13話:熱砂
乾いた風が砂塵を巻き上げ、砂丘をあちらこちらへ引き摺っていく。
燦々と輝く太陽は容赦なく体力を奪い、一足飛びに気温を上昇させる。
秋口で尚この暑さか、とクルスは汗を拭いながらひとりごちた。
細かな砂がサンドマントの内側に入り込み、歩く度にざらざらと音を立てて不快感を煽る。鮮やかな赤色のマントも数日の砂漠行ですっかり砂埃に色あせてしまっている。
視線を転じても枯れ草や岩場が点々とあるだけで、あとは地平線の向こうまで砂漠が広がっているばかり。生物の気配も殆どない。
“ヴュステルザント大砂漠”
赤国西部を我が物顔で占めるこの地は、年を経るごとに拡大を続けている大陸最大の砂漠地帯である。
アルカンシェルの一行は今、この熱砂の大地を旅していた。
事の発端はヴァネッサ教官の依頼であった。
彼女が前々より計画していたヴュステルザント大砂漠における遺跡調査の護衛にアルカンシェルを指定したのだ。
戦乱の導への対策に集中したかったクルス達だが、教官の「魔神について何かわかるかもしれない」との言に依頼を承諾したのであった。
魔神に関する情報はクルス達に、わけても神殺しを目指すカイにとって絶対に必要なものである。
現状、魔神についてわかっていることはひどく少ない。
魔神とは千二百年前、黒国北部――現在の暗黒地帯中央部に降臨しかけた、他者を呪い、取り込む権能を持つ神性である。
召喚に失敗したのはネロ・S・ブルーブラッドが直前で裏切ったため。
そして、不完全な顕現を果たした魔神を黒神と黒国の総力を以て封印した――と考えられている。
黒国が跡形もなく滅び、黒神が消滅寸前まで零落したのが同時期であることからそう推測されたのだ。
二百年前にも封印が破れかけたが、ローザ・B・ルベリアによれば、初代ギルド本部長アルバート・リヒトシュタインが新たな封印となって押し留めたという。
現在、戦乱の導が復活させようとしており、次代の封印はソフィアであることが予知されている。
これら以上の事は分かっていない。
なにしろ、魔神に挑んだ者たちの中に生存者は唯のひとりもいないのだ。
黒国自体も暗黒地帯に塗りつぶされたために事後調査が断絶していることと併せて、まともに残っている記録はないに等しい。
四大国とギルド連盟も調査の手を広げているが成果は芳しくない。
おそらく、この大陸で魔神と言う存在を正確に把握しているのは戦乱の導だけであろう。
この時点で、クルス達は大きく後手を踏んでいる。
そこにきて今回の遺跡調査である。
夏前には既に計画されていたこの調査は直接的には魔神とは関わりない筈だ。
しかし、呪術とそれに繋がる魔神研究の第一人者であるヴァネッサの言は無視できない。
なんとしても魔神の手がかりを見つけねばならないとクルス達も覚悟を新たにして調査に臨んでいる。
(しかし、昼間を避けてもこれ程の暑さか。鎧を着てこなかったのは正解だな)
曇る様子すらない抜けるような青空を見上げて、クルスはヴァネッサの忠告に感謝した。
熱せられた金属鎧、関節部に入り込む砂、不安定な足場。
端的に言って、砂漠と重鎧の相性は最悪だ。剣についても革鞘にしていなければ砂が入り込んで抜くことすら困難になっていたかもしれない。
しかも、砂漠は夜になれば今度は急激に気温が低下する。
クルスの本来の装備であり、現在修理中の不朽銀と不壊金剛の合成鎧ならばともかく、アイアン一式程度では急激な温度変化に耐えられず三日と経たずに動作不良を起こすだろう。
翻って、現在のクルスの装備は厚手の上下にサンドマント、腕に装着する形式の丸盾と革鞘に包まれた長剣といった塩梅である。
実際には剣も盾もそれなり以上の金額を掛けた業物だが、外見的には山賊と大差ない。
とはいえ、この砂漠では護衛の意味合いも都市部とは変化している。
全身鎧を着て馬に騎乗し、周囲を威圧して盗賊の襲撃や宿泊する村での余計なトラブルを避ける、などという仕事は砂漠にはない。
まずは生きる為に全身全霊を尽くさねばならず、仮に滞在するオアシスで他のキャラバンと出会ったなら余程の事がない限り協力するのが基本である。
