12話:涙
ソフィア・F・ヴェルジオンには魔力が視える、心が読める。
それ故に他者の心がわからない。
その苦悩は少女の人生の影であり、呪いであった。
隔絶した感応力を持つソフィアは生まれつき他者から流入してくる情報量の多さで心が擦り切れていた。
生まれつき、である。
赤子の時点でソフィアの中には他者の認識があり、その影響を受けていた。
幼き少女は本能的に己が成り果てる“何か”から逃れようとさらなる“心の動き”を求めた。
求道の結果、心の動きと相手の表情を視て対応する感情を推察できるようになった。
その推察を元に心を読めば、どのような笑みが相手の心を震わせるのか分かった。だから、そうした。
そんなことをひと月も続けていると、自分がどうやって笑っていたのか分からなくなった。
自身の感情すらも単なる動きとして理解してしまったのだと気付いたのはずっと後、手遅れになってからであった。
暫くして読心の存在が判明すると、今度は誰からも恐怖されるようになった。
数少ない例外として、父親のイオシフは恐怖を乗り越えて彼女を愛していたが、その裏には妻を喪った――ソフィアの視点で見れば、彼女が奪ったに等しい亡き妻への深い悲しみがあった。
幼く、未発達ながら、その底なし沼のような感情の大波に心が張り裂けそうだった。
それでも、イオシフはソフィアの身を案じて離れに隔離していた。状況を考えれば他に手はなかっただろう。
だが、既に手遅れであった。
その頃には既に、ソフィアは人間に対する恐怖で身動きが取れなくなっていた。
恐怖は心を根元から震わせる根源的な感情である。
巨大な震動はソフィアの感受性を常に揺らし続けた。
そうして、少女は恐怖を学習した。
これが恐怖なのだと、自分が人間に抱いているこの大きな感情の揺れが“恐怖”なのだと理解した。
あるいはそれは誤解であったのかもしれないが、その間違いを訂正できる者はいなかった。
なぜなら、ソフィアがまだ自分の気持ちを正確に言葉にすることが出来なかったからだ。
――少女はその時、まだ三歳であった。
離れに隔離されてから十数年が経った。
自己というものを認識できるようになって、ソフィアは遂に己に対しても恐怖するようになった。
いつからだろうか。
自分を気にかけてくれる兄に対する親愛の情が薄れていたのだ。
恐怖に恐怖した自分が顔を合わせることすら避けるようになって尚、妹の心身を守らんと奮起するたった一人の兄への、大事な感情だった筈なのに。
さらに森で出会った少女に対する感情も薄れてきていた。
大切な、他の誰にも代えられない存在だった筈なのだ。
自分の為に筆頭従者にまで登りつめた大きな愛と忠をその少女は抱いていた。
少女の孤独をソフィアが癒したように、ソフィアの孤独を少女は癒そうとしてくれた。
事実、壊れかけていたソフィアの心は少女の奮闘によってギリギリの所でカタチを保っていた。
だが、イリスと名乗ることを決めたその少女に対する感謝と友情も少しずつ薄れてきていた。
至極、当然であろう。
究極的には、怒りも悲しみも――あるいは愛も、心が動くことでしかない。
怒りに心を震わせても、悲しみに心を濡らしても、誰かを愛しても、魂の視点で見れば“感動”という同一の事象だ。
ソフィアにとっては憎悪も愛情も相手の為に心が動いたという事象に過ぎない。
同じ動きでしかない感情を一体どのようにして区別しろというのか。
少しずつ色あせていく世界の中で、ソフィアはいずれ自分が“ただ観測するだけの存在”――幼い頃に恐れていた、己が成り果てる“何か”とはこれだったのだ――になることを理解し、恐怖し、震えた。
二人に抱いているこの感情を喪いたくなかった。
他者を理解し、言葉を交わし、愛を育む存在になりたかった。
だから、一縷の望みをかけて、従者の差し出す手を取って外界へ出て、学園の門を叩いた。
そして、彼に出会った。
自分とよく似たヒトのようなモノ。
全てを捨てたが故に、全てと共に在る“何か”。
――カイ・イズルハ
