4.嵐の前
1990年11月中旬
成仁たちは砂漠で訓練を続けて、この日本とはまったく異質の環境における戦闘について感触を得つつあった。アメリカやイギリスとの協同訓練を繰り返し、練度はたちまち上昇した。
勿論、砂漠ゆえの問題も発生した。例えば細かい砂が戦車や装甲車の機械部に入り込んで傷つけた。それには本土から特殊フィルターを運んで、ラジエターに装着することで解決した。しかし砂漠用迷彩はなかなか届かなかった。
その間も国際社会はイラクに対してクウェートからの撤退を訴えたが、イラクは国内に勾留された在留外国人―事実上の人質である多国籍軍に対する“人間の盾”であった―を解放して国際世論を宥めつつクウェートからの撤退を断固拒否していた。
イラクにとって予想外であったのはソ連にほとんど動きが見られなかったことだ。ソ連にしてみれば昨年のクーデター以来国内はゴタゴタしている上に、新米国は勿論のこと反米的傾向の強い中東や第3世界の国々まで反イラクの立場に立った現状で公然とイラク支持ができるほどソ連首脳部は空気が読めないわけではない。クウェート撤退とパレスチナ問題をリンケージしようというイラクの主張に表面上は賛同しつつ、具体的な行動はなにもしなかった。
そして多国籍軍はその間も戦争の準備を着々と進めていた。アメリカ陸軍は本国より第3軍団が到着し始めた。第3軍団は戦略予備部隊であり、また強力な戦車部隊が集中配備されたアメリカ軍最強の機甲軍団である。湾岸危機に際しては、第1騎兵師団、第3戦車師団、第1機械化歩兵師団の3個師団と第3機甲騎兵連隊、軍団砲兵などの諸部隊が派遣された。イギリス陸軍第1機甲師団も到着し、日本の近衛師団とともにこれらの機甲部隊は多国籍陸軍の主力を担ったのである。さらにペルシャ湾や紅海に配置されたアメリカ海軍空母は3隻から6隻に増強され、日本海軍の空母<大鷲>と戦艦<大和>を中心とする第1艦隊も到着した。イラク包囲網がまさに完成しようとしていた。
しかし、イラクもまたクウェートやその周辺に強大な陸軍部隊を送り込み防備を固めていた。強力なアメリカ軍といえども正面から突破を図れば数万人の戦死者が出ると予想された。
戦争の気配が徐々に近づく中、各国で反戦運動が盛り上がりつつあった。アメリカでは大統領の支持率が最低になり、日本でも軍事介入に対する反対の声が日に日に強まっていた。アメリカでは今でもベトナム戦争の敗北の影響が色濃く、日本においても“あの30年”から大陸からの大撤退までの記憶から海外における軍事介入には消極的な姿勢を人々は示していた。
そんな本土の話はサウジアラビアで訓練を続ける日本軍の兵士にも伝わっていた。
夕方。訓練を終えて砂漠の一角で成仁は戦車の上で座って砲塔にもたれて休息をとっていた。そこへ津田大尉がやってきた。彼は成仁の戦車に飛び乗ると、横に腰掛けた。
「調子はどうだ?」
「ようやく暑さには慣れた」
津田は成仁の答えに同意するように頷いた。
「俺もだ。だが日が沈むと一気に寒くなるのは辛いな」
砂漠は暑いと思われがちだが、それは昼間だけの話である。砂漠の温度を保つ力は低く、日光の無い夜には急速に冷える。
津田は本題を切り出した。
「ところで、もしかしたら本国に帰れるかもしれないぞ」
「じゃあ例の噂は本当か?」
「あぁ。現政権の支持率が最低記録をまた更新したよ。臣民は戦争を嫌がっている。野党も強気だ」
成仁は津田の言葉を聞きながら議会で総攻撃を受ける政権与党の姿を容易に思い浮かべることができた。今月はじめにはイラク大統領は日本政府に中曽根元首相のイラク来訪を要請し、手土産としてイラクが勾留していた人質の日本人が釈放された。こうしたイラクの行動によって多くの日本人はもう日本がイラクと戦う理由はないと考え始めていたのだ。
「右翼も左翼も戦争反対で固まっている。こういう時に限って一致団結するんだよ、あいつらはさ」
左翼は戦争そのものへの反対という立場から、右翼はアメリカのために戦争をすべきではないという反米思想から、湾岸危機への軍事介入に反対していた。四面楚歌の政府の意思は揺らぎつつあった。
「だが撤退するわけにはいかない」
成仁の決然とした言葉に津田は無言で頷いた。ここから立ち去るわけにはいかない。政府、軍部の共通の想いであった。これは単なる他所の国のための戦争ではない。世界秩序の維持という帝國の国益の根幹を守るための戦いであり、大国としての責務を果たすための戦いなのだ。
「なぁ。戦争は避けられないと思うか?」
津田の問いに成仁は首を振った。
「分からない。だが避けられないような気がする」
成仁の予感は当っていた。イラクがなんらかの行動をする度に日本のマスコミは“戦争回避”“情勢緩和”などと高らかに叫んでいたが、まったくの的外れであった。イラクは世界世論を宥めようと様々な策を打ち出したが、クウェートからの撤兵は頑として受け入れようとしなかったのだ。そして国際連合はそれに対する懲罰の用意をしていた。
1990年11月29日 ニューヨーク国際連合本部
その日、安全保障理事会では1つの決議が採択されようとしていた。理事国の大使たちが決議案の賛否を投じた。結果は14ヶ国の理事国のうち、12ヶ国が賛成票と投じ、反米的な2ヶ国が反対票を投じた。国連安全保障理事会決議678が採択された瞬間であった。それはイラクが来年の1月15日までに撤退しなければ、クウェートの解放を達成するために加盟国にあらゆる手段を講じることを認める、即ち武力行使を認めるものであった。
遂に国際社会がクウェート奪還に向けて、後に湾岸戦争と呼ばれる戦いに向けて動き出した瞬間であった。