悪夢
小倉競馬場に着いたのはまだ朝の九時前だというのに、モノレールの駅から競馬場までを繋ぐ空中を渡る狭い通路は、ごった返す人々と並々ならぬ熱気に満たされていた。
今の時期(年末)に、ここ小倉競馬場で競馬が行われることはない。従って、今は場外馬券場としての機能しかないのだ。
それにも関わらずこの人の多さはレース施行期間中と比べても遥かに上回っている。
単なる場外馬券場に?
そう。今日は競馬ファンにとっては特別なレースが行われる。
そのレースとは出走馬がファンの投票によって決められ、スターホースが一堂に集い一年を締めくくる最大のG1レース――
『有馬記念』である。
天気は良かったが気温はかなりの低さで風も強い。建物内は暖房が効いていて寒さはしのげるが、座る場所はなく落ち着けない。かといって座れるが吹きさらしのスタンドも、寒さに弱い僕にとってみればかなりの勇気を必要とする。
さて、人が右往左往する雑多な建物内に足を止め、しばし考えて見ることにした。
「さっぶ……」
冷たくなった手を売店で売っている紙カップの熱燗で温めようと買ってきたのだが、誰しも考えは同じなのだ。
温まる間もなく売れてしまうカップ酒は、熱燗という商品名の冷酒と何ら変わりはなかった。
「しかも高いし」
少しは温まるかとちびりと飲んでみたものの、酒に慣れた胃にはただの冷や水と変わりはない。今は枯れ草と化した芝生のコースを眺めていると、視覚からも寒さが染み込んでくるようだ。
(早く始まんないかなあ)
文字だらけの競馬専門誌を傍らに置くと、カラフルに印刷されたスポーツ新聞を手に取る。
『トウカイテイオー大本命!◎』
どの紙面でも同じような扱いである。一面はテイオーの写真に占領され、他馬は所詮脇役の扱い。
僕はそれを見ては何度も頬を弛ませた。
(当たり前だろ)
少しの高揚が寒さをしのぐ防寒具のようだ。メインレースが近づくにつれ、やがて神経は競馬へと集中して寒さは和らいでゆく。
僕は財布を抜き取ると、残金を確認した。
(やばい……)
夢中で賭けている時は気付かなかったが、午後からの連敗は財布に致命的な打撃を与えていた。このままではメインレースまでに破産してしまってもおかしくはない。
仕方なく二つのレースは見送ることにし、それならばと一旦建物内に非難する。さすがに観てるだけでは寒さがぶり返してくるのは目に見えていたからだ。
「テイオーは今日は負けるよ」
人波を避けて壁際でコーヒーをすする僕の耳に、そんな声が聞こえてきた。
なにを! とばかりに睨みつけるようにその方向を見ると、隣で座り込んでるくすんだジャンパーを着込んだ二人の初老の男性の姿があった。
もちろんこちらの存在などは気にもせず話を続けている。
「岡部(主戦騎手)が騎乗停止になって乗り替わりやろ? ケチの始まりやね」
「おー、岡部が騎乗停止とか滅多に無かもんなあ。よりによってこげな時にならんでも……」
「運も大事やけんねえ。強かだけじゃ勝てんばい、有馬は」
確かにそれが不安材料だとは認識していた。しかしそんなものテイオーならば軽く跳ね返してくれるはずだと、期待に応えてくれる馬だと――
僕は信じて疑わなかった。
競走馬の居ない閑散としたコースだったが、メインスタンド前に設置されたターフビジョンに出走馬の体重が発表されるとざわめく喧騒が響き渡る。
目をスタンド側に戻すと、前方に広がる景色とは対照的な熱気がそこには渦巻いていた。
いよいよ始まろうとしている一年で一番競馬ファンが熱くなる日、一年の総決算『有馬記念』。
僕にとっては初めての体験なのだが、その特別な雰囲気はいやというほど肌を伝って感じ取れる。
周りの人々は今年一年の競馬の名場面を高揚した口調で語り合い、新旧王者と女王らが初めて手合わせをするドリームレースの予想に自分の夢を重ね合わせている。
僕もその熱気にあてられたように馬券を購入した。
有り金すべてはたいたテイオーの単勝馬券。つまりテイオーが一着にさえなれば当たりだ。配当は低いが、これ以上確実な馬券は無いと思われる。
(頼むぜ、テイオー!)
彼が勝利する姿を想像するだけで胸が躍った。僕はどんな喝采を浴びせるのだろうか?
そんな思惑が興奮を伴った緊張へと変わるG1のファンファーレが鳴り響くと、場外馬券場にも関わらず一斉に手拍子が湧き起こった。僕もその興奮に呑まれて冷たくなった手のひらを高らかに打ち鳴らす。
僕は遠い空の向こうにいるテイオーにターフビジョンを通して想いを馳せた。
どんな心境なのだろうか? 熱くなっているのだろうか? 怯えているのだろうか? それとも……
(泰然自若かな?)
悠然と構えてゲートに収まるテイオーを見てそう思った。
最後の一頭が収まると、スタンドに緊張が走る。日本中の競馬ファンの視線が一点に集中する刹那――
『スタートしました!』
どおっと湧き上がる場内。約二分半の最高のドラマの開演に、歯止めの効かない興奮が胸を満たす瞬間。しかしその興奮は一瞬にして水を浴びせられたように消え去った。
『トウカイテイオー出遅れました!』
(馬鹿な!)
常にポンとスタートを決めるテイオーがまさかの出遅れだ。加速する馬群を一息置いて追いかけてゆく姿に場内はどよめいた。
『テイオーは負けるよ』
さっきの言葉が頭をよぎり、胸に立ち込める不安。僕はそれを振り払おうと声を荒らげた。
「大丈夫大丈夫! これからこれから!」
まだまだ先は長い。徐々に順位を上げて、勝負所で好位置から差しきるだけのこと。結果が変わるわけではない。
レースは中盤。大逃げを打つメジロパーマーがその差を更に広げてゆく。テイオーはまだ後方。その差を詰められないでいた。
「おいおい、テイオーやばいんやないか?」
周りからそんな声が上がりだす。熱気を帯びた声援に影が見えだした。
『メジロパーマー先頭。差を広げる! 大逃げ。大逃げです』
不安を煽るアナウンスを努めて聞き流しながら画面を注視する。いよいよ勝負所の三コーナー、そこには早めに手綱をしごいて前に出ようとするテイオーの姿があった。
(どうした、テイオー!)
初騎乗の田原のゴーサインも虚しく脚色が冴えない。アナウンスも絶叫に近くなった
『メジロパーマー先頭で直線に入った! 後続はまだ差があるぞ!』
動揺するスタンド、必死に前を追うテイオー。眼前に繰り広げられる光景に僕は目を覆いたくなった。
『テイオーどうした、テイオー伸びない!』
そこまでだった。そこから展開される直線の攻防にテイオーの名前は出てこなかった。
絶望と失意のざわめきの中、祭典は終わりを告げる。
『11着惨敗』
それがこのレースにおけるテイオーのリザルトだった。
パラパラと人が帰路につき始めるスタンドに僕は立ち尽くしていた。
現実感のないレースだった。今、勝者が……いや、テイオーが居るべきウイニングサークルには逃げ粘った伏兵の姿がある。
それを呆然と眺める僕の手のひらから馬券が滑り落ち、そしてそれは木枯らしに吹かれ、誰に拾われる事もなくハラハラとスタンドに舞った。
平成四年十二月二十七日。この日をもって今年の競馬は幕を閉じた。
無念を胸に抱いたままで――