか、イリス?」
「うん。というか、認識も出来ない。たぶん古代種の血のせいだと思う。でないと、こんな近くにあるのをあいつらが放っておくわけないわ」
「だろうな」
肩を竦める少女は表情に自嘲とも苦笑ともいえない複雑な色を浮かべていた。
黒国が滅びてから千二百年。その間、あらゆる干渉を避け続けていた無銘王墓にはいくつもの仕掛けが施されている。『古代種には認識できない』というのもそのひとつであろう。
かつて、五大国に於いて最も魔法技術に優れていたと伝えられる黒国であったからこそ可能な施術であろう。
「――なら、来るのはやはり武神か」
それこそがカイがこの場に居る理由であった。
ガイウスにも王墓を見つけられるような能力はなかった筈だ。あれは自分と同じ戦闘能力に特化した果ての存在だ。
一方で、今、王墓には調査隊を含めて数十人の人間がひっきりなしに行き来している。
近くには魔軍との決戦を控える人類連合軍の本陣もある。これを見逃す戦乱の導ではないだろう。
古代種が王墓に近づけないのなら来るのはひとりしか考えられない。
(来るなら来い。ここで決着をつけてやる)
いずれ決着をつけねばならない相手だ。それがいつどこであろうとカイには武神を斬る覚悟があった――たとえ、自身が神殺しとして未完成であったとしても。
ここを抜かれればあとは人類連合軍の本陣だけだ。そこには既にクルスと赤国皇帝他、戦力の中核が詰めている。
彼らではガイウスに勝てない。どれだけ集まっても究極の一には届かない。だが、彼らが欠けては数日後に迫った決戦に人類は確実に敗北する。それだけは避けねばならない。
対ガイウスに限定すれば、まだしも格上殺しに長ける自分の方が勝率が高い。
「ひとりで死にに行きそうな顔してるわね」
「そんなことはない」
「そうかしら? ……そっち行っていい?」
「……」
沈黙するカイの答えを待たず、イリスはするりと体を寄せてきた。
二人の肩が僅かに触れる距離。雨に濡れた肌が互いの熱を感じさせる。
「ねえ……カイは後悔とかしてないの?」
「ないな」
後悔だけはしない。カイはそう決めていた。
間違いもあった。もっと他に選べる選択肢もあったのかもしれない。
だが、それを選ばなかったのは自分だ。父を斬り、ガーベラが最期まで尽くした自分なのだ。
とはいえ、イリスの考えは違うようであった。
「私はあるわ。ソフィアが、あの娘がいなきゃ保てない世界なんて間違ってる。
……あの娘はこんな所に来るべきじゃなかった。逃げてよかったのよ」
もしも今日までにソフィアが死んでいたら、滅びは免れなかったというのか。先人達が積み上げてきた歴史は終わっていたのか。
そんな暴論にソフィアを付き合わせたくなかった。
そこまで言い切って少女はふっと溜め息を漏らして肩の力を抜いた。
至近距離でカイを見つめる表情には笑みが、目には慈愛の光があった。
「私、カイのこと好きよ。あなたの子供が欲しいって思っちゃうくらいには」
「……お前は変わらないな」
あっけらかんとした物言いにカイは思わず苦笑した。
イリスがそういう性格だとは理解していたが予想以上だ。
「でもね……」
イリスから笑みが消える。どこか悲しげで、しかしどこまでも清々しい表情であった。
「私の一番はソフィアなの。クルスでもカイでもない」
断言する。それが己の心を最も率直に示した言葉だとイリスは告げた。
「自分が幸せになるより、ソフィアが幸せになる方が私は嬉しいの。……でも、ソフィアは覚悟してる。答えをだした。それを無為にしたくない」
「……」
「だから、私はあなたに賭けるわ、カイ。――絶対、ふたりで帰ってきて」
おそらく自分は最後まで一緒には行けない。それを少女は理解していた。
