14話:オアシスと遺跡
太陽が地平線に没し、残照が空を彩る中、一行は冷夜に備えてオアシスでの休息にはいった。
暗黒地帯と異なり、ヴュステルザント大砂漠には水源も草花もある。
数は多くないが有るのと無いのとでは旅の難易度は格段に違ってくる。
駱駝たちは背の荷物を解かれると、一斉に湖面に首を垂らして舌を濡らし、喉の渇きを潤している。
オアシスとは不思議な光景だとソフィアは思った。
見渡す限りの岩と砂漠の中にぽっかりと穴が開いたように湖が出来ているのだ。
加えて、湖の周りには背の低い羊歯の葉や砂漠の木――椰子の木が生えている。
大柄な葉と固い実をつけた椰子の木は砂防林であり、その根はオアシスが砂塵に連れ去られぬよう支えている。
葉や皮はキャラバンで様々な道具となり、実は貴重な甘味である。
どの部位も有用な椰子の木は砂漠の民とは切っても切れない関係にある。
彼らに言わせれば、オアシスのある場所に椰子の木があるのではなく、椰子の木がある場所にオアシスがあるのだという。
両者がどう違うのかソフィアには実感がなく、そもそも椰子の木は青国の港でも見たのだが、ともあれ、椰子の木がオアシスに必要不可欠な存在であることは理解できた。
(海辺でも砂漠でも育つなんて、まるで人間みたいですね)
オアシスの湖面では、ここまで一緒にやって来た研究ギルドの面々が椰子の実をとったり、魔法で砂を固めて作った桶に水を汲んで砂と垢を落としたりと思い思いに疲労を癒している。
ヴァネッサは旅慣れしている者を特に選んだのだろう。
彼らは決して長いとはいえない休憩時間の中で効率的に休息をとっている。
同時に、他のキャラバンの目がなくとも、彼らはオアシスを荒らすような真似もしていない。
湖面を汚してはならず、椰子の実は取り過ぎてはならない。オアシスは砂漠を渡る者たち全員の共有物だからだ。
椰子の実を取った者もその流儀に従い、ひとつの実から取り出した汁や果肉を皆と分けあっている。
ソフィアはそっと指先に魔力を込めて、彼らの器に小さな氷を二、三個落としておいた。
大砂漠はまだまだ暑い。冷夜がくるまではまだ時間がかかる。
「気が利くね、ソフィア」
「ネッサ教官?」
いつの間にか隣に来ていたヴァネッサが声をかけてきた。
さらに、ハーフエルフの教官が箒――実際は“木”を模した杖で清掃具としての機能はないのだが――の石突で地面を叩くとぼこぼこと砂土が盛り上がり、あっという間にベンチができた。
目線で座るように指示されたソフィアはズボンの砂を払って粘土のような不思議な手触りのベンチに腰掛けた。
「クルス達には目的地周辺の安全確保にでて貰った。
そんなに遠くないからすぐ戻る。ソフィアの体調は大丈夫?」
「だいじょうぶです。ご迷惑をおかけしてすみません」
「気にしてない。貴女には遺跡に着いてから働いて貰う」
「おまかせください」
研究ギルドの中にソフィアほど呪術や魔法に知悉している者はいない。
もしもヴァネッサが今後、己の研究成果を誰か一人に託す必要が生じたらならばソフィアを指名するだろう。
魔力の絡む調査にはどうしても感応力という才能の有無が強く影響するからだ。
「そういえば、調査する遺跡は旅の途中でみつけられたと聞きましたが、教官はどうしてこんな辺鄙な所を旅していたのですか?」
「追手から逃れる為」
「あ……す、すみません」
「気にしないで。半分は自業自得だから」
隊を先導して砂漠を進む姿に迷いがなかった点を見てもヴァネッサがこの地に慣れているのは明らかであったが、それも必要に迫られての経験であったのだろう。
彼女はハーフエルフであるという出自によって故郷を追われ、追手に対抗する為に呪術の研究を始めたという。
それは決して幸福な記憶ではない筈だが、しかし、ヴァネッサは三角帽子の下で目尻を下げて口元を緩めた。
