闇の先へ
夏がやってきた。そして目の前に広がるのは地平線が広がる広大な大地と、はるか彼方まで続くまっすぐな道だった。
「北海道はデッカいどー!」
使い古された台詞をヘルメットの中で叫ぶその顔は、至極喜びと感動に満ち溢れたものだったろうと思う。
バイク乗りと言ってもローリング族あがりの僕は、旅を楽しむツアラーとは異色の存在だ。
したがって旅慣れている訳ではなく、すれ違うバイカー達にピースサインを送られることに当初戸惑いを覚えたのだが、札幌を抜け日高へと続く国道へ出た頃には、なんのためらいもなくピースサインを送り返す自分がいた。
何日も休みが取れるわけではなかった。
出来れば飛行機で千歳空港からレンタカーなりでの行程を踏みたかったのはやまやまなのだが、盆休みのピークである。
得意先からの無理難題な予約やオーバーブッキングを抱えて胃に穴が空きそうなプレッシャーと闘う日々が続くこの時期、自分に回すより客に回したほうがどれだけ精神的苦痛から逃れられるか……
したがって前日より手のひらが筋肉痛になるほどアクセルを開けっ放したまま、本州を単騎縦断してきたのだ。
二日目の今日の午後過ぎには憧れのヒーローに逢えるはずだった。
疲れ果ててはいるものの、もうすぐ訪れるであろう至福の時間のことを考えると、それすら心地の好いものと思えてしまう。
しかし先ほどからどうにも我慢出来ないことがひとつあった。
「寒いんじゃコラー!」
誰に言うわけでもなく、あえて言うならばこの北の大地に対してなのだろうが、次第に悪態をまき散らす回数が多くなってきた。
『夏はTシャツ一枚でツーリング』
それが僕の常識であったし、過去の経験からもそれを疑うような事柄は今までなかったことだ。ここではその常識が非常識であることを痛感していた。
にわかに雲が空を覆い、かろうじて背中を暖めていた日光が遮られると我慢は限界に達し、街道沿いにポツンと建つワーク服ショップに駆け込んだ。
ちなみに服はTシャツしか持って来ていない。レインウェアすら持ってきていないという有り様。
ツーリングに慣れた人から言わせれば自殺行為だそうだ。
そして店内に入ると、値札から見る上着選びが始まった。久々に伸ばした膝が冷たさを思い出してこわばっている。
結局選んだのは黄色い薄手のレインウェアだった。店内にいる間に激しい雨がウィンドウを濡らし始めたからだった。
二千円ほどの安物のレインウェア。しかしこれくらいが余分に使えるギリギリの金額なのだから大した貧乏旅行である。 とにかく再び走り出したものの、雨のおかげで寒さを凌げるわけでもなく、水しぶきにまみれながら先を急ぐはめになったのだ。
(最悪だな)
悪い視界と体温を容赦なく奪う雨粒。それは確かにマイナス要素ではあるが、最悪はその直後に現れた。
腰に感じていた力強い駆動力が突然失われ、後ろにかかっていた重力は逆転して僕を軽く前につんのめらせた。
「マジかよ!」
高らかにマフラーから吐き出されていた排気音がくぐもった機械音に変わる。ガス欠の類ではない。明らかにミスファイアを起こしてエンジンが止まってしまったものだ。
最悪の事態はここから始まった。
雨粒がヘルメットのシールドに当たっては弾けて流れ落ちてゆく。なだらかな山道を登り始めたさなか、静寂な世界には雨の織りなす音以外、何もなかった。
最後に見かけた街すら遥かに遠い。目の前にある山道も果てしなく続いている。
(とにかく直すしかないな)
息絶えたように寂しく目に映る愛車を見下ろすと、頼りない車載工具を取り出した。
おそらくは電装系のトラブルだと見当はついている。ただ、乾かさないと直らない可能性が大きいのだ。
タオルひとつ入っていない小さなデイバッグはすでに水を含んで重くなり、下に着たTシャツもいつの間にか雨の侵入を許していた。
(やばいなあ……)
油にまみれてゆく指をせわしなく動かしながらも、この時はまだ少しの余裕がある。しかし、キックスターターを無限に感じるほどの回数蹴り下ろし、足の感覚が麻痺したころ、ふと見上げた空の暗さに焦りと不安が膨れ上がった。
見え辛くなってきた手元の時計を覗き込む。時刻はすでに午後六時半を回っていた。
(どうする?)
いよいよもって窮まった進退。夜のしじまは容赦なく広がりを見せている。
(どうするっても……)
この状況を打破するためにはバイクの復活が必要不可欠だ。さしあたって今日の牧場見学が絶望的ならば、雨露のしのげる場所を探さなくては野宿出来るような状態ではない。
奇跡的に所持していた懐中電灯を手にすると、寒さに身を震わせながら修理を再開した。
(厄介なことになったもんだ)
時々自分の無鉄砲さに嫌気がさすことがある。いまが正にそれだ。
多少の後悔がなかったと言えば嘘になるだろう。ここまでの道のりを鑑みるに、多分に呆れるような理由でここにいる。
(たかが競走馬……)
その想いと共に甦ってくるのは、あのオレンジの風景だった。
「されどトウカイテイオーか」
物事が自分の思い通りに運ばなければ何もかもすぐ嫌になって投げ出してしまう僕だったが、その台詞によって胸に灯る熱い想いが、くじけそうになる意志を辛うじて支えていた。
馬鹿は馬鹿なりに馬鹿の意地を持っているものだ。
しかしその胸に灯る最後の灯火も、懐中電灯の電池切れという結末に追従するかのように勢いをなくす。
容赦なく雨が降り注ぐ闇の中で、僕は水膜が流れるアスファルトにへたりこんだ。
(何してるんだろ? 僕は……)
疲れが一気に襲ってきたようだ。頭が痺れたようにジーンと細やかにざわめく。目をつむると闇の底に体が落ちてゆくような感覚さえ覚えた。
雨の音は人の歓声にも似ているのだな……と気がついた時には、僕はあの日の記憶の中に身を置いていた。
テイオーの名を絶叫するアナウンス。歓喜に包まれたスタンド。鮮やかに切り取られた僕の人生の一ページは、それから不意に有馬記念への映像へと切り替わる。
騒然とするスタンドは悲鳴に満ち、テイオーのプライドは地に墜ちた。そして三度目の骨折。
傷ついたテイオーの姿が浮かび上がり、胸に痛みが走る。
「テイオー……君はいま何をしてるの?」
闇の続く道の先へと目線を向けた。
「やっぱり……逢いたいよ」
その独り言の語尾が震えていたのが自分でも分かった。
雨音に混じってカシャリとスタンドを跳ね上げる音が響いた。バイクの重さが腕を伝わり、靴底が踏ん張る。
(だったら行くしかないよな)
勾配はさほどきつくはなかったが、それでもバイクの重さを倍に感じさせる。
車輪がゆっくりと回転を始めると、僕は一歩一歩坂を登りだした。