時を凍らせる神の封印の権能。その中を駆けることができるのは唯一人。それは自分でない。
「もしも、帰ってこなかったら――迎えに行くわ」
故に、自分に出来ることがあるなら、それなのだろう。
少女は決めた。その為に、全力を尽くすことを誓った。
魔神に到達するまでの障害は全部で四つ。
魔軍はクルスが抑える。テスラとガイウスはソフィアとカイにしか止められない。ならば、自分の相手も自ずと決まる。
「約束する。だから、振り返らずに行きなさい。想いのままに、どこまでも行っちゃいなさい。あなたにはそれが一番似合ってる」
そうして、少女は男の頬にそっと唇を触れさせた。
驚いたような男の表情にしてやったりと小さく舌を出す。
「私の愛は仲間に捧げている。極論、私は大陸全ての人と引き換えにしてもあなた達を生かしていいと思ってる。
不器用な生き方よね。自分でもそう思う。だけど、あなたはこんな生き方を――」
うつくしい、と言ってくれた。だから、後悔はない。
その想いを胸にイリスはそっとカイから身を離した。
「……そういえば、アンタがソフィアを娶ったらクルスは義兄さんになるのよね」
一転して軽やかな口調で告げられた言葉に、カイは思わず渋い顔をした。
イリスは噴き出しそうになるのを堪えて男の額をつついた。
「お似合いよ? でも、ソフィアが嫁ぐなら家を立てないといけないわね。あの子、ああみえてちょっとしたお姫様なのよ。最近忘れがちだけどね」
「そういえば……そうだったな」
「ふふ、朴念仁と天然娘でひどいことになりそうね」
「かもしれないな」
「……ねえ、一人訳アリだけど使い勝手の良い従者がいるんだけど、いらない?
二君に仕えるなんてけしからんって訳じゃないなら、だけど」
からかうような笑顔とその奥に隠された此方を窺うような声音にカイは口元を小さく緩めた。
「ツテがあるのか?」
「ええ。アンタが了承してくれるなら絶対に仕えてくれるわ」
「そうか。それは幸先がいいな」
カイは髪を掻きあげて雨露を払い、真っ直ぐにイリスと向き合うと右手を差し出した。
「では、この戦いが終わったら存分に働いて貰おう。いいな、イリス・セルヴリム?」
「――はい」
はにかむような笑顔と共に二人の手が強く結ばれる。
いつの間にか雨は止んでいた。
その中で、晴れ晴れとした笑顔を浮かべる少女の姿はひどく印象的であった。
「そうだ。今の内に貰っておきたいものがあるの」
照れたように頬を赤く染めて、手を離したイリスは言い繕うように懐から無色の宝玉を取り出した。
◇
翌日、相変わらず不安定な天候の中でガイウスを待ち受けていたカイは困惑も露わに予想外の賓客を迎えていた。
ゲンハ・ザカート、イアル・ワン。剣鬼と拳聖、十二使徒にしてカイの師である二人。
そして、教皇エルザマリア・A・イヴリーズ。
使徒はともかく、現教皇は目と鼻の先に数百万の魔物が集結している最前線に来ていい存在ではない。
「何故、お前達がここにいる?」
「無論、任務だ」
「お主らの為でもある。多少の力添えは出来よう」
答えたイアルとゲンハの二人は見るからに頬が痩け、しかし、目にはカイですら見たことのない程の強い輝きを宿している。
鷹匠が鷹に野生の鉤爪を思い出させる為にわざと飢えさせるように、己を研ぎ澄ます為に多くのものを削ぎ落としたのだろう。一種の野性、直感に類するそれは実戦に於いて生死を分かつ一手になる。
しかし――
「二人とも、死相が出ているぞ」
なによりも二人の貌に浮かぶそれがカイの心を乱していた。
指摘された老兵二人は互いの顔を見合わせ、髭に隠れた口元を揺らした。
「なに、十年後に死ぬか、明日死ぬかの違いよ。大したことではない」
「上位三人は戦争の準備。ソーニャとクラウスも遊撃に動かしている。……武神が来るのだろう?」
