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 師走も深まった夜の街道はことさら寒かった。僕は何度もコンビニに寄り温かい飲み物で暖をとったが、再び走り出すと瞬く間にもよおし、それは体外に排出された。それでも数え切れないほどのトラックを追い抜き、日が昇るころには土曜競馬で盛り上がる中山競馬場に到着していた。


 これだけ早く家を出たのは当日パドックで最前列を確保したかったからだ。僕はどうしても手が届くほどの位置からテイオーを見たかった。それでなければ僕とテイオーの思い出が幻ではなかったと確信できないような気がしたのだ。


 しかしそこにはすでにかなりの人数が列をなしていた。列の最後尾を探して歩を進めてゆくうちに不安がだんだん募ってくる。この人数がすべてパドックへ向かえばとても最前列など確保できるものではない。


 実はかなりの割合がトラック狙いのアマチュアカメラマンなのである。ゲートが開けばパドック派よりも圧倒的にコースへと足を向ける人数のほうが多い。しかし、それも実際はゲートが開くまではわからないのである。


 ダンボールや毛布、寝袋を準備してきている人々の中に混じり、厚手のジャンパーだけを頼りに僕は列の最後尾に腰を下ろした。


 周りからは楽しげな声ばかりが聞こえてくる。ここ最近のレースを見てなかった僕は、その声の情報を頼りに出走馬の力関係を思い浮かべていた。


 それにしても底冷えする夜だ。人は周りにたくさんいるのに僕だけは孤独だった。冷たいコンクリートに下ろした腰から冷気が這い上がってくる。その寒さに身を縮こませながら僕はじっと夜が明けるのを待っていた。




「これより入場制限を行います! 列を離れるともう戻れません」


 係員が間もなくゲートが開くことを告げると、徹夜組は殺気を漲らせて腰をあげた。『開門ダッシュ』と呼ばれるG1レースではよく見られる光景だが、今日に限ってはいつもよりかなり数が多いのだそうだ。


 三歳馬の頂点に立った新たな白い王者ビワハヤヒデが、歴戦の古馬たちをどのように撃破するのか? また出走場のなかで八頭ものG1馬が顔を揃えるというかつてない豪華メンバーにこの日は朝からかなりのヒートアップを見せていたのだ。


 もちろんゲートが開くとその状況はさらに加熱した。僕は脇目もふらずパドックへと続く通路を駆ける。このときばかりは普段から走り回っていることに感謝した。かなりの人数を追い抜いて、パドック脇にもはやわずかしか残っていない空きスペースに滑り込むようにして飛び込んだ。


 息を切らして半目を開く僕の目の前に次々と人がなだれ込んでくる。間一髪間に合わなかった人々は歯噛みして悔しさを見せた。それを見て僕も気の毒だとは思ったのだが、こちらも徹夜を二日続けて確保したのだ。残念だが諦めてもらうより他ないだろう。



 とにかく、僕はもっとも近い距離で再びテイオーに相まみえるところまでたどり着くことができたのだ。



 空は鉛色で重苦しかったが、それに反して場内の盛り上がりは尋常ではなかった。物凄い人の多さだ、去年のジャパンカップどころではない。


 それは競馬場の広さ自体、東京競馬場に比べて小さな中山競馬場であるからとも言えるが、それを差し引いても僕にとっては空前の混雑だった。もちろんパドックに一度張り付いたときから一歩も外に出ることは出来ない。自分のスペースを主張していてもぐいぐいとその領域を侵そうと身を割り込ませてくる輩があとを絶たなかった。


 だからこの日は朝からずっとレースを見ていない。しかし見たからといって賭ける金があるわけでもない。僕は軽い財布をジャンパーのポケットの中で玩びながらそのときを待っていた。



 後ろから容赦なく圧力がかかってくる。8レースが終わった直後だというのに、その圧力は尋常なものではなかった。柵に押し付けられるようにしてこのときをずっと待っていた。次の9レースがいよいよ日本中が注目する有馬記念だ。僕は久しぶりにテイオーに会えることになんだか感慨深いものを感じていた。


 もっと嬉しくてはしゃいでしまう僕の姿を予想していたのだが、実際はもっと落ち着いていて、そして感動は深かった。


 いよいよパドックに姿を現した精鋭十四騎のサラブレッド。それぞれが勲章を誇り、己の尊厳をかけてぶつかる特別なレース、それが有馬記念だ。そしてその大舞台に僕のテイオーは静かに、しかし内に秘めた闘志を端ばしに見せながら入場してきた。


 その姿はかつて僕と触れ合ったテイオーとは全く違っていた。まさに戦士としてのオーラを身に纏っている。後ろ足をゆっくりと、しかし力強く踏み込みながら僕の眼前へと迫ってくる。


 もちろん僕のほうを向いて意思表示してくれるだろう、などという浅はかな期待は見事に裏切られた。一点をじっと見つめ、脇目も振ることなく悠然とパドックを周回してゆく。その姿は初めてテイオーを見た時に感じた圧倒的なオーラと人を寄せ付けない威風を思い出させた。


