19話:魔人・黒化者
「――ッ!!」
父親の顔をした頭部がくるくると宙を舞う。
怒りのままに振るおうともカイの剣に乱れはない。望んだままに斬って、頸を落とした。
ぐしゃり、と妙に湿った落下音が耳に届く。
「――やれやれ、偽物とはいえ感動の再会だろうに。
恨み言のひとつでも言わせてあげてもよかったんじゃないのかい?」
「……」
確かに、それが亡霊の類であるならカイも躊躇しよう。恨み言のひとつでも受けるべきだと頭を垂れよう。
しかし、これは違う。此方の神経を逆撫でし、怒らせる為に用意されたデクだ。
そんなモノの存在を数瞬の間でも許せるほどカイは寛容ではない。
いつの間にかジンの似姿は消え失せていた。
代わりとばかりに、ローブ姿の男が互いの尾を食む双蛇の意匠の杖を手に立っていた。
こみ上げる怒りと共にカイはその男の名を口にする。
「――ニグレド・ダルグロスッ!!」
「まったく、自分で斬った父親をもう一度斬るなんてね。正気じゃないね」
ローブから垣間見えるニグレドの紅い瞳は嘲りに彩られていた。
「舐めるな、化生。父の姿を騙った傲慢、己が頸で贖え」
「酷い有様だね。ああ、参考までに聞いておきたいのだけど、何で偽物だと見抜けたのか――」
斬、と銀光が一閃した。
過たずニグレドの頸が落ち、青い血が村跡に飛び散っていく。
容赦も呵責もない一刀に、男は頸を断たれたまま「……成程」とグロテスクな頷きを返した。
「お前はもう目がマトモに見えていないんだね」
青色の血が巻き戻り、ふわりと浮いた首が胴体に接続される。
古代種の賦活能力は即座に切断面を癒着させ、一瞬前と同じ姿にニグレドを再生させた。
「普通の視界を捨てて、戦闘に特化したその瞳に映っているのは敵か、殺気かい?
辛うじて父親の顔は判別できたみたいだけど、他人の顔が判別できなくなるのも時間の問題だね」
「貴様には関係あるまい」
「羨ましい話だよ。お前たち人間は切り捨てることで強くなれる。歪んだ可能性だ」
泥のような侮蔑に僅かな羨望を込めてニグレドは言う。
この期に及んで、男は戦闘態勢を取ろうともしない。
あるいは、秘かに何かを仕掛けているのかもしれないが、カイには見抜くことが出来なかった。
「思い返せば、私達はよくよく縁があるな。お前にとっては僥倖かな。絶好の復讐の機会だからね」
「知った風な口をきくな。父を殺したのは俺だ。あの人の命を他人にくれてやる気はない」
目の前の呪術士を斬りたいとは思う。
怒りもある。憎しみもある。しかし、それは断じて復讐の念ではない。
目障りだが、それだけでしかない。この男は敵たりえない、そんな気がした。
「テスラやガイウスとは違う。お前は俺の“敵”ではない」
さらに一閃。袈裟に斬りかかったガーベラがニグレドの胴体を切り裂いた。
だが、手には命を断った感触がない。刃先が流れているのだ。
いつか、遺跡で戦ったブラッドゴーレムと同じく、他者の命を鎧のように纏っているのだろう。まずはそれを剥がさなければ勝負にならない。
「舐めた口をきくな、下等種が。たかだか百年も生きていない分際で何を悟った気になっている。
……なら、お前の一番大切なものはなんだい? お前は何の為に私達と敵対するんだい?」
ニグレドを斬り刻みながらも、尋ねられる声に一瞬、心中に像が結ばれる。
カイは即座に心を閉じるがニグレドは過たず読み取っていた。
男の口元が裂けたように吊り上がる。
「――仲間か。ありきたりだが、いいだろう。今度はそれを奪ってあげるよ」
ニグレドは空いた片手でローブを脱ぎ捨てた。
露わになったのは輝くような金の髪に、端正な顔立ち、そして、輝く額のサードアイ。
ネロとよく似た、あるいはまったく同じといってもいい顔立ちであった。
カイは躊躇なくその顔を縦一文字に斬り捨てた。むしろやりやすくなった。
「……呪術が起動しない?」
両断されたニグレドの顔が不思議そうに呟いた。