「ああ。……死ぬ気か?」
現状、ゲンハとイアルは二人がかりでも英霊に劣る、その上をいく武神相手では更に分が悪い。
否、ガイウスを相手にして自分以外に生き残れる存在をカイは思いつかなかった。
それでも、二人の決意が変わる様子はなかった。
「我らは老いた。動けて一戦。迫る決戦では役に立たぬ」
「故にこその命の使いどころだ。神の封印と総指揮官、おまけにお主をむざむざやらせる訳にもいかんだろう」
「時間は稼いでやる。お前はお前の為すべき事に専念せよ」
「……」
思わず、カイは押し黙った。
カイには決め手がなかった。“神殺し”となる最後の一手がないことを、自分で認識していた。
己が為すべき事、それは王墓の中で待つ仮面の男の許に向かうことに他ならない。
だが、そうなるとガイウスの相手をする者がいなくなってしまう。今まで暗黒地帯中心部から動かなかったことからして、テスラは何かしらの役目をガイウスに負わせていたのだろうが、もしも、それが終わっているならば武神は確実に動く。
決戦は数日後に迫っている。だが、魔神の復活に千年の時を費やし、既に数百万の魔物の軍勢を整えている戦乱の導に対し、人類には、カイには圧倒的に時間が足りない。
その時間を稼ぐ為には代わりに差しだす者が必要であった。
「……かたじけない」
あるいは、これが最期になるかもしれない。
カイは歯を噛み締めて、ここまで自分を鍛えてくれた二人の師を見つめた。
もうかれこれ二十年近い付き合いだ。死期を悟った二人がその命を使い切る為に選んだ道を阻むことはできない。そんな言葉は己の中になかった。
だから、それ以上は何も言わず、ただ深々と一礼をした。
「お世話に、なりました」
「こらこら、勝手に殺すでない」
「億にひとつの勝機くらいはある。お前の順番が来なくても恨まないでくれ」
二人は笑みと共にそれぞれカイの肩を叩くと、静かに教皇の脇に退いた。
代わりに前に進み出たエルザマリアはじっとカイの顔をみつめておずおずと切り出した。
「その、これだけでいいのですか?」
「……ああ、十分だ」
困惑するエルザマリアにカイははっきりと頷きを返した。
戦場で死ぬことを半ば義務付けられているのが使徒である。
それを考えれば、別れの挨拶ができただけでも贅沢というものであった。
「それより、猊下が何故此処に?」
「後のことはセレナ支部長に任せてきました。私も私の為すべきことをします」
月の光を押し固めたような銀の髪を揺らし、教皇は僅かに目を伏せた。
「Aの一族、白神の末裔――“言葉”にて他者を強化することに特化した一族。
使徒カイ、同じような権能をみたことがありませんか?」
――霊人、黒神の“力ある言葉”にて魂だけの存在となった眷族。
成程、カイにも思い当たるフシがあった。
男の顔に浮かぶ納得の色に、エルザマリアもこくりと頷きを返した。
「偶然ではないのでしょう。おそらく黒神も白神も同じ血族だったと考えられます」
「それは……」
あるいは、二柱の相性の悪さを考えれば、黒神は白神の血族から追放された者だったのかもしれない。
愛と加護を司る白神の一族と、後に死と戦いを司る黒神となる者との間に何があったのか。
数千年前の記録は現代には残っていない。
「今更な話です。けれど、私の祈りが足しになるのなら、やはりすべきことなのでしょう」
愛こそが白神の教えなのだから。
エルザマリアは己の行いを以てその信仰を示すと決めたのだ。
「それに、私も同じ血を継いでいるのなら聖地の力を――」
「猊下、そこから先をカイに言うのはやめておいた方が良いでしょう。こいつは敵にだって容易く心を読まれます」
「……ごめんなさい、カイ」
「気にするな。織り込み済みの話だ」
不器用な気遣いを返すカイに、エルザマリアは小さく息を吐いた。