(もどってきた……テイオーが)


 あの時感じた期待感、それはこのときにも確かに胸に感じられていた。


『テイオーなら……』

『テイオーだから』


(……やってくれる)


 そう競馬ファンが口を揃えていた去年だったが、この一年でその言葉を口にするものはもはやほとんどいない。しかしこの悠然と周回する威容を目の当たりにしてはそんな想いが再び甦ってくるのだった。事実、このパドック周回が始まってからテイオーのオッズが下がっていた。


 芦毛(白い毛)の新王者ビワハヤヒデも堂々たる周回を重ねていたが、僕の目にはテイオーの雄姿がはるかに眩しく目に映っている。


「テイオーが勝ったら凄いことだね」


 隣に陣取るカップルの女性がそんなことを彼氏に訊ねた。それを聞いた彼氏はこう言った。


「あり得ないでしょ、勝ったら奇跡だね」


 そう言われた彼女は少し口を尖らせて目をパドックに戻した。その台詞を聞いてひとこと言いたくなったのだろう、後ろにいる長いこと競馬をやってそうな初老の男性は声高に言った。


「奇跡ってのは起こらないから奇跡って言うんだよ。色んな有馬見てきたが、テイオーが勝つことだけはないな」


 僕は気分が悪かった。高揚してきた心に水を掛けられたような格好だ。でもその言葉に間違いがないことも分かっていた。競走馬にとってブランクとは人間が考えるより遥かに大きな壁となっていた。


 これまでもどれほどの名馬であってもこのブランクの壁にぶつかり、あえなく惨敗を喫している。それがましてやG1であれば、長い競馬の歴史の中では一頭の例外すら見つけることができないほどだ。


(そんなこと分かってるんだ。でも、だから『テイオーなら……』なんだよ)


 馬場への入場が迫る。厳しい顔をしたジョッキーたちが次々を騎乗を始めた。その中でテイオーの手綱を取るのは去年に引き続き、乗り替わりで失態を犯した田原騎手だった。口を真一文字にむすび、去年の悪夢を払拭しようとしているように見える。


 あのレースの直後、テイオーの敗因はこの田原騎手に集中した。


『スタートのミス』

『岡部なら楽勝だった』

『騎手をやめろ』


 スタートのミスは騎手だけが負うものではない。しかしテイオー信者はそれをすべてこの騎手のせいにして溜飲を下げていた。


『負けたのはテイオーではなく騎手のせい』


 そうすることで夢を繋ごうとしたファン、そしてそれを敢えて受け止めてあくまでテイオーを庇い、ファンの夢を守ろうと一年間、耐えに耐えた騎手の厳しい表情がそこにはあった。


 このとき田原騎手の胸にはどんな想いが去来していたのだろうか? 一緒になって彼を罵っていた僕には、それを窺い知ることなどできはしない。


 その姿を見送った僕は、いや周りにいた人間全員はすべてコース側に殺到する。その足で馬券売り場へ寄り、買えるだけの金額でトウカイテイオーの単勝馬券を購入した。たかだか千円の馬券、でも今の自分にはこれが精一杯の金額だ。


 比較的ゴールに近い場所まで移動し、人ごみの中でスタートを待つ。次々と馬場に入場してくる各馬が紹介されるたびに場内はどよめき、歓声を上げた。


 ふと自分が随分場違いな所にいるような気がする。浮き足立った観客たちの中になぜ自分がいま居るのだろう? 改めて周りを見渡すと誰もが熱気を帯びて自分とあまりにもかけ離れているような気がしたのだ。



 そしてスタートが近づいてきた。



 僕は息を呑みこんでターフビジョンに映し出されたゲートを眺めていた。いつの間にか両手を胸の前に組みさながらクリスチャンのようだったが、それはさほど間違った表現ではないだろう。僕は祈っていたのだから。


 ただしそれはイエスキリストでも仏陀にでもない、僕はテイオーに祈っていた。



 スターターが台上に上り旗を振る。それを合図にファンファーレが始まると怒涛の歓声がスタンドを揺るがせた。ビリビリと空気が震えるほどの歓声の渦中にあっても僕はそれに感化されることもない。ただじっとテイオーを見つめていただけだった。


 次々とゲートに収まってゆく各馬。ビワハヤヒデ、レガシーワールド、ウイニングチケット、ナリタタイシン、メジロパーマー、ベガ……そしてトウカイテイオーと、まさに豪華絢爛なメンバーだ。


 緊張が走る瞬間がやがて訪れ、一瞬息を呑んだあと──


『スタートしましたっ!』


 ついにゲートが切られた。注視していたターフビジョンに真っ先に映ったのはトウカイテイオーだ。去年とはうって変わり抜群のスタートを決めて飛び出した。


 僕はそれだけでも嬉しくて、組んだ手を更に力強く握り締めた。


『トウカイテイオー好スタート、しかし外からメジロパーマー。メジロパーマーがやはり行った行った!』


 昨年の覇者、メジロパーマーが予想通りレースを引っ張る形で幕は開かれた。続いてビワハヤヒデ、ウイニングチケットらが続き、テイオーは中団にまで下がっている。向こう正面からスタートをした各馬は一度スタンド前を通過したのち、もう一周してゴールを目指す。


