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刃金の翼  作者: 山彦八里
四章:天の風
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幕間:夢と現

 ふと、気がつくと少女は蒼い海にいた。

 水平線の彼方まで続く輝ける蒼海、何者にも煩わされることのない静寂の世界。

 儚きその身は一片の蝶となり、大海原をはらりはらりと羽ばたいていく。


 この蒼い夢をみるのも何度目だっただろうか。

 目が覚めては忘却の彼方に封印されるため、観測者たる少女にも正確なところはわからない。


 少女は朧気な思考の中でこの海が夢であり、幻想であることを理解していた。

 現実の海は決して蒼くはない。

 太陽の光を受けて青く見えるだけだったと、実際にその目で見て知ったのだ。

 この幻想の海はそれ自体が淡く蒼い光を放っている。水ではない何かによって構成された海なのだ。

 たおやかな輝きは見ているだけで吸い込まれそうな気分にさせる。その流れにこの身をすべて委ねてしまいたくなる。

 この海が孕んでいる蒼色はそんな優しくも妖しい輝きだ。


 とはいえ、夢だからの一言で済ますには、この世界はあまりに真に迫りすぎている。

 きっと現実ではない。しかし、幻想として確たる像を結んでいる。

 少女の裡で記録された記憶の再生では有り得ない手触りが確かにある。


 では、此処はどこか。現実ではないこの幻想はどこにあるのか。

 その答えを少女は、ソフィアは既に得ている。


 ――ここは、死後の世界“原初の海”だ。


 今はまだ時にあらず。全ては凍れる封印の中に。

 今はまだ選ばれていない少女の意識は接続を断たれる。


 そして、答えは覚醒と共に再び喪われる。



 ◇



 意識が浮上する。剥き身の魂が躯に納められる。不自由な肉の重みを思い出す。

 そうして、ソフィアはゆっくりと瞼を開けた。

 数日ぶりに開かれた視界は僅かにぼやけている。

 窓から差し込む柔らかな陽光に照らされて、自分が病室に寝かされていることを理解する。


「ソフィア!!」


 己の名を呼ばれて少女の意識が一気に覚醒する。

 泣きだしそうな声が耳に届く。少しやつれたその身が抱きしめられる。


「目が覚めたのね。私がわかる? どこか痛いとこない?」

「だいじょうぶですよ、イリス」


 そう言ってソフィアは目の前の少女をそっと抱きしめ返す。

 海の色にも似たその蒼い瞳には涙が滲んでいた。

 泣きだすソフィアをみてイリスが慌てだした。

 だが、ソフィアはそれを制して、目尻の涙を拭いやわらかに微笑んだ。


「……よかった。イリス、わたしたちは一緒にいられるんですね」

「うん……うん!!」


 その言葉にイリスもまた涙の理由を理解した。

 己の声にも嗚咽が混じるのを自覚しながら、イリスはもう一度ソフィアを抱きしめた。

 自分はもうこの少女の従者ではない。しかし、仲間で、家族であることには変わりない。

 それが、涙があふれるほど嬉しかった。


「ありがとう、ソフィア。貴女がこの世界にいてくれて良かった」




 一方、病室の外ではクルスとカイが並んで所在なさげに突っ立っていた。

 ちらちらと病室の扉に目をやるクルスに対し、カイは壁に背を預けたまま目を閉じている。

 正午も既に過ぎており、勤務を再開したクレリックが不審げな視線で二人を見遣りつつ廊下を走り去っていく。


「入らなくてていいのか、カイ?」

「……そちらこそ」


 対照的な仕草の二人だが、心情的には同じなのだろう。

 病室の外まで聞こえたイリスの声のおかげでソフィアが目覚めたのはわかっている。

 すぐにでも顔を見たい。抱きしめたい。

 今更気を遣うような仲でもない。それでも――


「今はイリスとふたりきりにさせた方がいいのではないか、と思う」

「……そうだな」


 言葉にされたことでクルスも己の感情に決着を付けたのか、落ち着きを取り戻した。

 騎士は大きく安堵の息を吐く。妹が目覚めぬことに気を揉んでいてこの数日は雑務もろくに手に付かなかったのだ。


 傷が治っても目覚めぬ妹の姿に、クルスは大きな不安を抱いていた。

 魔術士にとって肉体は魔法を行使する為の媒体――率直に言って杖の一部と言える。

 そして、本来人間にない機能を使う為には何かを削らなければならない。

 ソフィアが今日まで臥せっていたのも元の体が弱かったからというだけではないのだろう。

 騎士や戦士が強くなるほどに頑強になるのに対し、魔術士は何かを削っていく。

 脆弱になる訳ではない。だが、ふとした時に帰って来なくなるような、そんな不安が残るのだ。


「ソフィアは変わったな」


