3.出発
釧路港での戦車の積み込みから1週間が経とうとしていた。それまでの間、成仁と中隊の面々は他所の部隊から戦車を借りて訓練に励み、いよいよ戦場へと出発する時が訪れた。
釧路飛行場に集結した戦車第1連隊の面々は軍が日本航空輸送社からチャーターしたジャンボジェットに乗り込んでいた。連隊長の姶良彰彦中佐を筆頭とする将校たちはファーストクラスの席が宛がわれて成仁は窓際の席に座り、隣には副隊長の上月が座った。
「大尉殿。陛下に直訴したって本当ですか?」
そう聞かれると成仁は溜息をついた。
「もう噂になっているのか?」
成仁の言葉に上月は頷いた。
「私は“中央”といったら参謀総長あたりだと思ったんですけど、まさかねぇ」
「私はそう思っていたよ。だが、結局そういうことになった」
それを聞いた上月はくすくす笑い始めた。
「良かったじゃないですか。陛下の御意志なら誰も逆らえませんよ」
下士官兵はエコノミークラスが宛がわれていた。酒巻はうたた寝をしていた。すると隣の席に座る兵の肘が酒巻に当った。
「ん?」
目を覚ますと、目の前のテレビ画面で映画が流されていた。摩天楼の中を巨大な自由の女神が闊歩している。
「なんだこりゃ」
それを聞いた隣の兵士が、酒巻が起きたことに気づいた。
「すまん。起こしたか」
「いや。大丈夫です。なんすか?これ」
「これからクライマックスだよ」
出発からほぼ1日の時間を経てカタールのドーハ空港に着陸した。カタールは親米英の国家で、湾岸危機に際しては反イラクの立場を取って多国籍軍の重要な拠点となっていた。
彼らを出迎えたのはまず中東の茹だるような暑さであった。しかし日本と違い湿度は低く直射日光さえ避ければ日本よりすごし易いかもしれないと成仁は思った。そして次に出てきたのは先に派遣された第1挺身団の面々であった。
「お待ちしておりました」
出迎えたのは稲村という名の中尉であった。稲村は連隊の指揮中枢と中隊長たちを集めてバスに乗せた。
バスが向かったのはカタールのアメリカ軍基地で、その一角に日本陸軍派遣部隊司令部が置かれていた。一行はその中の会議室へと案内され、派遣部隊指揮官である藤川直人中将と近衛師団長の高良一郎中将が彼らを迎えた。2人とも迷彩服姿で、ここが前線であることを示していたが、成仁は2人の着ているのが日本本土での戦いを想定した森林迷彩仕様であることが気になった。一行が敬礼をすると2人は答礼した。
「ようこそ中東へ」
それが藤川中将の第一声であった。
「既に知っていると思うが、イラクがクウェートへと侵攻し、現在は中東地域に同盟各国の部隊が続々と集結している。我々の目下の任務はサウジアラビア防衛である。我が国の消費する石油の多くはサウジアラビアより輸入されており、その防衛は国家の根幹に関わる。その点を肝に銘じ、任務に励むように」
それに続いて高良中将が引き続いて言葉を述べた。
「現在、近衛師団はアメリカ中央軍の指揮下にある。補給及び人事は派遣軍司令部が担うが作戦行動はアメリカの統制下で行なわれる。他国軍の指揮下で戦うことに戸惑いを覚えると思うが、これは我が国一国の問題ではなく世界秩序の問題である。そのことを胸に刻み、国際社会の一員として自覚を持って欲しい」
2人の中将が話を終えると、近衛師団の幕僚が詳しい説明をはじめた。資料を配り、部屋を暗くして、プロジェクターのスイッチを押した。スクリーンに映されたのはイラクとクウェートの地図で、部隊記号がつけられてイラク軍の配置を示している。
「中東情勢に詳しくない者が多いと思うので、まずイラク軍について述べよう。イラクは中東随一の軍隊を保有し、その陸軍兵力は世界第4位である。59個師団から成り、兵力は95万人に達する。さらに現代では予備役兵を動員し、兵力は拡大しつつある」
幕僚は指示俸でクウェートを示した。
「現代、イラク軍はクウェートに最低でも10個師団以上の兵力を配置し、後方にも同程度の陸軍部隊を待機させている。この配置は偵察情報によりもので精度は高くないが、イラク軍がクウェートに大兵力を配置しているのは間違いない」