下手にトラブルを起こせば、逃げ場のない――正確には逃げても死ぬしかない――砂漠に囲まれている以上、どちらかが殺し尽くすまでやるしかなくなるからだ。
無論、あまりに弱ければカモにされるため実力は必要だが、まずもって無用な諍いを起こさないことが肝要である。
砂漠の真ん中で鎧一式を装備した人物を見かけたら、鎧型魔物かと警戒されるのがオチであろう。
(商業路から外れているからか、他のキャラバンとはあまり出会わないが)
周囲を見渡せば、この数日で見慣れた感のある研究ギルドの者たちがフードの下で疲労を濃く宿した表情をしている。
ヴァネッサが選抜した彼ら全員がルベリア学園に所属しており、信頼できる腕前の冒険者であるが、それでもこの暑さには閉口しているようだ。
それも仕方のないことであろう。
現に今もじりじりと照りつける日差しは容赦なく体から水分を奪っていく。
あまりの暑さに、太陽が中天に来る真昼前後の二刻は日影で耐え凌ぐしかないほどだ。
砂漠の民が太陽を忌避し、月をシンボルとしている理由を彼らは身を以て理解した。
この地の民にとって太陽とは死の象徴だ。
遮るもののない陽光の下に肌を晒せば半日と経たずに軽度の火傷に覆われてしまう。
どれだけ強くなろうと、自然という脅威と相対するには別種の備えが必要となる。
研究ギルドの者たちはこまめに水分を補給し、順繰りに荷運び用の駱駝に乗って休息している。駱駝の乗り心地は決して良いとは言えないが、砂漠を歩き続けるよりは遥かにマシなのであろう。
アルカンシェルも正式にクルスへ下賜されたクティークスに幌馬車を牽かせている。暗黒地帯を共に旅したこの軍馬は砂地を物ともしない健脚を発揮して頼もしい限りである。
ただ、この巨馬は見知らぬ人間を背に載せるのを拒否する為、現在その背には誰も乗っていない。それでいて隊列を乱さぬのだから賢い馬であるのは確かなのだが。
元来、馬と云うのは臆病な動物であり、見知らぬ人間に警戒心を抱くのは自然な反応であるが、妙に不敵そうにみえるクティークスの表情を見ているとそれだけではないような気もしてくる。
(名馬ではあるのだがどうにも気難しい奴だな……)
「クルスー」
その時、幌馬車の中からひょっこりとイリスが顔を出した。
顔を覆う被り物で容貌は隠れているが、僅かに零れた白銀の髪のおかげで容易に判別がつく。
「そろそろ警戒代わるわ。アンタもちょっと休みなさい」
「イリス、お前は平気なのか?」
「髪に砂が絡んで鬱陶しいったらないわ」
被り物をぱたぱたとはたいて冗句を飛ばす少女にクルスは苦笑を返した。
野伏としてあらゆる場所への潜入を訓練しているイリスにとっては、この熱砂の地獄も環境のひとつでしかないのだ。
「ソフィアの調子はどうだ?」
「馬車の中に転がしとけば大丈夫そうよ。でも、まだ戦闘はちょっと危ないかも」
「そうか。まあ、そうだろうな」
「これでも昔よりはかなりマシになったわよ」
ソフィアは生まれついて環境の変化に脆弱なため、砂漠の気候にある程度慣れさせた後は馬車内へ退避させている。
馬車内ならば魔力で周囲を冷やすこともできるからだ。
「現状だと許容範囲内か」
「危なそうなら転移術式で帰しちゃえばいいし、そこまで神経質にならなくても大丈夫よ?」
「それをすると後でむくれそうだがな」
未知への興味と探求はソフィアの根源的な欲求と言える。
今回の調査への同行も半分はソフィアの知識と能力を必要としているからだが、もう半分は彼女自身の強い要望があったからだ。
クルスとしても魔神に関わりがある可能性がある以上、いずれ封印になるというソフィアを除け者にする訳にはいかなかった。
そう、神の封印だ。魔神を封印する為には妹を犠牲にしなければ――――。
「クルス」
「ッ!! すまない。少し頭を冷やしてくる。ソフィアを診ていてくれ」
「この炎天下でどうやって冷やすのよ……考え過ぎても毒よ」
気遣うようなイリスの言に片手を挙げてクルスは足早に隊列に戻った。
