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オレンジの風景

流星:馬の顔にある白い模様

 それは綺麗な競走馬のフォトに飾られた月刊誌だった。安っぽい胡散臭い予想情報などを排した純粋に競走馬を愛するための情報誌である。


 この年、夏頃から競馬にのめり込んでいた僕は、それを本屋で買い求めた。読みたい特集記事に興味のある馬が載っていたからだ。


『トウカイテイオー』


 それが興味を惹いた馬の名前だ。去年の三歳時、無敗で皐月賞、ダービーと二冠を達成するも、残りの一冠、菊花賞を前に無念の骨折。


 年が明けて骨折明けのレースは楽勝したものの、続く長距離レースの最高峰、春の天皇賞では初の敗北を喫する事となる。その後、長期休養を取ったテイオーはこの時、秋競馬に備えて充電中だった。


 したがって今年の夏から競馬を始めた僕にとってはまだ見ぬスターホースだったのだ。


(カッコいい……)


 家に帰り、逸る気持ちでページをめくった僕の目に映るその馬は、写真だけでもゾクリとする威風を放っていた。


 馬にも顔かたちはそれぞれで一様ではない。テイオーは整った目鼻立ちに鼻先ですっと切れる見事な流星を持ち、足元には白いソックス(蹄上の白い模様)。一足だけはき忘れたのが愛嬌だった。


 思えばこの時この瞬間から、僕の心はこの馬に囚われてしまったのだろう。



 その私鉄電車のドアが開くと、中にすし詰めにされていた人々は、まるで水を得た魚のようにホームへと降り立った。

 声高に馬名を挙げては予想自慢する人、昨日のレース結果に花を咲かせる人と様々だが、新聞を片手に足早にホームの出口に向かう様は共通している。


 かくいう僕もその中に混じり、期待と興奮でやや震える足どりのまま流されていた。


 誌面でトウカイテイオーと出会ってから二カ月ほど過ぎていたこの日、福岡から新幹線に乗った僕は人波に揉まれながらここ、東京競馬場の入り口に立つことになったのだ。


(でっけえ〜!)


 眼前に左右に広がるスタンドは、今まで通っていた地元の小倉競馬場とは比べるまでもなく規模が違う。そして圧倒的な人の多さに戸惑いながらも、それは自身の軽い興奮と同化していった。


 そのだだっ広いスタンドを抜けると眼下には広大なコースが横たわっていた。


「ここで……」


 勿論、わざわざこんな遠路を踏んでまで来たのは他でもない、今日は世界の強豪馬を招待して行われる国際G1ジャパンカップが行われるのだ。そして当然僕の目当てはそう、復活を賭けたテイオーにあった。


 あの雑誌を見た日から、テイオーへと募る心は日増しに大きくなっていたのだ。おかしな話かもしれないが、たかが競走馬に僕は恋をしてしまったのかもしれない。


 まだ見ぬ恋人に……全くおかしな話だ。



 午前中のレースは淡々と進み、やがて午後になると僕の腰は落ち着かなくなった。次第に近付いてくるメインレース、いや正確には出走するテイオーが気になって他のレースを予想するどころでは無くなっていたのだ。

 柱にもたれ、8レースかそこらの新聞の予想欄に赤ペンで印をつけていた僕だが、バサリと新聞を閉じると足をパドックへと向けた。もう居ても立ってもいられない。


 人混みを掻き分けながら馬券売場の並ぶ建物を抜け、陽光の射す外へと飛び出した。


「マジかよ……」


 目指すパドックが見えてくると、思わずそう毒つくより仕方がない。想像を遥かに超える人垣がそこに出現したからだ。


 所詮片田舎の競馬場しか経験していない素人競馬ファンだった。パドックにこれほどの人が集まるなど予想出来なかったのだ。

 自分の希望としては最前列から間近にテイオーの姿を見る腹づもりであったが、それは全く不可能である事をここに来て思い知らされた。


 勇んで歩いていた足はやがて速度を落とし、そして足と足の間を縫うように慎重に前に進めざるを得なくなり、ついには動かす事が出来なくなってしまう。


 最前列まではまだまだ遠いがここまでが限界だった。


(仕方ないか)


 心でついたため息は自然と口から漏れ、思わず空を仰ぐ。そこには色とりどりの国旗が掲揚されていて、改めて別世界のレースだったことを痛感させられた。


 僕はそのまま、まだ見ぬ恋人を待つことになった。


 やがて日が傾きかけた秋の深まる府中の空の下、正装した外国人関係者が華やかにパドックを彩る。俄かに僕の心臓は鼓動を早めた。


 ざわつく場内。立ち上がる人々。期待が熱気を生み出すのか、周囲の温度が上がったように感じる。

 食い入るように見つめる視線の先はパドックへの出入り口。そして先頭の馬が姿を現すと、一瞬周囲が静まり返った。


 僕は唾を飲んでその光景を眺める。


 一頭……二頭……三頭……


 時折シャッター音が響くが、ほとんどの人はまだ待っていた。もちろん、僕もだ。


 そしてついに恋い焦がれたテイオーが悠然とパドックへ姿を現すと、瞬間にシャッター音の嵐が巻き起こり、ざわりと空気が動く。

 みんな待っていたのだ、テイオーを。


 何という存在感だろうか?


