心の闇
目が覚めるとそこは白い世界だった。かすかにリノリウムの床にゴム底靴のこすれる音が響いている。そして首を横に向けるとそこには父親が椅子に腰掛けていた。
(ここは……)
腕にかすかな違和感を覚え、首を反対に向けて確認すると、そこにはシーツの脇からはみ出た腕と、そのひじに繋がる細いチューブが見えた。
(病院?)
とっさに今の状況が飲み込めない。突然途絶えた記憶にこれまでの過程がすぐさま掴めないのだ。しかし朝の作業をしている場面に思い至ると、ああ……そうか、と納得できた。
父親がシーツの擦れる音に気づいたのだろう、冬の空に似つかわしくない眩しい窓の外の景色から目を離し、こちらに顔を向けた。
「おお、目が覚めたか」
「……」
「心配するな、単なる過労みたいだ」
「ごめん……心配かけた?」
「なに、心配は今に始まったことじゃない。お前は昔から心配ばかりかけてきたからな」
「ごめん」
「いや、俺こそお前の将来を潰してしまったようなもんだからな、本当に悪いと思ってる」
父親のせいではない。無作為な悪意が僕らを襲っただけのことだ。でもそれを思うと僕はいつもやり場のない怒りで我を失いそうになる。
「親父のせいじゃないだろ」
僕はぶっきらぼうにそう言うと、顔をそむけて流れ込む点滴のしずくを眺めていた。
(なんで俺たちがこんな目に……)
握り締めたこぶしが微かに震える。もうあの生活には戻れないのだろうか? 決して裕福ではなかった。それでも小さな幸福を皆で喜びあいながら生活できた、あの近くて遠い過去。
「もうすぐ母さんが来る。俺はもう仕事だから行くぞ」
父親は道路工事の誘導員をやっている。割の良い夜の仕事をわざわざ選んでいた。
(親父だってこれから楽しみにしていた将来があったのにな)
本当なら今頃旬のブリなどを狙って嬉々として竿を振っていることだろう。それがいまや振り回しているのは赤い誘導灯だった。それを思うとやるせなさが胸に渦巻く。でもそれは家族全員がそれぞれに対して思っていたことだ。
その日、夕方になって迎えに来た母に連れられて病院をあとにした。会社からは年明けまで休養するようにとの通達があり、僕は一週間ほどの暇を持て余すこととなった。
その夜、僕は何気なく散歩をしていた。明かりを煌々と点けた家々を見ながら、かつては自分もその中にいたのだと悲しい郷愁に襲われる。その先の角を曲がると焼け落ちてシートが被せられた無残な家の跡があった。
そこに僕はしばし立ちすくんでいた。
(なんでこんな目に)
近所の噂では受験ノイローゼのようになって奇行が目立つ、とある家の息子の仕業ではないかと言われていた。もちろん証拠を掴めていないからだろう、警察も手をこまねいていた。
やり場のない怒りは道々灯る家々の明かりさえ憎憎しげに思えてくる。僕はその場を立ち去り、ある家へとその足を向けていた。
表札に掲げられた目的の名字を見つけると足を止める。乾いた風が強く吹き付ける夜だった。朝夕には児童で賑わう通学路に乾いた音を立てて一部の新聞がアスファルトを滑ってゆく。僕はそれをひったくり目の前の家を見上げた。放火したのではと噂される受験生が住んでいる家だ。
(こいつらも同じ目にあわせてやる!)