カイは勝負所を直感した。
ここで押し切らねば呪いを起こされる。
故に、気付かれる前に、何かされる前に、その前に殺し尽くす。
流儀、無間絶影。防御を捨て、影を絶つ二段階加速を起こす。
最高速度に乗った躯が焼け焦げた轍を刻みながら再生途中のニグレドへと一直線に突っ込む。
「ふむ、これは封印術か。殆ど散逸しているというのに、よくぞここまで再構築したものだ。
――だが、甘い。私が何の手も打っていないと思ったのかい?」
「黙れッ!!」
刹那、カイが突き出した剣閃が大気を割り、受け止めるように差し出された掌ごとニグレドの心臓を貫いた。
噴き出す青い返り血がガーベラを突き出したままのカイに降りかかる。
それでも尚、ニグレドの笑みは崩れない。
「呪術士の本領、甘く見るなよ。私はコレに三千年を賭けたのだ」
その一瞬、カイの心眼が一本の黒線を捉えた。
魔力で構成された、ニグレドと自分の心臓を繋ぐ線が。
「――空虚なれ、過剰供給」
遠くで轟音と共に巨大な稲妻が落ちたその瞬間、カイの心臓がつんざくような不吉な鼓動を叫んだ。
視界の全てがどす黒い魔力で閉ざされ、次いで、胸元の封呪の宝玉が砕け散った。
「キ、サマ――」
心臓が破裂したかと思うほどの激痛にカイは全身を痙攣させる。
ニグレドは嗤い続ける。その心臓は破裂と再生を繰り返し、結果として胸部は異常に膨張し、体中の穴という穴から青黒い血が噴き出している。
「グ、クク……まさか共鳴起動に十回も耐えるとはね。
けれど、耐えるならば耐えきれなくなるまで叩き込めばいいだけだ。
――さあ、起きろよ、禁呪“不死不知火”!!」
再度の激震、二つの心臓が音叉のように互いの呪いを増幅させる。
感応力を通じた内部からの呪いの起動。
自身の呪術の発動を感染させるニグレドの切り札。
津波のごとく押し寄せる狂気の波動にカイの意識が徐々に浸食されていく。
「運命の時だ。この身は元より不死、不知火!!
――今こそ私は古代種を超える!!」
呪いの波動をまき散らしながらニグレドは哄笑をあげる。
元来、古代種はこの呪いの効果を受けない。魔神の召喚者たる彼らは呪われるまでもなく彼の神の眷族なのだ。
だが、ニグレドは自らその理を砕いた。
古代種だから強くなれない。
古代種だから変われない。
ならば、古代種の枠を壊せば――あの生意気な王のように――自分も神霊級に。
そして、遂にカイの精神が限界を超えた。
一度で英雄すら狂い果てる呪いを封印の内側から十度も打ち込まれたのだ。
神すら狂わせるニグレドの決死の一手がここに結実する。
「――ギ、ガアアアアアアアッ!!」
「いい狂いっぷりだ。お前が呪術に耐えられたのはその親和性の為かい? 皮肉なものだね」
ニグレドの嘲りには応えず、瞳を狂の証たる真紅に染めたカイが咆哮とともに斬りかかった。
「けれど、私の相手はまだだ。お前には先に殺して貰うものがある」
ニグレドが後退しつつ小気味よく指を鳴らす。
応じて、カイの突撃を阻むように地面から大量の泥人形が沁み出してくる。
「テスラ達に隠したままここまで溜めるのは苦労したんだよ。……まあ、今のお前には関係のない話か」
正気を失ったカイは止まらない。
標的を近くの相手に変更し、唸りを上げて無限に湧き出ているかの如き泥人形を片っ端から斬り捨てていく。
その内に感じる微かな人の命の気配を狂戦士の呪いは見逃しはしない。
泥人形を斬る度に毒錆を浴びて肉体とガーベラが悲鳴をあげる。だが、止まらない。
荒れ狂う嵐となった斬撃が諸共に泥人形を薙ぎ払っていく。
「エルリド・ジェデ34歳、アジェル・ミイシュク22歳、サイラス・アルギル16歳――
どれも一撃か。まったくお前は容赦がないね」
ニグレドは謳うように、嘲るように死者の名前を口にする。
己が取り込み、今、カイに殺させている泥人形の元となった者たちの名だ。
「さあ、さあ、もっと怒ってくれ!! もっともっと憎んでくれ!!
