20話:天の風
ふと気付けば、カイはどことも知れぬ茫洋とした空間に立っていた。
何もない、大気すらない、ひたすら無が続く場所だ。
この世に無なる場所はないという。ならば、ここは――
(ああ、俺は死んだのか……)
意識を向ければ、心臓を抉り砕いた感触がまだ手に残っている。
それは今まで幾度か体験してきた肉体の死ではない。
魂が散逸し、現世から消えた精神の死だ。
神官達は死ねば彼岸の世界、原初の海に還ると言っていたがどうやら違ったようだ。
あるいはどこぞの冥府魔道に迷ってしまったのか。
(俺にできることはもう無いのか……)
思い返せば、悔いの残る人生だった。
父を斬り、あまつさえソフィアまで手にかける所だった
どうせ斬ることしかできないのなら、せめて呪術士を道連れにしたかったが、それも叶わぬ願いだ。
神に届かなかったことは悔しく思う。
だが、最期に呪いを克服できたことは素直に嬉しかった。
愛する人を殺さずに済んだのだ。
『そう悲観するなよ。死後もそう悪いもんじゃないぜ』
ふと耳に届いた声に、閉じていた目を開ける。
何もない空間に神剣を佩き、無地の仮面を着けた男が立っていた。
「……お前か」
『会うのはこれで三度、いや四度目だったか?』
「何の用だ?」
カイの問いに、男は答えず彼方を指差す。
その先には、さっきまでは無かった光が差し込んでいた。
(死出の導き、という風でもないな)
何よりその光には覚えがある。カイは誘われるように立ちあがった。
澄み渡る海のような蒼色、その輝き、その暖かさ。
たとえ死しても忘れはしないだろう。
それを認識すると同時に、カイの意識が急速に浮上していく。
「お前は……いや、貴方は――」
『またな、後輩。待ってるぜ』
切り替わっていく意識の中で仮面の男がそう呟いたのが聞こえた気がした。
そして、カイは閉じていた目を開けた。
空には曇天、耳には風の音、そして、腕の中には確かな暖かさがあった。
現実の世界だ。状況はソフィアに斬りかかった一瞬前のまま。
しかし、胸元には何かを抉り出した痕が確と残っている。
(魂ごと心臓を砕いた筈だが……まさか)
腕の中のソフィアを抱き上げる。少女は酷く衰弱し、荒い呼吸のまま昏睡している。
見れば、少女の左の薬指に嵌められていたドラゴンハートの指輪が――あらゆる奇跡に届くと言われた秘宝が、眩い光と共に徐々に朽ちていた。
再生魔法――命脈流転。心臓を造り直し、散逸した魂を呼び戻す最高位の奇跡がカイの魂を彼岸の世界から連れ戻したのだ。
「ソフィア……」
魔力吸収陣による妨害もあった筈だ。最高位の触媒を以てしても少女の限界を軽く超えている。
おぼろげな記憶に従い、カイはそっと少女のローブの袖を捲った。
袖に隠れていた少女の両腕には白い肌を覆うように蔦のような精緻な金色の刻印が刻まれていた。
いつか夢で見た剣士の纏っていた『神の封印』に酷似した術式。
紛うことなき人間をやめた証である。
「……すまない、ありがとう」
他に何と言うべきかカイはわからなかった。
少女に人間を捨てさせてしまった悔恨と、そうまでして救ってくれたことへの感謝の念だけが胸に去来する。
