金色の夜明け
水でふやけた足裏の皮が靴にすれて破けたのだろうか? 踵と足裏に擦り傷のような痛みが走る。
もうどれくらいの時間押し続けているのだろうか。ずいぶん長い時間押しているような気もするが、さほど時間が経っていないかのようにも思える。
雨を避けるためにかぶり続けていたヘルメットが息苦しさを助長させ、我慢が出来なくなってそれを脱いだ。夏でも冷たい雨が容赦なく髪の間に染み込み、そしてすぐに額から流れ落ちた。
歩き続けるわけを探して自分に言い聞かせながら歩く。
もちろんテイオーに会いに行くという理由付けのほかに、この先に今日泊まる予定にしていたキャンプ場もある。そこに行けばゆっくり眠れるはずなのだ。
そんな理由を重ねなければ到底歩き続けられるものではないだろう。
こんなとき、いい年をした男であろうと泣きたくなるものだ。何度も何度も後悔と決意が交錯する。それとともに考えもしなかった様々な不安までが頭に浮かんできた。
──もしかしたらテイオーはもう完治して、栗東のトレーニングセンターに帰っているかもしれない。
──テイオーだけに見学など許してくれないかもしれない。
そして
──僕は本当にテイオーに逢えるのだろうか?
次々と湧いては打ち消すマイナスイメージにさいなまれながら、それでも僕の足は時々休みを繰り返すものの止まることを許さなかった。何がここまで僕を追い立てているのだろうか?
頭に繰り返し流れるあの風景。今ではあれは幻だったように思えてくる。
そしてついに何も考えられなくなった。疲労は極限に達し、体力はすでに限界に達している。
それでも一歩、また一歩。僕は歩いてゆくのだった。
やがてふくらはぎが痙攣を起こしたころ、はっと意識が現実に戻った。
辺りをふいに見渡すといつの間にか雨が止んでいる。そして木々の色や山々と空の稜線が際立っていることに気づいた。
(朝……なのか?)
僕はついにどこにもたどり着くことなく、夜が白んでゆく頃までバイクを押し続けていたのだ。そのこと自体僕にすら信じられないことだった。
その事実に唖然として、ついにここに来て足は止まった。
(もう駄目だ)
雨が上がったのであれば、朝が来てしまったのであれば何も焦る必要はない。ゆっくりと日が昇るのをまって修理して、そしてテイオーに逢いに行けば良いのだ。
こんなことなら押してくる必要もなかったな……と思いもしたが、そうしなければ寒さで凍えていたことだろう。おかげで寒さは感じることがなかったのだから。
そしてスタンドを立てて休憩しようとしたその時だった。
木々の間から洩れてくる鳥のさえずりに混じり、かすかに馬のいななきが聞こえてきたのだ。
(もしかして……)
と、すでに萎えた心が再びざわめく。しかし、ここまで来る間にもいくつかの牧場があった。そのたびに牧場名を確認したのだが、それらは目指す牧場ではなかった。
どうせまた──と、やはりそのままバイクを立てかけようとしたのだが、いったん傾けた車体を少し躊躇したのち、僕の腕はもう一度その車体を起こしていた。
(どうせついでだ)
まだ薄暗い道の先百メートルほどだろうか、かすかに牧場の入り口らしくガードレールの切れ目とそこに掲げられた看板が見える。
最後の力を振り絞りたどり着いたそこには
『二風谷育成センター』
と書かれた看板が建っていた。
力が抜け、今まで抱え込んでいた不安の一つ一つが嘘のように氷解してゆく。
(……ようやく)
そう。それこそ遠路遥々目指してきた牧場だったのだ。九州から北海道まで……。
わずかな日数にもかかわらず、ずいぶんと長い旅をしてきたように感じる。
感慨もひとしおだった。
砂利道の続く場内へと続く道。その先の白い建物にはすでに明かりが灯り、一階の事務所とおぼしき部屋には数人の人影が見え隠れしている。その手前、道の途中には右手に小さなコースがあり、そのコース脇には小さな厩舎が建っていた。
先に牧場の方に見学の許可をもらわなくてはならない。バイクは入り口に置いたまま、その道へと入ってゆく。
バイクの重さから解放された足は不自然に浮ついていた。はやる気持ちがその足を急かして、なんどかつま先を地面に引っ掛けた。
そして楕円形のコース脇に差し掛かったその時だった。
『ブルッ』
馬が鼻を鳴らしている。それは厩舎の方から聞こえてきた。
僕は首を右にひねり、視線を向ける。青紫の景色の中に人影がシルエットになって浮かび上がり、続いて一頭の馬が牽かれてコースに出てきた。
心臓が早鐘を打つ。目はその馬に釘付けになっていた。
わずかに見えるその馬の流星は額の真ん中を綺麗に流れ、鼻上で筆で引いたかのように切れている。そしてはき忘れたソックス。
たとえ何万頭という馬がいたとしても、見紛うことはないだろう。
(テイオーだ……)
身じろぎひとつすることなく、ただただ立ち尽くす僕に向かって歩いてくる。
徐々に鮮明になってゆくその肢体。それは近づいてくるにつれ、逆に輪郭をあやふやなものにしていった。
(あ……あれ?)
慌てて目をこすった指の隙間から涙の粒が滑り落ちた。
(何だってんだよ、いったい)
胸を熱くする想いがあふれ出ようとしている。僕はそれを鼻からすすり上げ、つとめて平静を装った。
「あれ、見学かい?」
引き綱を握っていた方が、コース脇の柵を掴んでいた僕に気づいて声を掛けてくれた。
もう一度鼻をすすって一呼吸おいた僕は、ぎこちなく
「はい」
と返事をした。そして続けて話しかけた。
「トウカイテイオーですよね」
その方は薄暗い中に白い歯を浮かび上がらせて笑った。
「そうだよ。よく判るね」
その声に反応するようにテイオーは再び鼻を鳴らし、僕に顔を向けた。
思いのほか長いまつげをしばたたせながら、覗き込むように見つめてくるその瞳をとても綺麗だと思った。
「あの、見学してても良いですか?」
『もちろん』と快諾してくれ、しばらく引き運動だから退屈だよ、とも付け加えて言った。
退屈なはずはない。疲れさえも忘れ、穴が空くほど眺めていた。
やがて雲間から朝日が差し込むころ、テイオーは鞍上に人を乗せ、軽やかに走り出した。
(わあ!)
目の前を軽いキャンターで駆け抜けるテイオーは、暁光に照らされて金色に輝いている。
その光景はどこか幻想的で美しかった。
そう、とても美しかったのだ――