神との契約者は敵を殺すほどに位階を上げる。可能性を拡大する。あるいは、神本体に届き得るほどに!!」
泥人形を斬る度にカイは返り血の如く泥をかぶる。
その泥はニグレドがカイ・イズルハを相手取る為に特別に精錬した毒錆だ。肉体と得物を侵食し、急速に腐らせていく。
飛沫一つにガーベラの纏う風刃でも弾き飛ばせない程の重さを秘め、触れる者の肉体を目に見えぬ領域で破壊する強烈な毒だ。
「強くなり、しかし、存分に毒に侵されたお前を殺し、取り込み、私こそがこの身を神に届かせる。――丸々と太れよ、私の供物」
それこそがニグレドの狙い、反逆の理由。
最古の古代種のひとりであるニグレドは、『不完全であったが故に神域へと届いた』というテスラの理屈を認められない。
二百年前、彼女が発生するその日まで、魔神を復活させる為の祭主の地位にいたのはニグレドなのだ。
古代種が、本来の古代種である自分が叡智と探求の果てに神へと至ることこそが真であると。そう信じなければ、人類に敗北したまま生き恥を晒すことなどできなかった。
だからこそ、全てをかなぐり捨てて呪いを研究し、封印された魔神へと繋がる道筋を開拓した。
そうして得た筈の神へと至る権利を残さず幼王に掠め取られたとき、呪術士はあっけないほど簡単に数千年を耐え抜いた正気と狂気の境を踏み越えた。
「カイッ!!」
その時、ふわりと光が散ってソフィアが転移してきた。
地に足を付けて三秒、状況を把握した少女は顔面を蒼白に染めた。
最悪の展開だ。ニグレドはカイの暴走をこそ狙っていたことを読み切れていなかった。
「――氷結せよ」
「ああ、それはダメだ。この場の律に従って貰うよ、聖性保持者」
とにかくニグレドを倒さなければとソフィアが杖を向けると同時、ニグレドが再度指を鳴らす。
途端に、少女の足元を中心に不吉に明滅する魔法陣が展開する。
周囲一帯の地面に刻まれたそれは魔力を吸収する陣だ。
構成中であった魔法ごと外部に放出していたソフィアの魔力が食い散らかされた。
「ッ!!」
「ルベドと一緒にしないでくれ。私はお前たちを評価している。
彼を此処に招くのに、番たる君への対策を怠る筈がないだろう?」
ソフィアは唇を噛む。
攻撃能力の全てを魔力に依存する彼女にとっては致命の一手だ。
明らかに、そして完全に対策を取られている。
この男は今日、自分たちに勝つ為にあらゆる手を打ってきたのだと理解した。
「さて、糧は多い方がいいよね、カイ・イズルハ?」
周囲を囲む泥人形を切り刻んでいるカイにニグレドが親しげに話しかける。
泥人形の材料に気付き、ソフィアはあまりに冒涜的な光景に生まれて初めて心の底から激昂した。
「あ、あなたは、どこまで強欲になれば!!」
「神に届くまでさ。はじめから其処に至る道筋を与えられていたお前にはわかるまい!!」
嘲弄の仮面がはがれ、刹那、強烈な嫉妬の感情が発露する。それこそがニグレドの本心だったのか。
だが、次の瞬間にはその整い過ぎた相貌には常の嘲笑が戻っていた。
「お前の体は“杖”にしてあげるよ。精々カタチが残るように努力してくれ。
今の彼は難物だよ。如何な聖性保持者とて苦戦するんじゃないかな?