カイは死ぬ気だった。あの場ではそうするしかないとわかって、死んだ。
だが、心のどこかでこうなるのではないかという浅ましい期待も、あったように思う。
ソフィアには呪いを解く手段はなかった。
だが、カイが魂ごと呪いを砕くことを予想し、その先の為の手を打っていたのだ。
カイが失敗すれば、狂ったまま蘇り、確実に殺されていたのに。
それでもソフィア・F・ヴェルジオンはカイ・イズルハを信じたのだ。
「少しだけ待っていてくれ。すぐに戻る」
そっと少女を地面に横たえ、カイは立ち上がる。
その目は遠く離れたニグレドと倒れ伏すクラウスを捉えている。
決意と共に一歩を踏み出す。
地面を踏みしめた足裏が力強い加速を寄越す。
体が軽い。呪いの消え失せた心臓は規則的な鼓動を鳴らし、全身に活力が宿っているのがわかる。
生まれ変わったような気分だった。
そうして、“英霊”はニグレドとクラウスの間に降り立った。
呪術士が驚愕の表情を浮かべ、倒れ伏す少年は口元を笑みに歪めた。
「……遅かったじゃねえか、先輩」
「間に合ったのだ、許せ、クラウス」
「ったく、二年も待たせやがって。……後は、頼む」
既に限界だったのか。クラウスは目を閉じた。強張った手は意識を失っても錆びた槍を手放さない。
負傷はしているが、死んではいない。時間は稼げたのだ。
それだけを確認してカイは未だ立ちつくすニグレドへと向き直った。
「お前、呪いが……馬鹿な……有り得るのか……?」
困惑を露わにする呪術士の問いには答えず、カイは息を吸う。
胸の内で新たな心臓と、死を乗り越えた魂が盛大に脈動を鳴らす。
「――――――ッ!!」
体から湧き上がる“魔力”と共に吼える。
それは新たなる英霊の産声。
魔力、鼓動、そして魂、奪われていた全てを取り戻した証に他ならない。
「誓うぞ、お前を斬る、この手で必ず」
「……ふん、魔力が戻った位で随分と態度が変わったな」
数秒でニグレドは嘲笑を取り戻した。
カイ・イズルハに魔法の才能が無いのは一見にして明白。魔力量もニグレドからすれば誤差に過ぎない。
零が一になった所で万には敵わない。
自身の優位性を改めて確信し、呪術士は双蛇杖の先端をカイに向ける。
「多少能力が上がった所で―――」
瞬間、杖を構えていた右腕がぼとりと落ちた。
遅れて痛みと刃音が血飛沫と共に知覚される。
見れば、カイはガーベラを振り抜いた体勢のまま静止していた。
「お前、まさか……魔力を全て加速に回しているのか!?」
馬鹿げている。不合理だ。呪術士は混乱しつつも全方位に障壁を展開した。
どれだけ速度を上げようと、それが剣である限り障壁によって防がれる――筈であった。
気付けば、ニグレドの体は袈裟掛けに斬り裂かれていた。
知覚を遥かに置き去りにした一撃に、今更のように噴き出す青い血が大地を汚していく。
「障壁が反応しないだと?」
「――――」
カイは答えない。音は既に侍に追いついていない。
加速の果てに至ったその剣は障壁が反応する前に斬り抜けることすら可能としていた。
「だが、まだだ!! 知覚できないのなら全て焼き尽くす!!
