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刃金の翼  作者: 山彦八里
四章:天の風
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11話:迷い

 凛と控えめなベルの音とともに赤国帝都の酒場のひとつ、ビフレストの扉が開かれる。

 この酒場をひとりで切り盛りするマスターは入店してきた客を見遣り、露骨に顔を顰めた。

 常連のギルド“アルカンシェル”のクルスとイリスが緑髪の子供を引き連れていたからだ。


「おい、ここは酒場だぞ。依頼でもないのに子供は勘弁して……その子はエルフか? それにしては雰囲気が妙だが」

「妖精のシオンです。最近は出歩ける時間も長くなったので顔見せに」


 クルスは僅かな苦笑と共にそう告げた。

 普通の人にはエルフの子供にしかみえないのだが、元冒険者であるからかマスターは違和感を覚えたようだ。

 事実、感応力を通して視ればシオンの肉体が魔力で編まれたものだとわかるだろう。


「人型の妖精……まあいい、何か飲むか?」

「俺とイリスにはワインを、シオンにはざくろの果実水をお願いします。いいか、シオン?」


 初めて入った酒場が物珍しいのか、きょろきょろと見回していたシオンはクルスの問いに慌てたようにこくこくと頷いた。

 最近は食事の楽しみも理解できるようになり、妖精の情緒は著しい発達を見せていた。

 一行が奥まったテーブルのひとつを囲むと、マスターは無言でそれぞれの前にグラスを置いた。

 シオンは早速グラスに口を付け、初めて感じる果汁の甘さに目を白黒させている。

 珍しく店内には他に客もおらず、外の喧騒が微かの振動のように各人の耳に木霊している。


虹の架け橋(ビフレスト)、か。マスター、何故この店名にしたのか訊いてもいいでしょうか?」


 一息でグラスを煽ったクルスがふと思いついたようにマスターに問うた。


「大した理由はない」


 グラスを磨いていたマスターの視線がつと店の奥に向く。

 つられるように三人も視線を向け、奏者のいないピアノを視界に納めた。


「妻と初めて会った時に空に架かっていたんだ。

 海とパルナースの港を繋ぐような大きな虹が」


 その時に感じた想いを忘れたくなかったから、店名はこれしか考えられなかった。

 傍から見れば大した理由ではないのだろうが、男にとっては唯一つの理由である。


「細君とは青国で出会われたのですか?」

「ああ、依頼でな。冒険者としての最後の仕事だった」

「最後?」


 クルスは視線を戻してマスターの体を観察した。

 服の上から見る限り、細かな傷痕こそあるものの後遺症の類は見られない。引退する程の年齢にも見えない。

 不躾な視線にもマスターは表情を変えず、ひとつ小さなため息を吐いた。


「俺は守るべき者を残して戦いに赴くことはできなかった。それだけだ。お前たちの参考にはならん」


 それ以上は何も言わず、マスターは三人のグラスを注ぎ足して厨房に戻っていった。


「……見抜かれてるわね、色々」

「おまけに気も遣われてしまったな」


 二人はグラスを持ち上げたきり、口をつけることなく揺らしていた。

 硝子の杯の中で、血の色に似た小波が寄せては返している。


 古代種の気配が消えてから暫くしてカイとソフィアは戻って来た。

 一行が安堵する中、カイはそのまま施療院に連れ戻されたが数日で退院した。元々、治療はほぼ終わっていたからだ。

 そうして、アルカンシェルは無事に活動を再開し、古代種との戦いに備える――筈であった。


 問題は、復帰第一戦ですぐに顕在化した。

 白国南部における討伐依頼。対象の魔物も一行からすれば雑魚とそう違いはない。

 実際、苦戦もしなかった。発見から殲滅まで数分とかからなかった。


 だが、クルス達は全員、言い知れぬやりにくさを肌で感じていた。

 動き自体は悪くなかった。

 予備の盾と鎧とはいえ、クルスの防御は魔獣級を相手にしても安定している。