そこにはいつもの道衣と外套を身に着けたカイがいる。
フードを被り、剣の鯉口に覆いをしている以外は本当に常と変らない身形だ。
あまりの変わらなさにクルスは一瞬、此処が砂漠であることを忘れかけた。
「カイ、お前、水は飲んでないのか?」
「問題ない。いい鍛錬になっている」
「鍛錬?」
「水を大量に飲むのは汗をかくからだ。汗をかくのは暑いからだ。
だから、暑くなければいい」
「いや、暑いだろう。この気温だぞ?」
「それも気の持ちようだ」
「……」
そういうものなのかと無理矢理に自分を納得させて、クルスはカイの隣に並んだ。
一歩歩くたびに砂がぎしぎしと音を立て、背後に足跡を残していく。
ちらりと横顔を見れば、侍はけろりとしていて本当に汗をかいていない。普通なら病気か体調不良を疑うところだ。
(……気の持ちよう、か)
クルスは声に出さずに繰り返した。
常と変わっていないのは身形だけだ。カイの中身は最早、別物といっていい。
カーメルの歌声が帝都に響き渡ったあの日、カイとソフィアの間で何かが変わった。
野暮なことを訊く気はなかった。二人の間に流れる雰囲気を見れば一目瞭然だからだ。
それからだ。今、侍の全身には覇気が充実している。
所作のひとつ、視線のひとつに見る者すべてを焦がすような熱がある。
騎士の中には、きちんと鞘に納まってよかったと思う安堵の気持ちと、憧憬に近い気持ちが生まれていた。
だが、『魔神の封印となる』というソフィアと『魔神を斬る』というカイの決意をすんなりと受け入れられるかは別問題だ。
元より疑っている訳ではない。どちらも予測していたことだ。
ソフィアは受け入れ、その上で抗うと決めた。イリスはそれに従うと決めた。
そして、カイは予知された未来を変えると決めたのだ。
では、自分はどうするべきなのか。誰も取りこぼさない道とはなにか。
クルス・F・ヴェルジオンの答えは、未だ定まっていない。
◇
「みんな、ちょっと来て」
明くる日、太陽が相変わらず憎々しいほどの熱と輝きで中天に昇り、夜半から出発した一行もそろそろ休息かと考えていた丁度その時、先頭を歩いていたヴァネッサが集合を掛けた。
いつもは眠たげにとろんと細められている目が、今は緊張に見開かれている。
ここまで現地民顔負けの精度と確度で隊を率いていたハーフエルフに文句を言うものはおらず、数分とかからずに全員が集まった。
クルス達も馬車からソフィアを出して輪に加わり、ヴァネッサの言葉を待つ。
「砂漠の不文律を教える。あっちをみて」
そう言って教官が指さした先には無数の柱と黒々とした岩山が立っていた。
数百メートルは離れているこの場所からでも視認できるのだ。柱の太さも、そして、山の大きさも相当なものだろう。
明らかに周囲の砂漠の風景から浮いている一帯である。
「教官、あれが遺跡なのですか?」
「違う。よく見て」
困惑しつつも皆は目を凝らした。
丁度、柱の間を巨大な溶解地虫が抜けようとしていた。
メルトワームは先端に無数の牙が並んだ口を持ち、両手を広げた人間十人に匹敵する太さの巨大なミミズのような魔物である。
その体内は強酸性の消化液で満ち満ちており、奇襲時は砂の中を無音で進むため察知が難しく、不意に砂漠を渡る人間を丸呑みして溶かし殺す非常に危険な魔獣級である。
とはいえ、不規則に並ぶ柱を巨体をくねらせて通り抜ける様は生理的な恐怖を呼び起こすが、言ってしまえばそれだけだ。
特段おかしな雰囲気は感じられない。
攻撃方法が砂中からの奇襲しかないのだから、実力さえ足りていれば対処も容易である。
そもそも、メルトワーム程度ではイリスの探知と狙撃を潜り抜けて接近することはできない。
よしんば奇跡が起こって奇襲に成功したとしても砂中から顔を出した時点で頸を落とされる。硬くも速くもない巨体ではカイに対する勝機はない。
結論、ここまで来るのに何度か討伐したのと変わらない魔物にしか見えない。
「――来る」
ヴァネッサが端的に告げた次の瞬間、轟音と共に飛来した柱が一瞬の内にメルトワームを砂漠に縫い止めた。