端的に言って、ソフィアはその人を変人だと思った。
初対面の相手に心の全てを明かしてしまう不思議な人だった。
だが、その心の裡に触れた時、その認識は驚きに変わった。
自分と同じように人間のフリをしているのに、その魂には確かな形があった。
擦り切れた心の中にある、刃のような、翼のような、鋼の魂。
心が、震えた。
恐怖ではない何か――もっと大きくて暖かな心の動き。
ソフィアは生まれて初めて心の底から感動した。
そして、理解した。
みえるものだけが全てではない。
魂を形成するもの。
視えず、聞こえず、触れられぬソレこそが、人の証であると。
その時、アリーナに零れた一滴の涙の意味を誰が知ろう。
ソフィアという存在はその時はじめて“人間”となったのだ。
その後、心の音を断ち、普通の音を聞かせてくれた時、ソフィアははっきりと自覚した――今度は自分がそれを示す番だ、と。
本当はもっと時間が欲しかった。
ようやく人並の感情を手に入れたばかりなのだ。愛とか恋とかがわかるようになってきたのだ。
――やっと、やっと心から笑えるようになったのだ。
でも、もう時間がない。
この身が封印となり、彼岸の世界に消えてしまう前に伝えなければならない。未練を残して逝くことはできない。
だから、今は信じるのだ。きっと自分にもある筈だと。
この心が本物ならば、きっと――――
◇
一心に想いを謳う恋歌が空へと響く。
素朴で、純真なその歌に背を押されるようにして、ソフィアはカイの前に立った。
男は無言のまま、少しだけ困った表情で少女の言葉を待っている。
手を伸ばせば届く距離。しかし、それはできない。
今だけは、きちんと真正面から向き合わねばならないのだ。
緊張に震える指を握りしめ、ソフィアは言葉を紡いだ。
「ローザ様は仰られました。わたしは魔神を封印する為の礎なのだそうです」
「……そうか」
多少の沈黙の後、カイは静かに頷いた。予想はしていたのか、表情に驚きはない。
ソフィアも気付かれているだろうと思っていた。
元より、隠しごとは下手なのだ。
「魔神はもうすぐ復活します。戦乱の導が復活させます」
「だろうな」
「たぶん、わたしはずっと前からその可能性を識っていました」
何度となく視た原初の海とそこに沈む魔神の夢。
あれはただの悪夢ではない。今ならわかる。ソフィアの魂は己が封印となる可能性に気付いていたのだ。
故に、無意識の内に、魔神と相対する為の覚悟を根付かせようとしていたのだ。
自分はそれから逃げていた。だが、もう逃げられない。
自分が選ばれる未来が確定しているのだ。
今ではもう、ソフィア自身の予感もその事実を捉えている。
「だから――わたしは、遠くない未来に、この世から消えます」
「…………そう、か」
予想していても信じたくなかったこともあるだろう。
悼むようにカイは視線を落とした。
「カイ、わたしをみてください」
思わず、ソフィアは胸に手を当て言い募っていた。
魔神を封印する為に死ねと云うのならば、死のう。ソフィアは覚悟した。
元より、多くの人に助けられて生きてきた身だ。
その恩を返せるならこの命を使うことに否やはない。
「教えてください。いずれ喪われるわたしですが、貴方にとってはただの命のひとつですか?」
だが、ただひとつ、たったひとつだけ、未練がある。
他の全ては諦めよう。何もかもを捨ててみせよう。だから――
「他の誰とも変わらない、斬ろうと思えば斬れる命ですか?」
「……」
「こたえては、くれませんか? でしたら――」
神さま、ほんの少しだけ勇気をください。
「――――わたしを、斬ってください」
少女には、こうする以外に愛を証明する方法を思いつかなかった。
仲間を斬る相討ちの剣。
それは男の根幹に刻みこまれたもうひとつの呪いだ。
大事に想っている。共に居て欲しい。その感情は偽りなく本物だ。
――だが、斬れる
怒りも、憎しみも、慈悲も、愛情も、すべては一刀に帰結する。
親しい人が増える度に男の心は覚悟を試される。刃を研ぎ澄ます。