 イリスとソフィアにも不調は見られなかった。

 そして、カイはもはや神懸かった動きを魅せた。

 完成した流儀“無間絶影”を手に、より速く、鋭く、精密に、相対する魔物の頸を刈り取っていった。

 ガイウスと、剣の師であるゲンハとの戦闘を経て、英雄から英霊へと至る何かを掴みかけているのだろう。

 侍の動きはもはや人間の範疇から外れかけていた。


 だが、其処に連携はなかった。


 防御から攻撃に移る呼吸が合わない。援護が僅かに遅れる。

 組み合わさった仲間という歯車に小さな、しかし、見逃せぬ齟齬がある。

 カイが速すぎる、というのは確かにある。だが、それとて慣れの問題だ。

 軍隊ならばまだしも四人程度の人数ならば、速い者は速く、遅い者は遅いなりの動きで連携がとれる筈なのだ。


「まあ、カイの問題じゃないわね」


 イリスは呟きグラスに唇を触れさせた。

 たしかに、カイは英霊になろうとして焦っているのだろう。その焦りを隠してさえいない。

 それに付随してイリス達には告げていない“悩み”も生まれているようなのは歯がゆい限りだが。

 しかし、その程度であの侍が戦闘に齟齬を生むなど有り得ない。

 むしろ、カイの能力は絶人の域に至っている。仲間の鼓動まで捉えているのではないかという冴えが連携という面で凶悪な効果を発揮している。


「……やはり、問題はソフィアか」


 クルスは重々しく呟いた。

 学長ローザ・B・ルベリアと面会してからこっち、パーティの攻撃の起点であるソフィアの呼吸が合っていない。

 ある意味で割り切りのいいカイはともかく、魔法を主武器とするソフィアは精神の小さな乱れも戦闘に直結する。

 特に、読心により強い感受性を有するソフィアは仲間の動揺を即座に感知して焦りを呼び込み、そのせいでさらに呼吸が合わなくなるという悪循環に陥っている。

 本人も不調に気付いているのか、帝都に着いた途端、自室に籠ってしまった。

 常なら悩みを聞きだし、話し合うところなのだが、今回はまずもって何を、どこまで訊くべきか迷う所である。


「カイはなんだかんだで自分で解決しそうだけど……ソフィアはねえ」


 結局は、学長に何を吹き込まれたのか訊くか訊かないか。それが問題だ。

 気軽に聞ける内容ではない。その程度の話なら、ソフィアが隠すこともない。


「ソフィアが俺やお前、カイにも相談できないことはそう多くない。おそらく俺達を巻き込む危険度の高い話か――」

「それを聞いたら私達がよっぽどの覚悟を(・ ・ ・)決めちゃう(・ ・ ・ ・ ・)話。

 ま、普通に考えて魔神に関する事でしょうね」

「……お前はソフィアの為に死ねるか?」

「え、当然でしょう?」


 何を今更、とイリスは一切迷うことなく告げた。

 少女は仲間の為ならいくらでも死地に飛びこめる。その上で、生き残る為に最後まで足掻ける。

 要は命の使い方だ。イリス・セルヴリムの愛は尽くす愛なのだ。


 そして、それはクルスにはできない生き方だ。


「俺はアイツの為に死んでやることはできない。この身は衆生の為に在る」


 一切の衒いもなく騎士は言い切った。

 誰をも守る。この手から誰も取り零さない。

 その誓いがあったからこそ、クルスはここまでこれた。英雄級の一端を名乗る域に届いた。

 だが、その誓い故に、クルスの命は決してたった一人の為には消費されない。

 騎士の背には既に多くの責任が載っているからだ。

 それは強き誓いを抱いて生きるが故の呪いであった。


「共に戦うことはできる。戦いの中で死ぬことも覚悟している。

 しかし、俺が死ぬのは皆の為だ。ソフィアだけの為ではない。それは誓いに反する」


 だから、俺ではソフィアの苦悩を取り除いてやることはできない、と騎士は暗に告げた。

 その相貌には拭いきれない苦渋が宿っている。

 己の矛盾に気付いているが故に、苦しんでいた。


 仮に、魔神の復活を阻止する為に死ねと言われたなら、クルスは承諾するだろう。