柱――先端の鋭利な突起を見るに“針”というべきか――は矢を超える速度で撃ち込まれ、魔物が暴れても抜けださせないほどに深々と突き刺さっている。
僅かに紫電を纏っているように見えたのは気のせいだろうか。
「敵襲!? イリス、索敵を――」
「待って、クルス。“彼”は近付かなければ大丈夫」
「彼? 教官は何を……あ」
クルスの問いの答えはすぐに出た。
胴体をくねらせて拘束を抜けようとする蛇に突如として影が差した。
――山が動いたのだ。
それは山ではなかった。信じられないほど巨大な蠍の魔物であった。
あまりに大き過ぎる為に動き出すまで誰も魔物だとは分からなかっただけで、初めからその場にいたのだ。
おそらく全長はかつてクルス達が相対した“大喰い”に迫る。
断じて、陸上に存在していい大きさの存在ではない。
魔物でなければ一日と経たずに砂漠中の生物を喰い尽していただろう。
大蠍はゆっくりと、大きさを考えれば一歩で数十メートルを動いているのだろうが、捕えたメルトワームの前に進み出る。
整然と走る四対の脚の一本一本が人間の身長を超えているが、それでも巨体に比すれば華奢な印象すら受ける。
先程の針はこの大蠍が尾から撃ち出した物だったのだのだろう。
黒鉄の如き甲殻に全身を包み、刃渡りだけで五十メートルを超える一対の鋏と弧を描く尾を具えた姿は、地に磔られた蛇にこの大砂漠の支配者が誰であるのかを雄弁に語っている。
「――“熱砂の四刃”。
この地の民に聖獣として敬われている精霊級の魔物」
大蠍は一切の躊躇なく鋏を振り下ろし、メルトワームを切り裂いていく。
否、鋏の大きさからしてその行為はすり潰しているというべきか。
肉厚の刃がワームの全身を血の一滴まで潰し、その内から零れ出た魔力結晶すらも砕いていく。
「あそこは彼の聖域、どんなことがあってもあの柱の内側に入っては駄目」
「入った途端にあのぶっとい針で撃ち抜かれるんですね」
ヴァネッサの警告に軽口を返しつつもイリスの顔に笑みはない。
少女の千里眼は先程の大蠍の狙撃をギリギリで捉えていた。
自分の爪先ほどの大きさしかない魔物の胴体中央を正確に狙う手管。その上、おそらくは千切れて地中に逃がさないよう絶妙な手加減も施している。
見ただけでも察せられる。
精霊級、つまりは古代種と同等とされる力は伊達ではない。
(それでも、戦うなら遠距離からの方がまだ勝機があるかしら?)
四刃の由来であろう双鋏は厄介だ。可動域からして真後ろ以外には届く。
あの桁外れの大きさで振り回されれば直撃せずとも風圧だけで人間など木端のように吹き飛ばされるだろう。
近接戦は自殺に等しい。
(他にも何か持っているかな? 古代種と同等っていうなら有り得そうな話ね)
できれば、やり合う日が来ないようにとイリスは祈った。
暫くすると大蠍は元いた場所に後退し、全身を畳むようにして黒山へと戻っていった。
「彼のお陰でこのあたりは魔物が少ない」
「たしかに、彼の領域を避けられるだけの知能を持つ魔物はごく一握りでしょう。ですが……」
「魔物が魔物を襲うのはおかしい?」
言い淀んだクルスの後をヴァネッサが言い当てる。
魔物とは人類の敵対者である。彼らの敵は人類であり、魔物ではない。
クルス達の常識では、魔物同士で争うなど有り得ないことである。
「観察した限り、彼は三千年以上生きていると思われる。だから、おとなしい」
「たしかにあの大蠍からは落ち着いた気配を感じますが……逆に言うと、近年になって発生した魔物が狂暴の性を有しているということですか?」
「そう考えた方が自然」
ソフィアの困惑を教官は肯定する。
各地に残る伝承を比較、考察した結果、ヴァネッサはそう結論付けたのだ。
「転機は千二百年前、暗黒地帯が出来てから魔物は狂暴になった。
だから、原因も自ずと推測できる」
「……魔神」
その名を呟いたのは誰だったのか。
“心臓”を生贄とする呪術、それを司る外神、そして、己の“核”を魔力結晶とする魔物。
それらを繋ぐ線が、今、はっきりと見えた気がした。