「それに、いまは幸せなの。あなた達と同じくらい」
「いえ、その、わたしたちは……」
「貴女のそういう姿、珍しい」
「あぅ……」
ソフィアはさらに頬を染め、恥ずかしそうに両手の指をもじもじと絡めた。
からかわれているのは分かっているがどうにも自分を律せない。
少女自身、甘い疼きのような感情が胸の奥から滾々と湧き出てくるのを制御できなかったし、する気も起きないのだ。
好きだとか触れて欲しい等々と何の衒いもなく言っていた過去の自分にはどうやら戻れそうになかった。
「ほんとにまだ何も約束はしていないんです。
共に生きて、共に死のうって決めただけで……」
「それは婚約とどう違うの?」
「こんっ……!?」
一瞬で脳の許容量を超えたソフィアは耳の先まで真っ赤に染めて絶句してしまった。頭頂から湯気でもでそうな有様だ。
人並の羞恥心と恋愛観の代わりに言葉の発し方まで忘れてしまった教え子に、ヴァネッサはそっと微笑みかけた。
「あなた達はまだ若い。そのくらい明るくていいと思う」
「ネッサ教官だってまだお若いですよ。
誰であっても、どんな過去があっても、幸せになってもいいのだと、わたしは思います」
「ん、ありがと……そろそろ出る」
ヴァネッサは小さく微笑んでソフィアの頭を撫でるとふわりと立ち上がった。
遠く、砂上に立ち昇る蜃気楼の向こうにクルス達の姿が見える。
ようやく今回の旅の目的を果たせる時が来たのだ。
◇
予定通り、目的地には二刻と少しして到着した。
調査対象の遺跡はヴュステルザント大砂漠の北東部にある。北に十日程進めば暗黒地帯に接する砂漠の端に近い場所である。
位置的にみて、千年前はまだ砂漠ではなかったのだろうが、現在では周囲一帯ごと砂漠に呑み込まれている。
遺跡の外観は砂に埋もれかけた単なる岩山である。辺りには他に何もない。
予めヴァネッサにこういう外観だと言われていなければ見逃していただろうが、同行していた研究ギルドの者たちは駱駝の背から各々の道具を下ろすと手慣れた様子で調査を開始していた。
「初めての調査ではないみたいですね」
「うん、前に一度調査してる。でも、此処で新たに何も見つけられないならもう暗黒地帯の中を探すしかない」
ソフィアの問いに、ヴァネッサは三角帽子の縁をこすりながら答えた。
研究ギルドの面々は早くも遺跡の入り口から砂を掻きだし、内部への道を拓いている。
「ただ、あなた達には無駄でないと思う」
何かしらの方法によって風の流れを制御しているのだろう。
入口から少し進むと砂の侵入はぴたりと止まり、つるりと磨かれた床面が露わになっている。
一行も丁寧に砂を落としてから先へと進んでいった。
遺跡の中は大部屋が一つしかなく、意外と狭く感じられた。
広さ自体は学園の教室ふたつ分はあるのだが、灯りが届かない天井が暗闇に隠れている上に、周囲の壁という壁にびっしりと見慣れぬ文字が刻まれていてひどく圧迫感があるのだ。
加えて、中央には巨大な――隊の中でも最も身長の高いクルスでも見上げなければならないほどに巨大な石碑が鎮座し、部屋の少なくない面積を占有していることがその印象に拍車をかけている。
石碑は千年以上を経ても劣化ひとつなく、いくつかの碑文と岩絵が刻まれている。
岩絵は、炎に囲まれた中で特徴のないヒト、長耳、短躯、獣人、人魚、それに黒い人影の連合と思しき太陽を背に負った一団と、赤い双眸と額の蒼眼を輝かせる一団との戦いが描かれたものだ。
文字は現在大陸で使われていない形式だが、絵の方はかなり簡略化されていて、クルス達でも内容を読み取ることが出来た。
後世において文字の読めない者でも内容を理解できるようにとの工夫であろう。
「人類連合と古代種との戦いを描いたもの、なのか?