 その一周目のスタンド前の声援はまさに割れんばかりのものだった。テイオーは内々に控え、じっと力をためているようだ。一団の馬群は文字通りの地響きを起こしながらあっという間に目の前を走り去っていった。


 一瞬見えたテイオーの目はとても美しくて、そして厳しかった。


『先頭はメジロパーマー。ウイニングチケットはややかかり気味か? ビワハヤヒデに続いてレガシーワールド虎視眈々……』


 向こう正面に走り去った馬群から再びターフビジョンに目を移す。それはいま目の前にあった映像にもかかわらず、どこか現実離れしたような印象をうけた。


 ふと我に返ったように自分を省みる。僕は何を求めてここにいるのだろうか? 何を期待しているのだろうか?


 きっとその答えはテイオーが出してくれるのだろう……



 レースが動き出す3コーナーに差し掛かると各馬は一斉に動き出した。トウカイテイオーは内から外へ、綺麗に抜け出してやはり追撃体制に入る。去年のような手応えとは全く違っていた。その姿に期待が膨らみ、胸がぐっと熱くなる。


『さあ、ビワハヤヒデ動いた、早くも先頭メジロパーマーを捉えにかかる! 続いてレガシーワールドもやってきた。ウイニングチケットは少し遅れたか!』


 トウカイテイオーの動きだけを見ていた。中団から外に持ち出して豪快に外をマクって上がってくる。その姿に、その雄姿に期待が現実に変わるのではないかと、僕はずっと閉じていた口を思わず開いた。


「テイオー!」


 最終の4コーナー。真っ先に飛び出してきたのはやはり白い馬体、新たな怪物ビワハヤヒデだ。


『さあ、ビワハヤヒデ先頭だ、後続との差を広げていく!』


 さすがに断然一番人気を誇るだけはある。その光景に観客は狂喜して歓声のトーンをさらに上げた。さながらスタンドが爆発したかのようだ。


「テイオーーーっ!」


 その歓声にあらがうように僕は叫ぶ。そしてそれに応えるかのように──


『トウカイテイオーやってきた! なんとトウカイテイオーだっ!』


 白と青とピンクの勝負服、そして額に流星をあしらった不屈の馬が豪快に脚を伸ばしてきたのだ。そして新たに誕生した白い王者に敢然と襲い掛かった。


『先頭はビワハヤヒデ、しかしトウカイテイオーやってきた! 他はちょっと置かれている、完全に一騎打ちになりそうだ』


 歓声の色が一気に変わった。しかしそれは絶望とかそういうものではなく、テイオーの走りに驚愕と喜びを交えたものだった。皆が本当は期待していたのかもしれない。絶望と思うことでショックを和らげようとしていたのかもしれない。



 ただ一頭、テイオー自身を除いては──



 直線、坂の下からビワハヤヒデと共にテイオーが駆け上がってくる。両者の火花が見えるような激しい叩き合いだ。


「頑張れ! 頑張れっ!」


 全身全霊をかけたその疾駆する姿に僕は『頑張れ』という言葉しか出てこなかった。そしてその姿が父親や、母親や、そして僕の姿とオーバーラップして見えたのだ。


「頑張れ、頑張れ! がんば……」


 そこから先はもう言葉が出なかった。苦しかった北海道の夜、そして触れ合ったあの日、この手のひらが覚えているテイオーの熱、焼けてしまった写真、そして救ってくれたテイオーの記事……。


 様々な想いが胸を衝き、その想いはあの日オレンジの風景の中で勝利の雄叫びを上げた歓喜の情景にたどり着いた。そしてそれらが涙となって溢れ、僕には止められなくなったのだ。


『ビワハヤヒデ、トウカイテイオー。ビワハヤヒデ、トウカイテイオー! トウカイテイオーだ、トウカイテイオーだ!』


 一気にライバルを抜き去ったテイオーはさらに差を広げ、涙でぼやけた視界の中でゴールに飛び込んだ。十数万の観衆は熱狂の極みに達し、この時たしかに奇跡を目撃した。そしてこの瞬間このレースは伝説となる。


『トウカイテイオー、奇跡の復活! 勝ったのはトウカイテイオーだ!』


 場内の興奮はすさまじいものだった。誰しもが驚き、そして喜びを露わに手を打っていた。僕はと言えば抑えても抑えきれない感情が溢れてきて、顔を覆って号泣していた。


 嬉しかった。本当に嬉しかった。そして僕は教えられたのだ、トウカイテイオーに『あきらめない』という言葉の意味を。


 いつまでも鳴り止まない歓声の中、いつもは派手にガッツポーズを決める田原騎手がうつむきながらウイニングランへと向かう。スタンド前に戻ってきた田原騎手はゴーグルを外すと真っ先に涙を拭った。そして人目もはばからずに男泣きに泣いていた。


 みんな辛かったのだ。一年間、辛かったのだ。


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