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僕らが失ったもの

 あれから二ヶ月あまりが過ぎた。競馬界と言えばクラシックレースの最後のレース、菊花賞を怪物としての頭角を現してきたビワハヤヒデが圧倒的な力を見せて奪冠。


 皐月賞、ダービーでナリタタイシン、ウイニングチケットに後塵を拝した屈辱に熨斗を付けて余りある雪辱。それは現三歳馬のみならず、古馬をも含めた現競走馬の頂点に立ったと思わせるに十分な圧勝劇だった。


 かたやトウカイテイオーは当初出走を予定していた天皇賞・秋を回避。万全の体制が未だ整わぬまま虚しく新王者の栄光を眺めていた。




「今日はちょっと遅くなるから」


 定年を迎えた両親とともに朝食を取りながら、今日の予定を告げた。


 僕は未だ両親とともに暮らしている。父親は定年を迎えたら思う存分魚釣りをするのだと常々話していた。それをようやく実現出来るようになって、今ようやく人生を謳歌していると言った風だ。


 それは良いのだが、競馬に行きたい僕を無理やり釣りに誘おうとするのは甚だ迷惑だった。


 一方の母親はと言えば、苦しい家計を支えるための長年のパートからこちらもようやく開放されて、親しいおばさん連中といそいそと小旅行に行くこと余念がない。


 もちろん僕に手配を押し付け、抜かりなく旅行代金を安くあげようとしている。まったくのんきなものだ。




 僕は親の小言を聞き流しながらそそくさと家を出た。



 その日は多忙を極めた。企画会議が長引いた上に客からのクレームが相次ぎ、その対応は深夜までに及んだ。


これほど働かされても人気業種だけに、給与は他業種に比べればことさら安い。


 帰りの終電にも乗り遅れたので、僕は会社の車を借り出して家路に着いていた。


 信号待ちの間にルームライトを点けて買い求めた競馬新聞を速読する。期待したテイオーの記事は、その日も載っていなかった。


(いつになったら出てくるのか……)


 ため息は深く不安しか浮かんでこない。ジャパンカップにも出走するかどうか? おそらく回避するだろう。


 後ろから響いたクラクションに急かされ、開いた新聞を助手席に投げ捨てた。


(うるせえなあ)


 覗き見たルームミラーに赤い明かりが見える。それは胸騒ぎを伴い点滅しながら近づいてきた。警察か……いや、どうやら消防車のようだ。けたたましくサイレンを鳴らしながら交差点に突入してきた。


(これはまた……)


 一台過ぎたすぐ後ろにさらに2台、3台と追い抜いてゆく消防車。どこが火事なのかと興味が湧いた僕は、その後ろをついて行く事にした。


 差し掛かる交差点で次々と他の消防車が合流してくる。どうやらその方向からすると家の方向らしい。


(結構近いんじゃないか?)


 それは更に興味を引いた。少し熱くなった手のひらでハンドルを切りながら消防車が右折した交差点をついて曲がる。もうそこからは夜空を照らす赤い光が見えていた。


(おいおい、こりゃ近いぞ!)


 近所で見知った顔が浮かぶ。その中の一人が不幸をこうむる可能性が高くなってきた──が



 僕にはそれが自分に降りかかってくるものだとは思いもしていなかった。「うそ……だろ……」


 その光景に僕は愕然とした。消防車と人だかりに囲まれた炎に包まれた家は、間違いなく僕の住み慣れた家だったのだ。


「親父! お袋!」


 車を飛び出すとその人垣に飛び込む。痛いほど心臓は動悸を激しくしていた。


「どいてくれ! どけっておい!」


 そんな馬鹿なことがあるわけない。こんなことがあるわけがない。そう信じたかった。そうあって欲しいと願った。しかし目の前にある現実は僕の逃避を許してはくれない。


(そんな馬鹿な……)


 僕はまず両親の安否で頭がいっぱいだった。ようやく野次馬を掻き分けると消火活動をしている消防員にくってかかる。


「危ないからさがって!」


「馬鹿野郎、俺ん家なんだよ! お袋と親父はどうした?」


「家の人?」


 横から出てきた責任者らしき消防員が声を掛けてきた。


「ご両親は無事だから。あっちにいる筈だから」


 その言葉でどれだけ心が落ち着いたかわからない。その指差す方向に目をやると、パジャマ姿で燃え盛る我が家を見守る両親の姿があった。


「お袋、親父」


 僕の声に振り向いた二人。お袋は悲痛な表情をさらに崩して涙を流し、親父は少しうなずいた後、口を真一文字に結んで再び視線を炎に戻した。


 僕は泣き崩れるお袋の肩を抱き抱えながら尋ねる。


「何があったんだ?」


「わからない……気づいたらもう火が……」


(放火か!)


 ここ最近、この地区で連続して放火事件が続いていたのだ。しかしそれがまさか自分に降りかかろうとは思っても見なかった。


 親父とお袋が長年築いてきた、苦労してローンを払い続けてきた家が一夜にして灰塵になろうとしている。


 親父は涙こそ流していなかった。しかしその無念は僕でさえ計り知れないものだろう。


 消防員らの怒号が飛び交う中、いつまでもあると信じて疑わなかった僕らの幸せはわずかな時間で灰となったのだ。




 警察や消防の現場検証が始まった翌朝。僕は自分の部屋があった場所に佇んでいた。


(なんでこんなことに)


 先の見えなくなった人生に落胆は大きかった。ふと足元を見るとそこには半分焼け落ちた競馬雑誌がある。拾い上げると焼け残ったテイオーの顔が大写しになっていた。


(テイオー……僕はどうすれば……)


 そこで初めて悔しさで涙がこぼれた。築いてきた財産も、思い出も、未来さえも僕らは失ってしまったのだ。



 火災の原因はほぼ放火だと断定されそうだ。しかし火災保険に入っていないこと、たとえ犯人が見つかったとしても賠償能力などないだろう。


 未来は絶望だった。


 唯一残ったもの。



 それは門の外に出してあった一台のバイクだけだった。

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