“その時”が来たのなら、誰をも殺す。
例外はなく、必斬の意志で斬り捨てる。
それは人間の生き方ではない、剣の生き方だ。
ソフィアにその生き方を否定するつもりはない。それこそがカイ・イズルハという男の人生なのだ。
歯を食いしばり、幾つもの死線を乗り越えてきた誇るべき生き様なのだ。誰が否定できようか。
だが、悲しきかな、人間の心は無疵ではいられない。
刃金となってもいつかは破綻する。
その時、きっとカイの中には何も残らない。
躯は砕け、心は擦り切れ、あるいは、命すらも喪われているかもしれない。
――そうはさせない。
そんな終わりは認めない。
自分がいなくなった後もこの人に生きていて欲しいから。
だから、たったひとつを残すのだ。
ソフィアは既に決意している。もう後には退けない。
「ソフィア、何を――」
「あなたの剣は、あなたが思う以上に多くのことを識っています」
一年前にギルドを結成してから、カイは少しずつ変わっていった。
無機質だった目が時を経るにつれ優しくなった。
触れることすら恐れていた他者を思いやるようになった。
傷だらけの心も多少は癒えて、軽口を言い合えるようになった。
なにより、笑うようになった。
誰かの為にしか笑わなかった男が、やっと心のままに笑えるようになったのだ。
不器用なあの笑みを、その心の灯を消させてはならない。
「本気か? ……いや、本気だろうな」
「はい」
「抜けば、止められんぞ」
「いった筈です。あなたが思う以上に、と」
そして、ソフィアは口づけを待つように、そっと瞼を下ろした。
こうすることで何かを示してみせると言うのなら、カイが拒むことはできない。
覚悟の程を感じ取って、男の目から動揺が消える。
静かに腰の一刀に手を掛ける。
相手が誰であろうと、その刃金は命を区別しない。
そうして、一片の躊躇もなく、一刃の閃光が迸った。
「……………………え?」
数瞬の後、沈黙を破ったのは男の声であった。
見れば、振り抜いた筈の刃が少女の首元寸前でぴたりと止まっていた。
本人ですら止めるつもりのなかった剣が、止まっていた。
まるで、この少女を斬る必要はないと言っているかのように。
「――なにをも斬れることと、斬ってしまうことは違います。
だから、だいじょうぶ。あなたはきっとわかっている。
何もかもを斬ってしまうことなんて、ない」
「お前は……気付いていたのか」
「ごめんなさい。無理をさせてしまいましたね」
ソフィアは目を開け、少しだけ照れたように微笑んだ。
「ですが、これでやっと約束を果たせました」
『――でも、それは悲しすぎるから。
だから、わたしは、あなたが斬らなくてもいい人になります』
カイは知らず息を呑んだ。そうだ。忘れてなどいない。
あのうつくしい夕焼けの中で、ソフィアは確かにそう言った。
「あの時からずっと、わたしはこの一瞬の為に生きていました。
それが、わたしの中に残った最後の未練」
「――――」
いつも隣で微笑んでいた少女が裡に秘めていた想いに、カイは稲妻に打たれたように心が痺れた。
あまりの衝撃に呼吸の仕方すら忘れてしまったよう。
この一瞬に、ソフィアはどれ程の覚悟で臨んだのだろうか。
「――あなたを愛しています」
そして、それがトドメだった。
致命の一言が男の心の鎧を貫いた。
知らず、その手から刀が滑り落ちる。
「……このままいけば、俺はいつかお前を認識できなくなる」
気付けば、男は内心を吐露していた。
「味覚は喪われた。イリスの料理がどんな味だったのか、もう思い出せない。
次は耳か。この美しい歌もいつかは認識できなくなるのか。
それとも目か。仲間の姿も、お前の姿も、斬れるかどうかでしか視れなくなるのか!?」
その先にあるのは何か。
知っている。全てを捨てて成り果てた先にあるモノをカイは知っている。
――禁呪、不死不知火
男の心臓にかけられた呪い。
ニグレド・ダルグロスによって掛けられた人間を殺し尽す狂戦士の呪い。
「呪いは発動すれば目につく者を見境なく殺し尽くす。