乾いた紙くずを握り締めると静かに門扉を開く。僕の心は悪意に満ちていた。
(ふざけんな、ぬくぬくと生活してんじゃねえよ)
猛る心とは裏腹に静かに歩を進め、裏庭へと入って行く。そこには物置があり、その周りには入りきらない雑多な家具や生活用具、廃品回収に出すつもりだろうか、新聞雑誌などが積み上げられていた。
家族の団欒の声が聞き漏れてくる。しかしそれは今の僕にとっては苦痛でしかないのだ。震える手でライターを取り出し親指を引きおろした。
暗闇が赤く照らし出され、それはあの日の地獄の光景を思い出させる。
揺らぐ炎、しかしそれを新聞に近づけると、とある文字が浮かび上がった。
『トウカイテイオー一年ぶりの出走!奇跡は起きるか?』
僕の目はその記事に釘付けになった。あの日のテイオーがカラー紙面に堂々と掲載されていたのだ。
──昨年の悪夢から一年。三度目の骨折を乗り越えここまで懸命の調整が行われてきた。秋の天皇賞、ジャパンカップを回避してまでここ一本に狙いを定めてきた陣営の雪辱に対する意欲は並々ならぬものを感じる。しかし現実的に考えるとここは奇跡でも起きない限り勝負にはならないだろう。なにしろ相手が悪い。菊花賞で見せたビワハヤヒデの強さは圧倒的でもはや国内に敵はいないと断言できる。さらにジャパンカップを制したレガシーワールドも順調な仕上がりを見せ、最強世代と謳われるウイニングチケット、ナリタタイシン。また近年の牝馬にしては突出した強さを見せたベガ、昨年の有馬記念覇者メジロパーマーも虎視眈々だ。これらの勢力を覆すだけでも相当な能力を要求されるうえにましてや一年の休養、ぶっつけ本番。状況は困難を通り越して絶望といわざるを得ない。
かなり辛らつな記事ではあった。しかし僕はその事実に感動していた。
(テイオー……お前はまだ諦めてなかったのか?)
ライターの火が消え、またもとの暗闇が辺りを支配する。
(僕は……)
僕はその新聞を四つ折りにして後ろポケットにしまいこんだ。
(情けない! 情けない! 情けないよ)
ふと我に返った僕は、自分の起こそうとしていた愚行をひどく恥じた。
(僕は情けない!)
静かにその場から足を遠のかせて家路につく。そしてその足は心なしかせわしげだった。今日は金曜日、このテイオーが出走する有馬記念は明後日に迫っている。僕はある決心を三度胸に湧き起こるのを抑えきれないでいた。
「あんた、どっか行くの?」
家に戻って簡単な身支度をする僕を母親が不審げに尋ねた。
「うん、ちょっと出かけてくる。月曜の朝には帰ってくるから」
「月曜って……あんた体は大丈夫なの?」
「うん、もう平気だから。心配しないで」
母親にしてみれば学生の頃から放浪癖がある僕に対してその行動に驚きはしなかっただろう。しかしこの時は少し事情が違った。体調ももちろん、無駄な金銭の浪費を嫌ったところもあると思う。
しかしその心配をよそに僕はその三十分後にはバイクのキーをひねってエンジンを掛けていた。
「大丈夫、心配しないで」
「気をつけなさいよ」
「うん」
母親にはもちろん今から有馬記念の行われる千葉県の中山競馬場に行くなどということは告げていない。もし告げたならば心底あきれるか眉根をしかめて激怒していただろう。
でも僕はいま光を求めていた。それはもしかしたらトウカイテイオーがもたらしてくれるのではないかと、淡い期待を抱いていたのだ。いや、もっと単純なことかもしれない。しかし、いずれにしても僕は今の衝動を抑えることが出来ないでいた。
お金もないから高速道路を使えるはずもない。ひたすた国道を走りぬかねばならない。
そして市内を抜けようとする頃、信号待ちをする交差点の左手に道路工事をしている現場があった。そこにはヘルメットを被り、誘導灯を振ってドライバーに頭を下げる初老の男の姿が見える。
僕にはその人物がひと目で自分の父親だと分かった。
白い息を吐きながら一心に車の動きを注視している父親。その姿はあまりにも哀れで、そして自分と重なった。
(頑張れよ)
口には出さなかったが、青になった信号に促されて僕はアクセルを開け、そしてひたすら東の空を目指した。