 己ひとりの命でこの大陸を救えるのなら安いものだと。

 だが、ソフィアを差し出せと言われたら――この大陸に生きる全ての人とソフィアを天秤にかけろと言われたら、クルスは答えを出せない。

 騎士にとって両者の重みは等価なのだ。等価でなければらないのだ。


「お前ならどうする、イリス?」

「ソフィアを連れて逃げるわ」


 今度もまたイリスは迷わなかった。顔色一つ変えずに言い切った。

 高貴なる生まれの義務、あるいは宿命、そんなもの知った事ではないと。

 究極的には、大陸に生きる全ての人の命よりもソフィアの命の方が重いのだと。


「まあ、実際の答えはソフィア次第ね。あの子がその為に死ぬって言うなら一緒に死ぬわ」

「そうか。ソフィア次第か」

「言っとくけど、逃げる時はアンタとカイも連れて行くからね。

 たとえ、アンタの誓いを穢すことになっても」

「……敵わないな」


 自信満々に言い切るイリスに苦笑を返して、クルスは体温でぬるくなったワインに口をつけた。

 微かな酸味と酒精の苦みが喉を滑り落ちる。先程までとは違い、きちんと味わう余裕があった。


「ところで、カイがどう答えるかはわかってるの?」

「決まっている。訊くまでもないことだ」

「ま、それもそうね」


 つられるようにイリスが苦笑したその時、突然、酒場の扉が勢い良く開かれた。

 見れば、淡い水色の髪を振り乱さんばかりに息を荒らげた美女――カーメル・クリスタルベルがいた。

 公演の後にそのままやって来たのか服装は露出度の高い踊り子の舞台衣装のままだ。

 カーメルはつかつかと靴音を鳴らして驚きに固まっているクルスの前に歩み寄ると、溜めるに溜めた鬱憤を爆発させんと口を開いた。


「帝都に来ているなら連絡くらい寄越しなさいよ、クルス!!

 というか、昼間から飲んだくれてる時間があるなら公演に来てくれてもいいじゃない!! アンタ達の歌のお披露目だったのよ!?」

「……あ」


 声量を存分に活かした大声を浴びせられて、クルスは思い出した。

 暗黒地帯への出立前に貰っていた手紙にまだ返事を書いていなかったのだ。

 そんなクルスの表情をみて何かを悟ったカーメルの眉がさらに吊り上がり、イリスはシオンを抱きかかえてそそくさと避難した。

 再度の爆発が起きる前に、クルスは先んじて口を開いた。


「申し訳ない!! 少々立て込んでいました」

「アンタの少々はアテにならないんだけど……みんな、無事なのね?」

「え、ええ。詳細は話せないのですが、皆無事です」

「……」


 無事という割には随分と意気消沈したクルスの様子に、カーメルは溜め息と共に肩の力を抜いた。

 怒りの気持ちも既にしぼんでしまっていた。


「なにかあったの?」

「いえ、その……」

「部外者には言えない話?」

「そこまでではないんですけど、仲間内で少々……」


 詳細を避けたクルスの言に、カーメルはああ、と納得の籠った溜め息を返した。


「たしかにアンタ達みんな抱え込みそうだものね。

 ……それなら公演に来る余裕なんてないわよね」

「カーメルさん……」


 寂しげな様子をみせるカーメルにかける言葉はクルスの中になかった。

 歌を聞きに来なさいと、それだけを武器に生きるカーメルにとっての最高の賛辞にクルスは返事を返さなかったのだ。

 怒りをぶつけられるのも、落胆されるのも仕方のないことだろう。


 だが、次の瞬間にはカーメルの顔には一転して力強い笑みが浮かんでいた。


「仕方ないわね、手を貸してあげる。

 といっても、あたしにできるのは歌うことだけだけどね」


 仕方ない、仕方ないと言いながらも歌姫の笑みは変わらない。

 クルスの為だけではない。アルカンシェルとの旅の記憶から紡いだ歌、その礼を自分はまだしていないのだ。

 それはカーメルの矜持だ。芸に生きる者は貰ってばかりではならない。

 恩には歌を、己の全てたる一芸で以て返すのだ。


「ですが、他の面子は此処には来ないと思いますよ?」

「帝都にはいるんでしょう? なら、届くわ(・ ・ ・)