愉快な話だね。テスラの羨む顔が思い浮かぶ――」
続く声は斬撃に切り裂かれた。
カイが万に届きかねない数の泥人形を絶滅させ、次の標的にかかったのだ。
体中が錆に覆われているが、それでも狂える侍は止まることを知らない。
「彼女ではなく私を狙うか。予想外だな。
でも、それは私が近くにいる限りの話だ。
その娘しか狙う者がいなければ、結果は同じこと」
ニグレドが三度指を鳴らす。その体が薄らぎ、消えていく。
転移だ。自身の刻んだ魔力吸収陣にかかるほど呪術士は甘くはない。
「私は最期まで見ていよう。精々、踊り狂って、捧げに来てくれ」
そして、ニグレドは転移した。
後には、呪いに侵され、狂ったカイとソフィアのみが残された。
数秒後の斬撃を予感させる血走った真紅の瞳が少女を捉える。
「カイ――」
叩きつけられる殺意に少女の足が震える。
声は届かない。読心も繋がらない。心臓を叩く鼓動がうるさい。
逃げられない。現在は確定しておらず、故に未来は視えない。
決断しなければならない。
「――――」
その刹那に、ソフィアは全てを捨てる覚悟を決めた。
「――――あなたを止めます、カイ」
決意と共にソフィアの双眸が蒼く蒼く輝いた。
◇
向かい合う二人の知覚外に転移したニグレドは、いつかのように呪いに侵されたカイの戦いを見物していた。
「ふむ、やる気なのか、聖性保持者。もう少し迷うかと思ったのだが……」
やはり下等種の考えは理解できないと嘯き、口内に溜まった血を吐き捨てる。
消耗が激しい。呪いの感染はニグレドにとっても賭けであった。
呪いを受け入れ、しかし、正気を保つ為に男もまた少なくない出費を強いられていた。
それは本来、テスラを王の座から追い落とす為に築いた術式であったのだ。
「――シッ!!」
そして、意識の逸れた刹那、ニグレドの死角を縫うようにして槍が突き込まれた。
チッと音を立てて肩口を削られつつも、次々と降り注ぐ穂先を男は最小限の負傷で回避した。
「十二使徒か。今いい所なのだけどね」
「そいつはご愁傷様だ。けど、こっちにも付き合って貰うぞ、古代種」
錆ついた六連槍を従えて着地したクラウスは不敵に笑い、対するニグレドは溜め息をついて肩を竦めた。
目の前の少年が魔力気力ともに消耗しているのが手に取るように分かったからだ。毒錆は十分に効果を発している。
「滑稽だね。そんな有様では私に勝てないと理解しているだろうに」
「んなことは百も承知だ!! だがな、今日に限ってはテメエの命も魔力も有限だ」
古代種はそれぞれに特化した能力、分野を持つ。
ニグレドの特化した力は強奪と加工――言うなれば“消費”の属性だ。
この呪術士は他者から奪ったものを加工し、用いることが出来る。
だが、それは裏返せば自分だけでは新しい何かを生み出すことが出来ないということ。
万に及ぶ泥人形。それだけのリソースを吐きだした今ならば――。
「削り殺してやるよ、老害!!」
「……仕方ないな。狂い果てた彼が来るまでの手慰みだ。やってみなよ、未熟者」
嘲りには応えず、クラウスは六本の槍を回してひとつに連結して構えた。
身長の倍以上の長さを持つ六連大槍。クラウスの対単体戦の姿である。
錆ついた槍は、しかし、主の心意気に応えて力強く風を斬る。
(長くは保たねえ。後は頼んだぜ、先輩――)
心中に想いをひとつ、クラウスはニグレドに対して突撃をかけた。
◇
「――■■■■ッ!!」
禁呪“不死不知火”が齎す狂戦士の呪いを受けてカイが吼える。
さらに持ち主の魂の励起に呼応するようにガーベラも錆に覆われた刀身に断続的な風刃を纏っている。