――焼け落ちろ、“拡散制御”、プロミネンスブレイズ・ファーブニル!!」
ニグレドが杖を掲げると、にわかに空に集った炎が悪竜を象り、猛然と降り注ぐ。
周囲一帯を焼き尽くす暴虐の竜炎。如何にカイが人外の速さを持つとはいえ、この至近距離では避けきれるものではない。
「剣さえ届かなければ英霊如き!!」
「――――」
たしかに、カイが斬れるのは刃の触れたものだけだ。まったくもって正しい。
だが、侍が有するのは剣だけではない。
その身には鍛え抜いた技と、そして走り続ける足がある。
剣を振る――“刃金”の先を今こそ見せる。
直後、駆け出したカイの足が炎を踏んだ。
まるでそれが確固たる足場のように竜炎の海を疾走する。
加速し続けるその身は次の瞬間、撓む大気を突き破り、音の壁を越えた。
たなびく風が水蒸気を萃め、その背に軌跡を描く――まるで翼のように。
誰であってもその翼を止めることは許されない。
ひたすらに加速し続け、いつか神にすらその刃を届かせる。
今、この瞬間に英霊と共に産まれた最も新しき加護、男の魂の真名。
全ては気付くことによって築かれる。
答えはずっとそこにあったのだ。
――“刃金の翼”
それこそが、カイ・イズルハの魂の名。
疾走と共に振り抜かれた斬撃は過ず、呪術士を両断した。
追いぬいた音が遅れて鋭い刃音を響かせる。
ニグレドは杖を地面に突き刺して断たれた体を支えた。
秀麗な貌には理解不能な事態への困惑が浮かんでいる。
空中を踏んで加速するカイの姿は最早、呪術士の視覚では捉えられない。
「ふ、ふざけるな!! これが英霊だと!? こんなもの私は知らな――」
――否、知っている。
混乱するニグレドの脳裡に遥か昔に袂を分かった兄の姿が浮かんだ。
“黒のなりかけ”たる自分とは異なる“黒の完成者”。
ネロ。あの男はいつもそうだった。
古代種とは何かを探求し、その先に己の死を追求し、そして――
(これが、こいつが“死”だというのか、ネロ!?)
次の瞬間、影すら絶たれた速度域から差し込まれた刃がその首を刎ねた。
だが、数度殺されたくらいでは古代種は滅びない。
その身に宿る賦活能力が即座に傷を修復する。
「む、無駄だ。私の内にあといくつの命があると思っている?」
「……」
ニグレドの発した問いに、偶然か、はじめてカイが足を止めた。
侍は常と同じ無表情のまま、ニグレドをまっすぐに見つめる。
「諦めるんだ。いくらお前の刃が鋭かろうと体が保たな――」
「32」
「…………何?」
「貴様の中にはあと32個の命がある」
侍の右瞳が魔力を帯びて仄かに輝く。
僅かに蒼色の混ざった瞳。ソフィアの魔力と魂を分け与えられたが故の色だ。
「覚悟しろ。貴様が奪い、消費してきた他者の命はもういない」
「ッ!!」
その瞬間、ニグレドは確かに恐怖した。
「――呪言、増殖、地に満ちよ」
故に、それは必然。呪術士は己に許された最大の手札を切る。
「――魔人変化・ダルグロス!!」
地に杖を突き立て、詠唱を完成させると同時、二人の足元が錆の混じる黒色に変じた。
即座に跳び退るカイの嗅覚は空気に混ざる毒素を感知する。
ニグレドの周囲には次々と毒錆の塊が大地から染み出し、呪術士の身を取り込んでいく。
術者を呑み込んだ粘体はギチギチと音を立てて山となり、遂には見上げる程に巨大なゴーレムへと姿を変えた。
『コレでオマエの刃はもう届かない!!』
蝿の羽音を重ねたような声が耳を犯し、カイは不快気に目を細めた。
肉も、鉄も、魔力すらも腐らせる毒の巨人。
命を加工し、利用し、命を奪う。それがニグレドの本質なのだろう。
その場にいるだけで臓腑が刻々と爛れていくのがわかる。
纏う泥錆に直接触れれば症状は加速度的に悪化するだろう。
成程、斬るには犠牲がいる相手だ。
「――――」
手に持つ一刀から吹くそよ風が沈黙するカイの頬を撫でる。
奥歯を砕かんばかりに噛み締める。愛刀の声なき声に応じるように、侍は上段に構える。
切っ先をあげたガーベラから絶望的な異音がする。
呪いごと穢れを祓って蘇生した自分とは異なる。
数多の泥人形を斬り、芯金まで泥錆に侵されたガーベラは既に限界だ。
仮に、今すぐ修復しても直せるかは五分だろう。
カイはその五分に賭けてもよかった。
だが、ガーベラは常の何倍もの風刃をその身に纏って猛っている。