少女の真白く、か細い肩に載った責任の重さは如何ほどか。カイには想像もつかなかった。
カイ自身もまたこの少女に重荷を負わせる側だったのだ。わかるなどと訳知り顔で言う訳にはいかなかった。
「私は貴方から奪ってばかりでした。安寧を奪い、そして父親まで奪ってしまった……与えたのは親殺しという重い烙印だけです」
「それは猊下のせいではない」
「いいえ。私が決めて私が下した命令です。何度同じ選択を迫られても私は同じ選択をするでしょう。何を犠牲にしても」
それが国を背負って立つ者の責務であると少女ははっきりと告げた。
他者に犠牲を強いるならば、まず自分が差し出さねばならない。
エルザマリアが差し出したのは己が最も信頼する者への想いであった。
「だから、貴方が帰る場所を見つけたのは祝福すべき事です。私には、いえ他の誰にもできない事だった。……愛しているのでしょう?」
「はい」
「ならば、私も貴方の愛する者達を失わぬ為に全力を尽くしましょう」
溢れそうになる涙を堪えて、エルザマリアは微笑んだ。
カイ・イズルハという剣は仕えるべき主君を、仲間を、そして伴侶を選んだ。そのどれもが自分でなかったという事実が胸を締め付けるが、それでも少女は心から微笑んだ。
そうして、少女の初恋は数年の時を経て終わりを迎えた。
数刻後、無銘王墓の入り口は開かれた。
まるでカイを待っていたかのように地の底へと続く顎門は開かれた。
カイはソフィアを伴ってその中へと踏み込んでいった。
遠ざかっていく弟子の背を見送り、ゲンハとイアルは踵を返した。
命を削って研ぎ澄まされた二人の直感は徐々に近づいて来るその存在を過たず知覚していた。
――“破戒無式”、四人目の武神、ガイウス
「まさか生きている内に神に挑める日が来るとはな。長生きはしてみるものだ」
「まったくだ。弟子の前座というのは情けない話だがの」
肩を竦めたゲンハはふと何かに気付いたように虚空に向かって声を投げかけた。
「ジョセフ、いるのだろう?」
暫くして、空間が揺らぐようにして帽子を深く被って顔を隠した男の姿が現れた。
若干非難がましい気配を発しているのは隠行を暴かれた故だろうか。
「これから見るものをカイに伝えよ。多少の足しにはなろう。どうせ隠し身は効かぬ。お主は足手まといだ」
「……了解」
「格好よく伝えてくれよ?」
「ありのままを伝えよう」
「カッカッカッ。仲間甲斐のない奴だのう。……ああ、それとこれも渡しておこうか」
ゲンハは背に負っていた銀剣をジェセフに投げ渡した。同様に、イアルも腰に佩いていたそれを外して渡す。
二人には既に銀剣を起動する余裕はない。
元より、ガイウスの破壊の権能を無効化できなければ無用の長物だ。
真に銀剣を使いこなせるのは自分たちではないと理解しているのだ。
「ふむ、随分と肩が軽くなった気がするのう」
「気のせいだろう。銀剣がなくとも背負っているものに変わりはない」
「お主は本当にお堅いままだな。カイを見て反省せぬのか?」
「さてな」
「……なにか、伝えておくことはあるか?」
軽口を叩き合う二人に、ジョセフは両手に銀剣を捧げ持ったまま絞り出すような声で問うた。
「特にないかの。剣にて、すべて伝えた故にな」
「此方も伝えるべきことは既にない」
「……使徒イアル、義娘にはいいのか?」
「壮健であれ、と」
「承知した。全て、必ず伝える」
ジョセフは帽子をとって深く一礼すると、そのまま虚空に消えていった。
「あやつ、最後まで顔を見せなかったのう」
「ジョセフなりの気遣いだろう」
「であるか。……さて、いくとするか」
「ああ」
それきり、二人は口を噤み、表情を修羅のそれに染めて歩き出した。
絶望の足音を聞きながら、振り返ることなく死地へと赴いて行った。