スクリーンの映像が変わった。映っているのはソ連製戦車T-72の写真である。
「君たちがもっとも警戒すべき敵はこのT-72である。重量は41t。主砲は125ミリ砲で、徹甲弾、対戦車榴弾に加えて対戦車ミサイルを発射する能力を持つ。また装甲には複合装甲を備えていると思われる」
戦車乗りたちの緊張が高まった。T-72は彼らの装備する四四式戦車を開発する上で仮想敵に挙げられ、それを上回ることを目指したのである。まさに宿敵である。
「T-72を装備しているのはイラク軍の精鋭である共和国防衛隊だ。彼らこそ我が師団にとって最大の脅威である。ただしT-72と交戦した経験を持つイスラエルの報告によると、ソビエトがアラブ諸国に供給しているものは性能を落としたモンキーモデルで、本国仕様に比べて火力、防御力の双方で劣っていると思われる」
スクリーンの映像が再びイラク軍の配置図に戻った。
「共和国防衛隊は現在もクウェート国内に配置されている。現在のところサウジアラビア方面への攻勢を示す予兆は確認されていないが、警戒が必要である」
プロジェクターの電源が切られ、再び部屋の照明が灯った。
「なにか質問はあるかな?」
1人の中隊長が手を挙げた。
「クウェートの奪還作戦は行なわれるのですか?」
「それはなんともいえない。外交交渉の結果次第だろう。実行される場合は事前に国連決議が出る筈だから、突然ということは無い」
別の中隊長が手を挙げた。
「我が方の戦力はどうなっているんだ?」
「多国籍軍の戦力が集結しつつある。地上軍を派遣しているのは列強諸国では我が国とアメリカの他にはイギリスとフランスだ。アメリカ軍は第18空挺軍団の主力がほぼ展開を完了している。2個空挺師団に1個機械化歩兵師団だ。さらにまもなく第1騎兵師団が展開を完了する。アメリカはさらに本国から第3軍団をサウジアラビアに派遣する計画だ。イギリス軍はライン軍団から戦力を抽出して1個機甲師団を編成し、サウジアラビアへの派兵準備を進めている。フランスは第6軽機甲師団を展開済みだ。アラブ諸国軍も集結しつつある」
ライン軍団とはイギリス軍のドイツ駐留部隊のことである。
「指揮系統は一本化されているのですか?」
その質問に幕僚は口篭もった。
「日本軍及びイギリス軍はアメリカ中央軍の指揮下にあるが、フランスは独自の指揮系統の下で動いている。アラブ諸国も宗教上の問題からアメリカ中央軍指揮下で戦うことに難色を示すだろう」
戦争を戦い抜くには指揮系統を一本化して全ての部隊が同じ原則、目標の下で戦うことが不可欠である。しかし、その軍事の常識は政治、そして文化という壁の前に崩れていた。
「砂漠戦に必要な戦訓、情報は十分に用意されているのか?」
次に質問をしたのは戦車第1連隊指揮官である姶良中佐である。
「第二次大戦時におけるイラク戦線の記録は残っているし、陸軍は石油危機以来、中東事変への介入を想定した研究を続けている。しかし如何せん十分とは言えない。不足部分はアメリカ中央軍の指導を受ける」
そして最後に成仁が手を挙げた。
「我が連隊は近衛師団との連携した経験が乏しい。師団の他の部隊との訓練は十分に可能なのですか?」
その質問に対して幕僚は自信ありげに答えた。
「その点は大丈夫だ。さっきも述べたようにイラク軍の更なる侵攻がなければ攻勢まで十分な練成期間を得られる見込みだ。既に訓練用の拠点も確保している」
それから成仁は続けて尋ねた。
「それと皆様は森林用迷彩を着ていらっしゃるが、砂漠用の野装は用意されているのでしょうか?」
幕僚がまた顔を曇らせた。
「現在調達中だ。いずれ届くと思う」
石油危機以来研究を続けてきたと言っても対ソ戦第一の陸軍部内では中東事変の扱いは低いのが実情で、本気で準備をしていたとは言いがたい。その結果が砂漠で戦う服さえないという現状である。成仁は頭を痛めた。