 断言する歌姫とは対照的にクルスは絶句していた。

 どれだけ大声で歌おうとも大陸最大の都市全域に届かせることなどできない筈だ。

 そもそも歌が聞こえたからどうだというのだ。カーメルの歌は確かに素晴らしいがそれで何が変わる訳でも――。

 そこまで考えて、クルスはかぶりを振って思い浮かんだ言葉を打ち消した。

 答えの出せない自分に、行動を起こしたカーメルを非難する資格はない。

 むしろ、離れているからこそ純粋な歌声を――読心に苛まれることなく――ソフィアに伝えることが出来るのではないかと思えた。


「さて、伴奏どうしようかしら。タニアも鈴環も置いてきちゃったし、イリスに――」


 そのとき、カーメルはじっとエメラルドの瞳でピアノを見つめているシオンに気付いて、その小さな肩を叩いた。


「あなたがしてくれるのね、シオン」

「待ってください。マスター!! このピアノなんですが……」


 亡き妻との思い出の品に勝手に触れる訳にはいかないとクルスがマスターを呼ぶ。

 が、やって来た当の本人はシオンとカーメルを一瞥すると、無言でピアノの覆いを解いた。


「……好きにしろ。調律はしてある」


 それだけを告げて、マスターはカウンター横の椅子に――店内で一番ピアノの音が澄んで聞こえる特等席に腰かけた。

 ピアノとマスターを見比べて、シオンはやや困惑した面持ちでカーメルを見上げた。


「――シオンで、いいの?」

「もちろんよ。貴女には才能がある。それに可愛いわ。

 舞台に立つにはそれで十分。あとは精一杯やるだけよ」


 カーメルは有無を言わさずシオンを抱きかかえてピアノの前に座らせた。


「曲はこっちで合わせるから、心のままに弾きなさい。あなたならそれができる」

「――――」


 返事の代わりに、トーン、と伸びやかな単音が一度だけ響いた。


 そして、そこから次々と鍵盤が叩かれ、流れるように音が重ねられていく。

 小さな妖精は己の体を精一杯使って鍵盤の上で十指を躍らせる。

 テンポはやや早足だが技巧に凝った風ではなく、むしろ楽しげで素朴な印象を受ける。

 前奏で何の曲かを理解したカーメルは笑みとともに息を吸い込んだ。


<La――――――――――>


 拍子をとり、喉を震わせ、全身全霊で歌を紡ぐ。

 空気を、建物を、人を、震わせる歌を、どこまでも届けと高らかに歌い上げる。

 妖精(シオン)が何故、その曲を選んだのか、カーメルは知らない。

 ――水人(メロウ)に伝わる“恋の歌”。それは歌姫の得意とする楽曲のひとつだ。


「……この曲は」


 ぽつりと小さな呟きがマスターの口から漏れる。

 初めてとは思えないシオンの見事な演奏に見惚れていてクルスとイリスは気付かなかった。

 シオンを愕然とした眼差しで見つめているマスターに、気付かなかった。


 如何なる偶然か、その歌は彼の妻が最も得意とした歌だった。


 男は覚えている。

 音と共に生きるメロウには楽器が必要だろうと、奮発してピアノを置いた初めての日に嬉しそうに演奏していた彼女を。

 男は覚えている。

 メロウの少ない帝都では物珍しいからと客達にも好評で、何度も演奏をせがまれて恥ずかしそうに微笑んでいた彼女を。

 男は知らない。

 ピアノに宿った強い想い。それがシオンを通して音を奏でていることに。

 恋の歌、今はもういないひとりのメロウが夫に宛てた想いの全てがそこには籠められていた。


「……リフェルナ」


 涙は堪える。この曲に涙は似合わない。


 滲んだ視界の向こう、妖精の背後で妻が微笑んだ気がした。



 ◇



 ギルド連盟本部。

 帝都では帝城に次いで背の高い建物の屋根の上で、カイは静かに酒杯を傾けていた。

 男は酒を苦手としていた(・ ・)。意識と感覚が鈍るのがどうにも受け入れられなかったからだ。

 だが、その憂いも今日までだ。


 喉を滑り落ちるのは度の強いドワーフ製の火酒。

 酒精に強い彼ら鉄人ならともかく、ヒトであるカイにとっては喉と胃を焼き潰しかねない程の強い酒だ。

 それが、何の感触も寄越さない。

 嚥下しても味はなく、酒精は臓腑の中で一瞬の内に霧散し、あとには何も残らない。

 砂を流し込んでいるような不快な気分であった。


 おそらくはガイウスと戦った時からこうなっていたのだろう。

 その後にゲンハと戦ったことで感覚に、認識が追いついたのだ。


 つまりは味覚が喪われていた。正確には、戦闘に適する形に変容していた。

 舌は他の五感と連動、共鳴し、空気に混じる殺気を感知する為の器官となったのだ。

 今まで経験として察知していた殺気や気配といったものを明確に捉える事が出来るようになった。あるいは、この感覚はソフィアの読心に近い物なのかもしれない。