人間、エルフ、ドワーフ、セリアン、メロウまではわかるが、この黒い影は何だ?」
「あー、文字が注釈なのかも……ダメ、古過ぎて今とは別物。ソフィア、読める?」
早々に解読を諦めたクルスとイリスは一言も発さず蒼眼を輝かせて石碑を見上げているソフィアに水を向けた。
一行の中で知識面ではソフィアが頭三つ分は抜きんでている。
少女の瞳はせわしなく動いて脳裡に記憶している文法を当てはめていく。
「黒の剣王……従う……死を、捨てた……戦士……霊なる魂……“霊人”?」
「……アスラというのは黒神の眷族のことだと思う。ずっと昔、黒国が滅亡する前はいた、と言われている」
ソフィアの解読に同じように文字を追っていたヴァネッサが補足する。
霊人は千二百年前、黒神の零落と共に喪われた存在であるとされている。
黒神に付き従い、黒国を大陸北方の雄にまで押し上げた戦士の集団である。
識者の間では、黒神の眷族が確認されていない現在、アスラというのは国軍のような戦士団の通称だったのではないかとも考えられている。
だが、赤神の鉄人、白神の獣人、緑神の森人、青神の水人。神は己の加護を強く受ける眷族を擁している。
ならば、その関係性に対応する存在を黒神が――たとえ五柱の中で最も若い神であったとしても――持っていても決して不思議ではない、というのがヴァネッサの推論だった。
「アスラ……たしかに古い書物にはその名前が載っていたと記憶しています」
「もし今もいるとすれば古の戦争前、黒神が零落する前に生まれた者だけだろうな」
「んー、死を捨てたなら長生きしてそうだけどね。
とにかく、これを作った人はアスラの存在を知ってたってことね。誰かしら?」
「順当に考えて、黒国が滅びる前に各地に脱出した民……だと思う」
ヴァネッサは研究者らしくない煮え切らない物言いで己が推測を告げた。
理由はクルス達も察した。脱出者達の生き残り、あるいは子孫がみつからなかったのだろう。
「神官たちが五柱の祭祀を纏められたことからみても、黒国から流出した資料があったのは確か」
「形として残っていないということは口伝。尚更、脱出者がいないとおかしい……がその子孫はいない、か」
「子孫を作らなかったんじゃなくて、作れなかったって可能性もあると思うわよ」
「成程、眷族か。たしかにな」
イリスの推測にクルスは頷きを返した。
エルフ以外の各神の眷族は他種族と子供を作れない。
そのエルフにしても緑神が『豊穣』の性質を有し、血としての受け皿が広いから可能なのである。
同じことが死と戦いを司る黒神の眷族において可能とは考えがたい。
「つまり、この遺跡も黒神の眷族――アスラが建てたということか?」
「可能性は高いわね。ソフィア、他には何が書いてるの?」
そう尋ねるイリスの手はいつに間にか石碑に描かれた絵を紙に模写し終えている。
模写の精度はかなり高い。地図の作成、対象の捜索の際に模写は有用な技能なのだ。
「えっと、この遺跡は……神格の保存? いえ、信仰の継続の為に建てたもののようです」
「黒神が零落するのを防ぐためか。それなら教会があってしかるべきだが」
黒神信仰の継続を目的とするならば教会を建てていなければおかしい。
この大陸において神とは人間と契約する存在、あるいは“理”そのもののことだ。
したがって、契約の場がなければ、神は彼岸の世界の手の届かない置物と変わらない存在になってしまう。
実際、大陸各地の教会が五柱の信仰を統合し、他の神と併せて祀るようにしたことで黒神は消滅を免れたのだ。