ソフィアが聞いていた症状よりも明らかに悪化している。
全身を蝕んでいる泥錆の影響もある。
体が壊れるか、刀が折れるか、どちらにしろ長くはもたないだろう。
狂戦士はソフィアめがけて走りだした。
ソフィアは静かに息を吸って、全ての魔力を解放した。
外部に展開した端から魔法陣に吸収されていくが、吸収量よりもソフィアの全力の放出量が遥かに勝る。
物理的な凍結の波動すら伴う魔力の放出にカイの足が僅かに鈍る。
だが、次の瞬間、力任せに振り抜かれた風刃が魔力ごと波動を斬り払った。
「――――」
狂っていようとカイならばその程度はやってみせる。驚くに値しない。
ソフィアは意識を乱さず、ひたすら杖へと魔力を込め続ける。
魔術士の真髄は魔力と術式による奇跡の顕現にある。
極論、魔力と彼岸の世界から此方側への通り道さえ確保できれば不可能なことはない。
そうして魔道を極めた先にある無限の選択肢を『相転移』という。
すなわち、魔力と引き換えにあらゆる技能を構成する秘匿技術である。
「――咲き誇れ、“ヴェール・ブランシェ=リンドバウム”」
カイ相手に稼いだ一秒、その一瞬に演ずるは『刀気解放』。
ソフィアの杖は神樹のひと枝。樹齢数千年ともいわれるその裡には“魂”がある。
真名を発することでその身に秘めたる全てを詳らかにする。
瞬間、二人の周囲を輝かんばかりの森が覆い尽した。
それは幻想の森、主の覚悟に応えて杖が創造した彼岸の世界の森だ。
結界、あるいは神域の構成。それこそが神樹のひと枝に宿った魂の発現である。
ソフィアは咳き込むように血を吐いた。
魔力吸収陣と技術体系の違いすぎる技能の代演に無限に思えた魔力が凄まじい勢いで消費されていく。限界は近い。
だが、今なら――
幻想の森に涼やかな風が吹く。
この聖域においては肉体は意味を持たない。剥き身の魂の姿が露わになる。
かつて、同じ神樹の空間でクルスは金剛の巨人に、カイは刃の魔人に視えたというが――
「……カイ」
ソフィアは呆然と声をあげた。己の声が震えているのを自覚する。
カイの魂の姿である無数の刃に覆われた魔人は、今やその身全てを視覚化された呪いに縛られていた。
一歩一歩進む度に全身を覆うどす黒い靄が錆びついた不協和音を掻き鳴らし、肉を貫き心臓を捉えた黒い影が命すらも危うくさせている。
視ているだけで発狂しそうだった。
(これほどの呪いにあなたは2年もの間、耐えていたのですか)
少女は絶句するしかなかった。心が読めた程度では男の苦しみは到底理解できていなかった。
気力や根性などという生易しいものではない。
生きる為の執念、己を誰にも譲らないという誓いがギリギリのところでカイという存在を保っていた。
だが、その執念も誓いも今や土足で踏みにじられ、消え去ろうとしている。
脂汗を流して結界を維持するソフィアに軋む音を立ててカイの剣が迫る。
たとえ狂っていてもその武は翳らない。触れたモノ全てを断ち斬る必斬の剣は健在である。
少女は動かない。ここで逃げる訳にはいかない。
意識を研ぎ澄ませる。もっと深く、魂の奥底へ。
呪いに埋もれたカイの正気を掬い上げなければならないのだ。
だが、次の瞬間、祈るように捧げ持つ杖に罅が入った。
「――ッ!!」
やはり、と心のどこかで納得する。呪いの起動した状態とはすなわち魔神に接続している状態に等しい。
神という極大の存在と繋がったカイの魂をこの場に留めるには、ソフィアと神樹というこれ以上ない組み合わせでも足りないのだ。
こうなるとわかっていた。だから、今までこの方法をとれなかった。
この身には、あと一歩、カイを正気に戻す手立てがない。