ここで鞘に納められたならば、それこそが己の“死”であると。
故に、共に戦うと、声もなく叫んでいるのだ。
名刀は最期まで主の為に全力を尽くす。
長い年月を経て、無機なる鋼に宿った魂は輝きに燃えていた。
奇怪な絶叫と共に毒錆の巨人が旋風を巻いて柱と見紛う腕を振り抜く。
撹拌される大気すら毒の凶器となり、触れれば猛毒に犯され、錆びつく。
そうでなくとも時間をかければ周囲一帯の汚染は深刻化する。
ルベドのような圧倒的な殲滅能力はないが、魔人と化したニグレドはひたすらに厄介だ。魔力を取り戻したとはいえ、魔法への抵抗力は依然として高いとはいえないカイにとっては相性が良い相手ではない。
魔人の攻撃が当たるならば、の話であるが。
刹那、強烈な踏み込みが地面を陥没させ、続く二段階加速が宙に焼け焦げた轍を刻む。
“刃金の翼”その名の通りにカイは加速し続ける。
如何な束縛も許さぬ鋼鉄の翼は汚染された大気ごと巨腕を躱し、そのまま空中を駆け上がる。
最大加速する一瞬、全てが静寂に包まれ、音の壁を抜ける。
カイは振り上げた右足で空中を蹴りつけて軌道を変更、眼下に佇む泥の巨人を真正面に捉える。
ガーベラの纏う風刃がひときわ強くなる感触が柄を伝わり、胸を締め付ける。
(わかっている、相棒――)
「――終の満開に狂い咲け、“菊一文字則宗”!!」
長き時を生きたその刀の真打ちとしての名、最期の力。
生まれるは天を衝く巨大な風刃。
毒を祓う清冽なる風が括った黒髪を揺らす。
「冥土の土産だ、ガーベラ。見ていてくれ、誇らせてくれ。
――お前が仕え、援け、導いてきた、剣士の全力だ」
斬ると誓った。その誓いだけが愛刀に報いる唯一の方法。
ならば、脚が折れ、腕が千切れ、たとえ刀が砕けようと果たさねばならない。
心眼が相手の裡に隠された命を暴く。
風を纏い、振りかぶった刃金と己の“魂”が交わり、ひとつとなる。
切っ先は指に、心金は骨に、刃は肉に、そして互いの魂は翼となって駆け抜ける。
心に浮かぶ想いのままにカイは詠唱を結ぶ。
「――吹き荒べ、天ツ風」
唱えるべき名は端的に、風を踏み、その身に宿る全てを込めて剱を振り下ろす。
――心技・アメノムラクモ――
そして、戦場に嵐が顕現した。
その剣は速かった。あまりにも速すぎた。
速さを求めたその究極に、己の重さすら断ってしまったが故の神速。
重さのない剣は軽い。紙きれを振っているようなものだ。そこに威力はない、本来ならば。
だが、ここにただひとつの例外がある。
己の剣に断てぬものはない。
狂気の域にまで達した剣への信仰が、神域に届かんとする一念が不可能を可能に変える。
すなわち、物質の最も小さな隙間を貫く剣技の涯。
元より離れているものを“そう在った”と自覚させるだけなのだ。
そこに大仰な力は必要なく、ただ一劫のズレすら許さない極限の集中が、凄絶にして整然たる斬撃を描く。
生まれるは、阿頼耶に三刃の剣線を重ねて刻む鋭角的な翼刃。
それが正しく瞬きの間に紡がれ、連続する。
止まることなく振るわれ、加速し続けるはまさに斬撃の嵐。
天地を超高速で駆け抜け、あらゆる方向から巨人に無数の翼刃を突き立てて迸る。
それこそが、ガーベラの生み出す風と“刃金の翼”の真名を受け、遂に完全なカタチとなったカイ・イズルハという存在の究極。
「――――ッ!!」
咆える。吼える。腹の底から叫ぶ己の声すら神速の領域では耳に届かない。
それでもカイは咆哮をあげる。これこそが己だと高らかに叫ぶ。
最早、己ですら完全には捉えきれない速度を刻み続ける。
そうして毒錆の巨人は数瞬ともたず斬り伏せられ、裡に隠れていたニグレドが白日の下に晒された。
「あ――――」
その心技の烈しさに、切り札を砕かれた絶望に、絶対的な死の予感にニグレドの思考は漂白されていく。
その身に刻まれた無数の斬撃が証明する。
悲しいほどにひたむきで、おぞましいほどに美しい閃光が証明する。
その剣は、技は、心は、魂は、生きている。
そうして、必斬の剣が迫る間際、遂にニグレドは理解した。
――“生きること”、それこそが神に至る唯一の道。
苦悩と試練に向きあい、乗り越え、命ある限り足掻き続けること。
死した者は、生きていない者は何も為せない。
では、生に飽いた古代種は生きていると言えるのか――?