 だからといって妹に戦うな、とはクルスは言えなかった。

 それは冒険者として戦う道を選んだソフィアの覚悟を穢す行為だからだ。

 学園に来た当初のように、外の世界に出る為にこの道を選んだ希薄な存在はもういない。

 ここにいるのは己の道を己で定めた確固たるひとりの人間なのだ。

 クルスが全てを守る道を譲れぬように、ソフィアも譲れぬ道を定めたのだ。


「本当に変わった。もう俺が保護者面をするのが憚られるくらいだ」

「……」

「お前のお陰だ、カイ」


 その独白に返す言葉が浮かばず、沈黙するカイにクルスが真っ直ぐに目を合わせる。

 妹とよく似た蒼の瞳。強い光を秘めたそれがカイを見据える。


「初めて会った時、お前がソフィアの全てを……読心も含めて全てを受け入れた時、ソフィアは変わった」


 ソフィアが己の道を定めたのはあの時だろう。クルスは漠然とそう理解していていた。

 自分でもイリスでもなかった。家族でも、十年来の従者でもなかった。

 それが少し寂しくもあり、それ以上に嬉しかった。

 ソフィアを外に連れ出したことは決して間違いでなかったのだと思えたからだ。


「あの瞬間に、あいつはきっと居場所を見つけたんだ」


 実家の離れに隔離されていた時とは違う。

 だからこそ、自分に居場所が必要であったのと同じように、イリスの為に居場所(ギルド)が必要であることもわかったのだろう。


「買い被り過ぎだ、クルス。俺はそんな上等なものではない」

「なら、そういうことにしておこう」


 予想された答えにクルスは笑みを浮かべてそれ以上の言及を避けた。

 表情の変わらないカイがしかし、照れていることが分かる程度の付き合いはあるのだ。



「……ソフィアの復調を確認したら、俺はネロの元へ向かおうと思う」


 暫しの間をおいて放たれたその言葉にクルスは笑みを消した。

 白国の精鋭部隊“十二使徒”の第一位ネロ・S・ブルーブラッド。

 生誕祭で実際に会ったクルスは彼が古代(アーキ)種であることを知っている。


「古代種の、“戦乱の導”について訊くのか?」

「そうだ。千年以上前に袂を別ったネロにどれだけの知識が残っているかは怪しいが、それでも奴が此方側で古代種について最も知っていることに変わりはない」

「一人で行くのか?」

「もう数日はソフィアも安静にしておくべきだ。必然、イリスも世話に残るだろう。従者でなくなったとしてもあいつはそういう奴だ。お前も雑事を片付けておけ」


 カイの端的な言葉には明らかな戦意と戦いの予感が滲んでいる。

 そこに込められた意味を騎士は余さず汲み取った。


「今、此方から攻め込むのは性急ではないか?」


 すなわち、戦乱の導へ襲撃しようとしているということ。

 クルスの危惧は当然のものだ。

 ソフィアはまだ目覚めたばかり、クルスも装備一式をドワーフの隠れ里に修理に出している。イリスにも心を整理する時間がまだ必要だろう。

 あるいは、もう暫しの時間があればクルスの切望している『秘匿技術』の指定解除も国に認められる可能性もある。己のもうひとつの可能性を有効に使うにはそれが必要なのだ。


「俺にもっと力があれば、ソフィアに深手を負わせることはなかった。古代種は決して容易い相手ではない」


 それは正面切って戦ったカイも理解している筈なのだ。

 しかし、侍はかぶりを振ってクルスの意見を退けた。


「ルベド・セルヴリムは明らかに俺達を狙っていた」


 その上、カイがネロの弟子であることも知られていた。

 戦乱の導にはアルカンシェルを狙う理由があるとみるべきであろう。


「……そうだな。そう考えるのが自然だ」

「だが、失敗した。俺が奴らなら次は複数で、もっと大規模な襲撃をかける。そうなってからでは手遅れだ」


 事ここに至って、クルスも得心がいった。

 既に戦いは始まっている。

 言外に告げたその一点こそカイが急く最大の理由であった。


「……わかった。後のことは任せておけ」

「頼む」


 そうしてカイが頷くと同時、病室の扉が勢いよく開かれた。

 つられるように向いた二人の視線の先には、目もとを赤く腫らした、しかし、これ以上ない笑顔のイリスがいた。


「二人ともいつまで突っ立ってる気なの? 早く入りなさいよ」

「……いいのか?」


 気遣わしげなクルスの問いに、イリスは答えとばかりに二人の腕を掴んだ。


「私はもう大丈夫だから」


 二人を引っ張り込む刹那、万感の思いを込めて呟かれた少女の一言にクルスとカイは小さく笑みを浮かべた。

 変わったものがあるように残ったものがある。

 その安堵と喜びを噛み締めて二人は目覚めたソフィアの元へと歩んでいった。



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