だが、遺跡の周囲には他に建物はなかった。警句を刻んだ遺跡と教会とを離して造る理由もない。
であれば、残す所はあとひとつ。
「――地下か。カイ、どうだ?」
「……」
石碑を見上げていたカイはクルスの言葉に頷き、無言で床に拳を打ちつけた。
金属を打ち合わせたような重低音が響き、研究ギルドの面々から若干の非難混じりの視線が向けられる。
だが、岩肌の露出した床は見た目以上の硬度を有しているらしく侍の拳を受けても割れもしなかった。
カイは目を閉じて拳に返る震動と反響音を捉える。
数キロ先の魔物の足跡すら聞き分ける知覚能力が地下を走査する。
「……床は一枚岩、かなり深いところまで根を張っている。
反響の感からして地下空間があるのは地盤のさらに下だろう」
「ふむ、暴くとなると地盤ごとひっくり返すことになるか」
「だろうな」
二人で頷き合っていると今度は周囲から殺気の籠った目で睨まれた。
「そもそも、そんなことしたら地下空間まで崩壊してしまいます」
「順当に隠し階段……は深さからして現実的じゃないから転移陣を探すべきかしらねー」
「前の調査ではみつからなかった。もしかしたら周囲の壁の文字が手がかりになっているのかもしれない」
「でしたら――」
男二人を置いて、女性陣三人が膝を突き合わせて頭を捻る。
教会を隠したのは外部から襲撃されるのを警戒しているからだろう。
現代では教会が襲われるなど考えられない事だが、古の戦争中と言えば、大陸のどこもかしこも戦乱で荒れ果てていた頃だ。
その程度の警戒と備えは当然であった時代であったといえよう。
しかし、同時に他に黒国から脱出してきた者がいれば門扉を開く用意がある筈だ。
黒国の者しか気付かない符丁、あるいは違和感のあるものがある筈だ。
「カイ、ちょっといいですか?」
数分の議論を経て、ソフィアがひとつの仮定を立てた。
仄かに光る蒼い瞳と此方に向かって両手を差し出す姿に凡そを察したカイは、少女の体を横抱きにして抱き上げた。
力強く抱きしめられたソフィアは先のオアシスでのヴァネッサとの会話を思い出してぴくりと震え、桜色に染まった頬を隠す為にカイの胸元に顔を押し付けた。
だが、そうすると今度は呼吸のたびに古い大樹のようなカイのにおいが肺を満たしてしまった。
少女の鼓動は早鐘のように加速していく。
胸の奥が苦しくなるようなせつなさにソフィアは声もなく身悶えした。
「どうした?」
「い、いえ、その……おもくないですか?」
咄嗟に口をついて出た問いに、挙動不審なソフィアを見て不思議そうに首を傾げていたカイは口元を小さく歪めた。
「その問いには前に答えた。……いや、少し痩せたな?」
「ヒミツです。人前では絶対いいません」
「それもそうか。……どのあたりだ?」
なんとか落ち着きを取り戻したソフィアは岩絵の少し上を指差した。
カイはソフィアを片手で抱え直して石碑の半ばあたりまで跳び上がり、刻まれた碑文の窪みに片腕と両の爪先をひっかけるようにして体を固定した。
「何かおかしいのか?」
「はい。このアスラを説明する文章だけ四か所ほど文字が重複しています。
碑文全体は格調高い文章で書かれていて高度な教育を受けていることが窺われるのに、この部分だけ立て続けに間違いがあるというのはおかしいです」
「意図的なものか」
「おそらくは。この四つの文字を組み合わせてできる単語は……」
ソフィアの細い指が順々に文字に触れ、薄桃色の唇が音を紡いでいく。
「――跳躍」
次の瞬間、音もなくカイとソフィアの姿が掻き消えた。