(ネロ、私は――)
次の瞬間、ニグレドの総身を斬撃の嵐が斬り刻んだ。
断ち割った大気が荒れ狂い、僅かに残っていた竜炎も吹き散らされる。
その名の示す通りの叢雲を呼び、叢を薙ぎ払う神代三剣の一が完遂される。
ニグレドが一つ目の死を認識した時には既に、その肉体は四十八閃、十六の翼刃によって斬り裂かれていた。
体内に貯蔵していた命も、再生の刻印術式も、全て切り裂かれ無為に帰す。
魔力結晶すら斬り砕き、欠片も残すことを許さない滅尽の剣。
まさしく古代種を殺し尽くす為の心技であった。
「――――」
地に二条の轍を残しつつ、着地したカイは静かに残心をとった。
魔力の尽きた体は重く、反動を考慮しない全力機動に体が軋む。
ニグレドの居た場所には誰もいない。ただ足跡がひとつだけ残っている。
呪術士の消滅を確かめて、カイはゆっくりと構えを解いた。
切り裂いた曇天の間から青空が顔を出し、暖かい陽光がその身を照らす。
そして、残心の終わりを待ってガーベラは根元から砕け散った。
刃の一片、魂の一滴まで絞り尽くした名刀は柄だけを残して大気に溶けるように消えていった。
「……すまない。今までご苦労だった」
カイは残った柄を額に当てて、祈るように言葉を紡いだ。
中途や切っ先が折れるのは使い手の下手だが、根元から折れるのは刀の天命。
かつて己が語った言葉の通り、菊一文字則宗は最期まで尽くしたのだ。
「俺は此処まで至れた。お前のお陰だ」
ニグレドを斬ったところで心が晴れることなどない。この身は斬った命を区別しない。
だが、ケジメはつけた。そう思う。
涙は流さない。剣は戦場で死ぬものだと覚悟していたからだ。
そして、命はもう返ってこない。奇跡は一度しか起こせない。
だが、己の心に残る物はあるのだろう。
カイの心中に去来するのは悲しさや喪失感ばかりではなかった。
「さらばだ。先にいって待っていてくれ」
空を仰ぐ。曇天の斬れ間から差し込む陽光はまるで天上への階段の如く輝いていた。
◇
「――ニグレドは逝きましたか」
遠く離れた戦場でアルベドは同族の消滅を知覚した。
宵闇に落ちた影色の前髪に隠れた瞳に浮かぶ感情は誰にもわからない。
「失敗するよりも、戦いの中で死した方がマシと言えますか。……馬鹿な人」
溜め息と共に女は肩に突き刺さっていた矢を引き抜いた。
周囲には死臭漂う死体が無数に折り重なり、草原を赤き血で汚している。
その中にクルスとイリスはいなかった。
「追いかければ一人くらいは削れそうですが……」
声に応える者はいない。二人は既に撤退し、仲間との合流に向かっている。
ここで追うのは下策だとアルベドは結論した。
手駒の洗脳兵は尽きており、自身も消耗もしている。
なによりも、この先には何千年と苦汁を舐めさせられてきた憎き英霊が産まれているのだ。
今の状態で追撃するのは危険だ。ニグレドとは異なり、アルベドにはまだ為すべきことがある。
この場もすぐに幕が下りる。
闇色のドレスを翻し、アルベドは霧の中へと消えていった。
◇
