幻の思い出
「こんちはーっ、さくら急便です!」
オフィスビルの廊下を全力疾走したのち、目的のドアに飛び込む。僕はいま、運送会社に勤めていた。
父親の退職金をつぎ込んで建て直した家が燃えてしまった現在、頼れる収入もない父親はシルバー人材センターへ行き、母親は小さな背中をさらに丸くして再びパートへ出ることになった。
かろうじて残った財産は僕のバイクだけだった。
とにかく金が要る。安月給の旅行会社ではとてもやっていける訳はない。小さなころから目指していた職業だったが、諦めざるを得なかったのだ。
「あ、さくらさん、ちょっと待ってよ」
何束かの送付袋を受け取って駆け出そうとする僕を呼び止めたその男は、忘れていた配達物を慌てて用意し始める。
次の集荷先の営業時間が終わるまであと五分ほどだ。僕は時計を見ながら、また嫌味を言われそうだと憂鬱になった。
「ごめんな、ほい」
「いえいえ、とんでもない」
顔では笑っていても心は焦りに焦っている。伝票に判を素早く捺すと、階下まで再び全力疾走だ。
「遅せえよ、何してんだよ!」
トラックで待っていた正ドライバーは、僕が車内に飛び込むなり怒鳴りつけた。
「すいません、追加の荷物で引き留められちゃって……」
「あのデブおやじだろ、どうせ。もう間に合わねえぞ、言い訳考えとけよ」
正ドライバーは荒々しくトラックを発進させると、渋滞を縫うようにして次のビルへと向かった。
季節はもう十一月が終わろうとしている。一年前、楽しいばかりで東京競馬場へ行ったことが遠い過去の出来事のようだ。つい三ヶ月前の北海道でさえ、今となっては幻を見ていたのでは? と思えるほどだった。
「おい、ボケっとすんな。着いただろうが」
「あ、すいません!」
思いを馳せる暇すら見いだせない。歩道に飛び降りた僕は再びオフィスビルに駆け込んで行くのだった。
実家の近くにあるボロアパートの一階、1kの部屋に僕らは仮住まいしている。その夜は珍しく食卓にビールが出ていた。
「あれ、どうしたの?」
極めて苦しい経済状態のはずだから、僕はいぶかしんで聞いた。母親は茹で上がった大根とこんにゃくの煮物を皿によそいながら振り向いて言った。
「今日はあんたの誕生日でしょ」
「あっ……」
「まあ座れ」
自分も飲みたくてたまらなかったのだろう。父親は僕を席に促しながら、もうビールをつぎ初めていた。こんな光景もほんの一カ月前では当たり前だったのに、今ではこんな特別な日にしか見れなくなったのだ。
僕はそれが無性に悲しくて、少しだけ目を伏せた。それを見透かしたように父親がグラスを差し出してきた。
「頑張ってれば何とかなる。頑張れる良い機会と思えば楽しいやないか」
「そんな馬鹿な……」
「幸と不幸は気の持ちようだ」
ずっと工場でうだつが上がらなかった父親をいつも小馬鹿にしていた僕は、そんな人生観を持っていた事に少し驚き、そして少しだけ笑ってグラスを空けた。
翌日も朝早くから荷物が散乱する会社のターミナルを駆けすり回っていた。少しでも歩くと、監視している主任がマイクでがなり立てる。
元々体育会系ではなかった。日が昇ってトラックに乗って配達に出る頃には、いつもすでに疲れ果てた状態だった。
年末が近付くにつれて荷物の量は激増する。
(今日も遅くなりそうだな……)
ビル街の暮れゆく景色を眺めながら、疲れた体を意識した。いや、体だけではない。心も疲れ果てていた。
「ほい、ヨロシクー」
「はい、行ってきます!」
勢いよく飛び出した僕は、その時誰かに呼び止められた。振り向くとかつての同僚がそこにいた。
「おう……」
同期の男だ。とは言ってもいけ好かない奴だった。
「お前そんなコトしてんのか?」
(そんなコト……だと)
「寒くない?」
そう言うと半笑いの顔で会社のロゴ入りTシャツを一瞥した。かたや奴は小洒落た三つボタンのシックなスーツに身を包み、磨かれた靴に薄い革張りのアタッシュケースを提げている。それは紛れもなく、つい最近まで僕も装っていたスタイルだった。
悔しいとかそう言うんじゃない、僕は急に恥ずかしさがこみ上げてきた。そして
「じゃあな」
と告げると、逃げるようにしてその場を去った。
なぜそんな風に思えてしまう自分が情けないが、確かに僕はこの時恥ずかしかったのだ。
冬はさらに深まり、もうクリスマスが間近に迫っていた。年末のお歳暮の季節、忙しさはピークに達していた。
足腰は酷使され、息つく暇もない状況では自然考えることも忘れてしまう。今の僕には、一日のうちにトウカイテイオーの名前すら思い出すこともなくなっている。
(あれ?)
早朝の荷分け作業の最中、目の前のコンベアが突然ぐにゃりと曲がった。
いや、正確には視界が歪んだのだ。
危機感が頭をよぎったのはほんの一瞬でしかない。その後、僕は真っ暗な深淵に墜ちていった──