「ア、グ……」
魔力の急激な消耗に意識が薄れていく。
杖の罅は致命的に広がり続け、結界と共に半ば崩壊しかけている。
視線を前に向ければ、極限の集中故か、ゆっくりと迫るカイの剣がみえる。
「ま、けません……」
魂すら削れていく中で、それでもソフィアは諦めなかった。
まだいける、と強がりの微笑みすら浮かべてみせる。
チカラが足りないのなら、この体を使えばいい。己を“杖”にすればいい。この空間ならそれが出来る。
決意した瞬間、杖が、ヴェール・ブランシェが砕けながらも解けるようにして少女の両腕を覆い、精緻な金色の刻印を描いた。
直後、カイの一刀がソフィアへと振り下ろされた。
この身には、あと一歩、カイを正気に戻す手立てがない。
だから、ソフィアには信じる以外に手はなかった。
ふと、風が吹いた気がした。
「――カイ」
万感の想いを込めてソフィアはその名を呼んだ。
振り下ろされた一刀は少女に触れる直前でぴたりと止まっていた。
それは奇跡でも、偶然でもない。
――あの日、この少女を斬ることはないと、男の魂が覚えていたのだ。
そして、動きを止めた魔人の頭部に罅が入る。
“目に映る全てを殺し尽す”その呪いを、今度こそ魂に刻んだ想いが凌駕した、その確かな証明だ。
「ソ、フィ、ア……」
小さな、しかし、はっきりとした声が少女の耳に届く。
次の瞬間、仮面の如く男の顔を覆っていた刃の鱗が砕け散った。
鱗ごと呪いを振り払った中には、常と同じカイの相貌がある。
ソフィアは崩れそうになる男の体を抱きとめ、男の右目にそっと唇を触れさせた。
それが限界だった。声を発する余力もなく男を抱きしめたまま少女は気を失った。
――あと一歩届かなかった、その後悔を胸に秘めたまま。
「――ソフィア」
纏わりつく呪いに体を軋ませながら、カイは腕の中で眠る少女を抱きしめた。
そうだ。誓った筈だ。
この身全てを差し出してでも、この少女が生きる未来の為なら、いくらでも強くなってみせる、と。
その誓いが嘘でないなら、己が殺すべきは別にある。
心臓を掴んでいる影は健在。まだ何も終わっていないのだ。
解呪の条件は、呪いを起動したまま正気に戻ること、そして――
「……」
基点であるソフィアが意識を失った以上、この神域も長くは持たない。
封呪の宝玉と神樹の杖も喪われた。この奇跡のような時間は二度と訪れない。
元より、ここまで悪化した呪いを解くなど呪術士本人ですら不可能だろう。
故に、選択肢はひとつしかない。
少女をそっと地面に横たえ、己の胸元を見下ろす。
――視える。
少女の魔力を注がれた右目が心臓に絡まった呪いを確と捉える。
発動状態を維持している呪いは逃げられない。この魂を露わにする空間の中では逃げ場がない。
あとは正気を取り戻した己が決断するだけだ。
(お前は俺なんぞよりも強かったな、ソフィア)
いつか、こうする日が来るのではないかと覚悟していた。
罅割れたガーベラから手を放す。哀切を告げるように愛刀はそよ風を指先に残す。
代わりに己の胸に指を突き立て、肉を突き破り、一息に心臓を抉り出した。
「ギ、ガ――ッ!!」
掲げるは、己の魂ごと引きずり出した醜き呪いに蝕まれた心臓。
呪術を表出させた精神世界ならば、魂を、呪いを、確かな形にしたこの神域ならば、これができる。
――彼岸に座す神々よ、この大陸を守護せし五色の神よ、しかと見届けよ
――今こそ、この身は呪われし運命を断ち斬る
そうしてカイは、一瞬の躊躇いもなく己の心臓を握り潰した。
薄れ行く幻想の森に血飛沫が舞う。
呪いと、魂の砕ける音が、断絶する意識の中で響いた。