「……よう、お互い死に損なったな、ソーニャ」
「無事で何よりです」
地面に寝転がったままクラウスは手を挙げる。
バツの悪い笑みは後輩に情けない姿を見せているからか。
とはいえ、ソーニャも心技の反動で矛を支えにしている有様だ。
状態で言えばどっちもどっちであろう。
「先輩のトコに行かなくていいのか?」
「……貴方はそう言う所が駄目なんですよ」
「はあ? どういう意味だ?」
ふいとそっぽを向いてソーニャはクラウスの問いから逃げた。
会わずともわかる。
心の奥底まで届く北風のような清冽な魔力。
兄は全てを取り戻したのだ。
そして、同時にその気配に澄んだ海のような蒼色の魔力が混ざっている。
侍の魂を救ったのが誰か、直に見ずともそれだけで知れた。
「ありがとう、ございます……」
大きな歓喜と理由のわからない小さな痛みに胸が張り裂けそうになる。
堪え切れず、ソーニャはただ天に向かって涙声をあげた。
◇
躯に触れる暖かさを感じてソフィアはぼんやりと目を開けた。
体は重く、意識はそれに輪をかけて疲弊している。
魔力も尽きている今の状態では指一本動かすのも億劫だった。
視線を上げれば、カイが自分を抱き上げているのがわかった。
どことなく心配そうに見下ろす蒼の混じった黒瞳にソフィアは賭けに勝った事を確信した。
同時に、自分の体がどうなったのかも思い出した。
途切れそうになる意識を繋ぎとめ、震える指で袖を捲る。
「……ああ」
己の腕に刻まれた蔦のような金色の刻印。
神の封印としての力の一端がそこには宿っていた。
「……みないで、ください」
少女の声に震えが混じる。それでも男は躊躇わず抱きしめた。
「ソフィア、お前は言ったな。俺が俺だからこそ好きになったと」
「あ……」
「俺も同じ気持ちだ。お前がどう変わろうと関係ない」
耳元をくすぐる声と抱きしめられる強さに少女の震えが止まる。
心を読まずともわかる。触れ合う熱が何よりも雄弁に感情を伝えている。
「それよりも、お前に泣かれる方が、その、辛い」
少しだけ困ったその顔がおかしくて少女は小さくはにかんだ。
続く言葉はなく、そのまま互いの唇が触れ合う。
その柔らかさとあたたかな熱に互いの心臓が高鳴るのがわかった。
「俺の鼓動が聞こえるか、ソフィア?」
「はい、きこえます」
強くて、規則的な鼓動。
ずっとこの音を聞きたかった。その願いが叶ったのだ。
ソフィアの心に深い感動が湧き上がる。取り戻したのだという感慨が心を包む。
知らず、少女の目に涙が滲む。
「これはお前が救った音だ。お前と共に在る為に甦った音だ」
「はい……はい!!」
ソフィアは涙を堪えて、笑顔という大輪の花を咲かせた。
この人と生きよう。ソフィアは自然とそう思えた。
それさえ忘れなければ、たとえ未来に何があっても、自分がどうなったとしてもきっと大丈夫だと。
そう信じられるだけの想いが二人の心を繋いでいた。
遠くから駆けるふたつの足音が聞こえる。焦燥の混じる声が聞こえる。
二人は支え合って立ち上がり、精一杯の笑顔で手を振った。