感じるのだ。俺は生きながらにそうなりつつある」
呪術との親和性の高さ。
おそらくはそれがカイが呪術を抑えることに成功した要因のひとつだ。
強さでも、弱さでもなく、狂い方という点でカイは呪いと近しい位置にいるのだ。
「だから、大切だから、俺は――」
続きはやわらかな唇の感触に塞がれた。
まったく予想外の不意打ちに男の瞳孔が見開かれる。
唇ごと男の言葉を封じたソフィアは、頬を真っ赤に上気させ、代わりとばかりに言葉を紡いだ。
「返事を聞かせてください、カイ。
緊張しすぎてもう倒れてしまいそうなんです」
「大切に決まっているだろう!!」
「聞こえません」
「ソフィア!!」
「ちゃんと、言葉にしてください」
心が読めても、それは伝わらない。ひどくあやふやなものなのだ。
言葉にしないと、この世界に放たれないと像を結ばないのだ。
「――――愛している、ソフィア」
「愛している。愛している。大事だ。失いたくない。共にいてほしい――」
男が最後まで言い切るのを待てず、少女はその腕の中に飛び込んだ。
「やっと、言ってくれましたね」
抱き合うまま、少女は涙を流しながら晴れやかに笑った。
そのうつくしさに男は目を奪われた。
涼やかな感動が、心の一番深い所を吹き抜けていく。
出会いから今に至るまでの共に過ごした時間が脳裡を駆け抜ける。
――そうか、これが愛か。
空を見上げる男の頬を一筋の涙が伝う。
刃金は涙を流さない。それは人の涙だった。
そして、それは正しく救いでもあった。
小さな、どこにでもあるような、だからこそ尊い幸福だった。
◇
どれだけの間、抱き合っていただろうか。
気付けば、恋歌の残響も止んで、薄暮の空には一番星が瞬いていた。
「これで未練がなくなりました」
少しずつ星の増えていく空を見上げながら、ソフィアはぽつりと呟いた。
「あとは、魔神を封印するだけです。
自分がそうだと自覚してから、なんとなくやり方がわかってきたんですよ?」
結局、告白するのに精一杯で、逃げようとも、一緒に死んでくれとも言えなかった。
ソフィアは心中でこっそりと苦笑を深くした。
当然だ。この人に生きて欲しいから、自分は封印になるのだ。
兄のように皆の為に生きることはできなかった。
ソフィアの愛はただひとりの為に在る。それを確かめることができた。
「――こんなわたしでも、あなたを好きでいて、いいですか?」
「大丈夫だ」
それは少女の口癖だ。
大丈夫。未来が辛くても、悲しくても、きっと大丈夫だと。
そう念じなければ恐怖で息をすることさえできなかった幼い少女の祈りだ。
無骨な手がソフィアの頬にそっと触れる。
何よりもうつくしい蒼海の瞳を真っ直ぐにみつめる。
愛していると云うならば、その悲壮な決意を座して見送る訳にはいかない。
今こそ、その祈りに応える時だ。
「お前が封印になるとき、俺はもう死んでいる」
「カイッ!?」
「勘違いするな。俺の方が足が速い。だから、お前が封印になる前に魔神を斬る」
魔神に挑み、負ければ生きては帰れないだろう。
単純な話だ。カイが勝てば皆生き残る。カイが死ねばソフィアが封印になる。
「どちらにしろ一緒にいられる。お前を独りにはしない」
ようやく気付いた。男の心中の迷いが晴れる。視界が開けていく。
この身に宿る全て、全て差し出そう。
この少女が生きる未来の為なら、いくらでも強くなってみせる。
「…………もう。これでも色々と覚悟してきたんですよ」
驚きに目を瞠っていたソフィアは、笑みと共にもう一度涙を流した。
あるいは、カイの隣で眠った時に魔神の夢を視ないのは――魔神が恐くなくなるのは、この強さの為だったのかもしれない。
「ほんとうに、あなたはしょうがないひとですね」
「今更だ。今度ばかりは相討ちにはならない」
男は万感の想いを込めて、今こそ立ち上がった。
「――俺達は、勝つ」
英霊で終わってはならない。
ガイウス、テスラ、二人と同じ域でも駄目だ。
目指すは、その先――神を斬る者、すなわち“神殺し”
その日、カイ・イズルハは己の生まれた意味を定めた。