 たった一頭の馬によってこれだけの人々が色を変えられてしまうのだ。


(これがスターホース……)


 自分だけが惚れ込んでいるわけではない。これほど多くの人がテイオーを待ち望んでいたのだ。


 その人々の期待と熱意を軽くいなしながら悠然とパドックを周回する姿は、馬にしてカリスマを備え、僕の心を震わせるに十分以上の衝撃を与えた。


「カッコ良すぎる」


 感動に打ち震える僕の中では、多少なりとも美化されていただろう。しかしそれでも良いのだ。確かにテイオーは人を惹きつける何かを持っていた。


 この時僕に実感出来たのはそう、その期待感だけだったのかも知れない。



 出走馬が次々とパドックから姿を消し、地下馬道へ降りてゆくと、人間様も民族大移動を始める。パドックから建物内を抜けてコースへと移動するのだ。


 もちろん座る席などない。立ったまま敷き詰められた頭越しにコースを睨みつけるだけだ。


 観客のボルテージは最高潮に達する寸前となっていた。眼前のターフビジョンが馬番と馬名を表示すると、その中に『トウカイテイオー』の文字が浮かび上がる。それに呼応する大声援。火を点されたように熱くなる胸の内。熱気と興奮がオレンジに染まった空を焦がし、そしてファンファーレと共に爆発するようにスタンドを揺るがせた。



 その大歓声が一瞬静まったように感じた刹那、闘志を漲らせた各馬を抑えていたゲートが開け放たれた。


『スタートしました!』


 実況アナウンスが始まると共に再び湧き上がる歓声。それを一身に浴びながら、テイオーは軽々と500キロに近い馬体を加速させてゆく。


 左回りにコースを約一周する、距離2400mのレース。素早く先団に取り付いたテイオーは僕の目の前を駆け抜け、1コーナーへと飛び込んでいった。


「よしっ、よしっ!」


 絶好のポジションだと思えた僕は、ありったけの声を上げて自分に、そしてテイオーに言い聞かせる。もちろんそれは歓声の洪水の中にあっては一つの泡程のものでしかない。


 それでも僕は興奮を抑えきれずに終始誰に言うわけでもなく声を発していた。


 レースは中盤。特に動きはなく、遠い向こう正面の状況はターフビジョンに頼るほかない。場内アナウンスも坦々と馬名を読み上げるだけで硬直した状態を物語っていた。


 そして迎えた3コーナー。たった一頭に許された栄光のゴールを目指し、ここから様相は一変する。


 後方に控えていた騎手が激しく手綱をしごくと馬はペースを上げ、中団の馬も併せてペースを上げる。整然と隊列を組んでいた馬群は瞬く間に横に広がり、襲い掛かる騎馬隊のごとく怒涛の進撃を開始した。


 場内アナウンスが忙しく入れ替わる馬名を告げトーンを急上昇させると、再びスタンドが湧き上がる。一団となり4コーナーから馬群が飛び出すと、その歓声は喉を裂くような怒号へと変わった。


「来い!」

「差せー!」

「そのままっ!」


 思い思いの馬券に沿った雄叫びが飛び交うなか、僕は肝心のテイオーの姿を見失っていた。


 歓声の濁流に飲み込まれ、心臓を誰かに押しつぶされるような不安に支配される。希望が粉々に打ち砕かれたような絶望感が僕を支配した。


(どこだ! テイオーは……まさか馬群に沈んだのか?)


 僕は周囲の人たちとは裏腹に声を出せないでいる。必死に目を凝らすその時、耳に飛び込んできたのは一際高いトーンで実況するアナウンサーの声――


『先頭はナチュラリズム! ナチュラリズム先頭……』


 追い討ちをかけるようなアナウンスだったが、続いた名前は僕を狂喜させるものだった。


『外からトウカイテイオー! トウカイテイオー二番手!』


(あれかっ!)


 ようやく見つけたその勇姿。先頭に躍り出たナチュラリズムにビッシリ馬体を併せにかかったトウカイテイオーがそこにいた。


「うおおおー、テイオー! テイオーっ!」


 僕の興奮はここに来て最高潮を迎えた。あらん限りの声で恋人の名を叫ぶ。その恋人は美しい流星をオレンジに染め、一足だけソックスをはき忘れた四肢も伸びやかにターフを駆け抜けてゆく。


 一完歩、一完歩……テイオーが馬体をついに並べた。


「差せえー! テイオー!」


 我を忘れて僕は叫び続ける。怒涛の歓声、響く馬蹄、唸る鞭、騎手も馬も火花を散らして勝利を目指す。


 その中で彼は主張する。


『俺が帝王なんだよ』


 そんな威厳を放ちながらテイオーはグイと先頭に躍り出た。そして地鳴りのような大声援を受けながら、テイオーは栄光のゴール板を突き抜けたのだ。


「よぉぉっしゃあーっ!」


 僕は一際大きく吠え、馬上の老獪な騎手は珍しく渾身のガッツポーズを見せた。スタンドの声援は歓喜に満ち、アナウンスは何度もテイオーの名を呼び讃えている。


 そんな興奮の渦の中で、僕とトウカイテイオーのファーストエピソードは幕を閉じた。無論、帰りの車中では何度思い出してにやにやと顔を弛ませていたことか分からない。


 ただ、鮮やかに脳裏に刻まれたオレンジの風景が、僕の一生の宝物になったことだけは確かだった。


 そして深く刻まれた思い出のワンシーンは、トウカイテイオーに対する想いを更に強くさせる事になったのだ。

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