 ともあれ、コレは英霊への、ひいてはガイウスやテスラのいる領域への確かな一歩だ。彼らも通常の五感を失い、より高次の感覚へと変えている。

 二度と飲食を楽しめない代償としては悪くない取引であろう。

 ……イリスの料理を味わえなくなるのは少しだけ寂しかったが。


 知らず、頬に触れる。

 僅かに熱が残っているのは件のイリスに引っ叩かれた痕だ。

 何も言わず病室を抜けて、ボロボロになって帰って来たのだ。当然だろう。

 正直、その後に胸元で泣かれたことの方がずっと心が痛かったが。

 あの涙を二度と流させてはならない。


 決意と共に、酒杯を砕く。


 戦いと鍛錬の果てに、自分は剣の師(ゲンハ)に勝てる所まで来ていた。

 かつては機能の一部を封じてさえいたガーベラが、今ではカイの性能に追いつかなくなっているほどだ。

 そこには驚きよりも先に感慨があった。

 この一年、ひたすらに取り戻すことを考えていたが、それ以上を自分は受け取っていたのだ。

 仲間には感謝してもしきれないだろう。


 ならば、自分はどう返すべきか。


「……ガイウス、テスラ」


 英霊となり、あの二人を斬る。感情を排した思考がそう結論する。

 正直な所、今はもうガイウスに対する怒りや憎しみは形を保っていなかった。

 薄れた訳ではない。むしろ濃度は増している。昇華されたとでも言うべきだろうか。

 剣と技を盗まれたこと、到底許してはならない。

 誇りを取り戻さねばならない。それは絶対だ。


 けれども。

 本心は、カイの中の剣士としての(サガ)は、ガイウスに感謝していた。


 ジンが死んだ今となっては“無明”の完成形をみることは本来なかった筈なのだ。

 ミハエルに教えた無明もあくまでカイが知る形でしかない。いずれ、源流を離れ、違う流れを見出すだろう。


 もしもジン・イズルハが武神となったら。

 そんな有り得ない未来の一端をガイウスは体現しているのだ。

 違う形で出会っていれば、あるいはガイウスとは生涯の友になれたかもしれない。

 だが、それ故に、斬らねばならない。超えねばならない。


 カイは己の辿って来た半生が非凡な物であることを自覚している。

 だが、同時に、自分が歴史を変えるほどの『何か』ではないということも理解していた。

 それでも、刃金の先、英霊とならなければならない。でなければ、あの二人のいる場所には届かない。

 その為に己の“魂の名”、存在の確信にして核心をみつけねばならない。


 肉体は既に人極、技は己固有の流儀を見出した。

 ゲンハが独角の構えから無念無双を経て『独角剣鬼』に至ったように、自分も無間絶影の先に英霊たる確信がある筈なのだ。

 あとは気付くだけ。それだけで、この魂はきっと核心に届く。

 きっと、あともう少しで届くのだ。


 ――だが、その為に今度は何を捨てるつもりなのか。


 ふと、己が裡から滲みだした囁きにカイは動きを止めた。

 知らず、動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなる。制御を離れた心臓ががなり立てる。


 人は頂きに至る道の途上で多くの荷を捨てる。天才ではないカイはそうしなければ先に進めない。

 師は斬った。味覚は捨てた。

 なら、自分は次に何を斬るのか。何を斬り捨てるのか。

 視覚を捨てるのか、他の師を斬るのか、あるいは後輩を、それとも仲間を――。


 答えは出なかった。


 カイ・イズルハに生まれついての才能があったとすれば唯一つ、心の強さだ。

 齢五歳で己を剣と定め、気が狂う程の鍛錬を成し遂げる精神力が具わっていたことだ。

 その半生に苦悩と後悔はあっても迷いはなかった。鋼鉄の精神で以てただひたすらに前進し続けた。

 故に、カイは生まれて初めて心の底から迷っていた。

 今では、その身には捨てられない物ばかり残っている。


 この呪われた心臓が今は恨めしい。カイは道衣の胸元が握りしめた。

 呪術を抑える為に消費されている魔力や体力、鼓動の乱れ。それらがなければ、自分はもっと先へ至れる筈なのだ。

 奥歯を噛み締める。焦っているのはわかっている。それでも――


 そのとき、カイの耳に微かに歌が届いた。

 素朴に、純真に恋を謳う歌だ。

 帝都の全域に響くそれは空に近いこの場所にも届いたのだ。

 躯の奥底に溜まった澱を溶かすようなうつくしい歌声が心を震わせる。


 そして、歌に導かれるように金色の髪とローブを翻して少女が転移してきた。

 少女はいつもより少しだけ離れた位置にふわりと着地した。


「……ソフィア」


 今は会いたくなかった。あるいは、こんな時だからこそ会いたかったのか。

 カイには混沌と化した己の心がわからなかった。



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