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夢の続き

 僕は疲れていた。夜通しバイクを押していたのだから無理もない。


 あの後、乾いたウエスを借りただけであっけないほど簡単にバイクの修理は終わり、今は建物の影に腰掛けてしばしの眠りについていた。



――目の前にテイオーがいる。凛々しく、そして優しさを秘めた目で僕をじっと見ていた。


 初めて女性の肌に触れた時以来だろう、こんなに戸惑うのは。


 僕は恐る恐る震える手を伸ばす。そしてテイオーは静かに佇み、近づく手を許した。


(テイオー……)


 そしてまさにその触れる瞬間、僕は夢から醒めた。目の前には地面を濡らした洗い場があり、そこにはすでにどの馬の姿も無かった。


 見上げた空はどこまでも高く、照りつける太陽はさながら夏を実感させるほど強かった。


「起きた?」


 通りかかった従業員の方が声を掛けてきた。この方には昨夜からのいきさつを話していた。それを聞いて同情してくれたのだろう。その後、何かと優遇してくれていたのだった。


「あ、もう大丈夫です。すいません、邪魔ですか?」


「いや、仕事がひと段落したからね、特別だけど……テイオーのとこに行くかい?」


「ええっ、良いんですか!」


「ホントに特別だからね」


 まだ呆けていた頭が一気に醒めた。まさかの言葉だ。


「ありがとうございます!」



 これは夢の続きなのだろうか?


「あんまり近づかないようにね」


 そう言われるまでもなく、人を寄せ付けないような威厳を漂わせてテイオーは目の前にいた。


 小さく仕切られた馬房の中でも、その存在感は僕を圧倒している。夢の続きは多分に緊張感を伴うものだった。


「大きいですね」


「はは、そうだね。テイオーはちょっと我が強いからね、なかなか人を近付けないんだ」


 しばらくそうして二人で眺めていたが、僕に対して警戒心が薄いと見たのか、噛みはしないが気をつけるように、との言葉を残し、従業員の方は僕一人を残して出て行った。


 いや、正確にはテイオーと二人だ……



(ホントに夢みたいだ)


 僕はこれまで感じたことがないほど幸せを感じていた。昨夜の悪夢から一転、こんな幸運が舞い降りようとは文字通り夢にも思わない。


 自信を持って言えるが、今このとき、僕は間違いなく日本で一番幸福なテイオーファンだろう。


 手を伸ばせば触れられる距離にテイオーがいる。あのジャパンカップで観客を熱狂させたテイオーが、だ。


 その二人きりというシチュエーションは特別な想いを募らせた。みんなのテイオーから僕だけのテイオーになったのだから。


 もちろんそんなものは勝手な妄想なのだが、その自己満足は僕を有頂天にさせるに十分すぎるものだった。


 静かな時間がとつとつと過ぎてゆく。馬房の奥で素っ気無い素振りを見せるテイオーだったが、時折こちらを窺う目線を投げかけてきた。


 その回数は徐々に頻繁になり、距離はだんだん縮まってゆく。


 じっとそのさまを見守っていた僕の目の前に、突然テイオーの鼻面が現れた。


 馬房から突き出された顔は僕を凝視し、その目は夢の中で見たような優しさをたたえていた。


(容れてくれるのか?)


 そう感じた僕は恐る恐る手を伸ばした。


 もし迂闊にテイオーを驚かして怪我でもさせてしまってはとんでもない事態になる。なにしろ何億と稼ぐスーパーホースなのだ。


 それだけに躊躇し、場内の方にも厳重に注意されていたのだが、テイオーの仕草はその心配を払拭させるものだった。


 上を向けた手のひらにテイオーは口をつけ、唇を軽く動かした。温かい息が吹き付けてくる。遠い存在のスーパーホースが現実に目の前に生きているという事実。あのオレンジの風景にテイオーの血のぬくもりと汗の匂い、荒い息遣いが加わり、それは現実味を帯びた映像となった。


 手に顔を押し付けてくる力は思いのほか強い。馬の持つパワーというものはこれほどのものかと関心した。そして僕はさらにテイオーの頬へと手を伸ばすと、その大きな膨らみにそっと触れた。


 テイオーに言葉が通じるものならば、僕はありったけの想いのたけと賛辞を君に送るだろう。でもそれは出来ないことだ。だから僕は掌を通して想いを伝えたい。


 短い毛の下に薄い皮膚の感触がある。そしてその中に流れる血液の温度が伝わってくる。


「熱い……」


 それはすごく熱かった。体温だけでなく、敗戦により猛りもがくプライドが静かにくすぶっているかのように。


 過ぎた時間が長すぎた。僕はもう立ち去らねばならないことに気付いていた。


「これからも頑張ってな」


 口に出せば軽い言葉だ。でも僕はその言葉に万感の想いを込めたつもりだった。


 そしてテイオーは『ブルッ!』と鼻を鳴らすと首を大きく縦に振り、僕はそれを見て笑った。




 場内の方々に深くお礼を述べた僕は、もう次の瞬間には帰路を急いでいた。


(ホントに頑張れよ)


 乾いたエンジン音はこだまする事無く青い空と広大な大地に吸い込まれて消えてゆく。そして僕の頭の中には、テイオーの優しい目がいつまでも焼き付いて離れないでいた。

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