15.砂漠の剣
2月24日 サウジアラビア サムライ旅団陣地
午前3時、サムライ旅団の将兵達は寒さに震えながら、それぞれの戦車や装甲車両に乗り込んで、司令部のGOサインを待っていた。
砂漠は保温性が低く、昼になれば灼熱の太陽が大地を暖めて急激に気温を上げるが、夜になればその熱はあっという間に放出されてしまい冬のような寒さになってしまう。日本陸軍の将兵達はその急激な温度変化に悩まされていた。成仁もその1人だ。
成仁は防寒着を着込んで戦車の中で丸くなっていた。口からは白い息を吐き出し、連隊本部から連絡を待っていたのだ。そして時間通りに連絡が入った。
伝令の乗ったバイクが防御円陣を組んでいた成仁の中隊へとやって来た。伝令兵は敬礼をして最低限の言葉だけを口にした。
「閑院宮大尉。連隊本部より命令です」
成仁が答礼をして書類袋を受け取ると、伝令は「確かにお渡ししました」とだけ言葉を残した立ち去った。書類袋を開け、命令文を覗くと簡潔な命令が書かれていた。
“本日開戦。新たな命令を受領後、ただちに計画通りに行動を開始せよ”
成仁は計画を思い出した。海兵隊がサダムラインに穴を開けるまで待機するように書かれていた筈だ。つまり命令受領前も受領後も待機である。
午前4時 第一海兵遠征軍戦区
近衛師団からサムライ旅団には三一式自走砲大隊1個とMLRS装備の野戦重砲兵大隊1個が配属されているが、それらの砲兵部隊は今、アメリカ第2海兵師団の直属になっていて、他の海兵隊砲兵部隊とともに師団火力指揮所のGoサインを待っていた。そして、それはすぐにやって来た。
<各自照準済みの目標に対して砲撃を開始せよ。撃ち方始め!>
海兵隊2個師団の砲兵隊、それに配属された帝國陸軍の砲兵隊が割り当てられた目標に対して一斉に砲撃を開始した。完全に統制された砲撃はほぼ同時にそれぞれの目標に着弾し、イラク軍に対応の隙を与えなかった。
その砲撃の下を海兵隊の戦闘工兵部隊を中心にされた部隊が進んだ。アルファ突破口支隊と命名されていて、サダムラインに穴を開けることが任務であった。
イラク軍は海兵隊の前面に二重の防御ラインを敷いており、早速最初の防御ラインの突破に取り掛かった。地雷除去装置を装着したM1A1戦車を先頭にして突破部隊が進撃する。後方には地雷処理用ロケットを装備したAAV-7が続く。
AAV-7からロケットが発射される。ロケットは後ろに地雷爆破用の爆薬を括りつけたワイヤーを繰り出しながらイラク軍の陣地の上に落ちた。次の瞬間、爆薬が一斉に爆発して地雷を誘爆させる。こうしてワイヤーの長さの分だけ“安全な道”ができることになる。
そこへM1A1戦車が突っ込んだ。戦車の前面には地雷除去装置、外見は鋼鉄の回転鋤で農耕具にも見える。これが地面の下を掘って地雷を破壊するのである。するとM1戦車の前で小爆発が起こった。ロケットが破壊し損ねた地雷がM1A1戦車の地雷除去装置に引っかかったようだ。
一方、イラク軍も海兵隊の進撃を止めようと動き出した。車体を壕の中に隠し砲塔だけ出したT-55戦車がM1A1戦車を狙った。しかし、興奮していた乗員は最も装甲の厚い砲塔正面に照準を合わせてしまうという致命的なミスを犯してしまった。古い100ミリ砲ではM1A1戦車の複合装甲を破れるわけもなく、逆に120ミリで粉砕されてしまう始末だった。
だが、犠牲が無かったわけではない。幾重にも行われた地雷除去の取り組みを生き残った地雷の数が少なくなかったのである。数両の戦車が地雷を踏んで破壊され、乗員が犠牲になった。また予想外に厳重な地雷原に遭遇し、その地点の突破を断念せざる得ない時もあった。
このように障害に直面しつつも、海兵隊は確実にイラク軍の陣地を侵食していった。ただ、それでも突破口を完全に切り開くのは午後になりそうだった。
同刻 第18空挺軍団戦区
サウジアラビアの最も奥地に配備されたのはアメリカ陸軍の誇る緊急展開部隊である第18空挺軍団であった。彼らには“砂漠の剣”作戦に際してクウェートとイラク中心部バグダットを繋ぐ国道を封鎖し、イラク軍の退路を絶つ任務が与えられていた。
その先鋒を担ったのはアメリカ軍部隊ではなく配属されたフランス軍部隊で、AMX-30B戦車とアメリカ軍空挺旅団によって増強された第6軽機甲師団であった。
ペルシャ湾からはるかに奥地に入った地区で多国籍軍が攻勢を行うとはイラク軍もまったく予想しておらず、フランス軍は国境線を難なく突破してイラク領内に侵入した。先頭を進むのは世界に名だたる外人部隊の装甲車部隊で、105ミリ砲を搭載する装輪装甲車AMX-10RCを保有する第1外人騎兵連隊である。AMX-10RCの群れは装輪の高速巡航能力を生かして砂埃をあげながら砂漠を疾走していた。
進撃するフランス軍の後方ではアメリカ軍部隊はより大規模をはじめようとしていた。彼らは戦車や装甲車を使うわけでも、トラックに乗っていくわけでも、ましてや徒歩で進むわけでもない。空を進撃するのだ。
この時、動員されたヘリコプターは200機を超えていた。主力となるのはUH-60中型多用途ヘリコプターとCH-47大型輸送ヘリコプターで、どの機体にも第101空中機動師団の兵士たちを満載していた。彼らの任務は第18空挺軍団の進撃路を確保し、補給拠点を設けることだ。
同刻 ルーキー・ポケット 近衛師団陣地
1個旅団を欠いたままの日本陸軍近衛師団は相変わらずルーキーポケットに陣取って、多国籍軍部隊の主攻の攻撃地点を欺瞞すべく陽動攻撃を続けていた。
砲撃でイラク軍の見張り台や施設を潰し、対戦車ヘリコプターで陣地を攻撃し、戦車で接近して砲撃を食らわせる。こうした攻撃を積み重ね、近衛師団は多くの戦果をあげた。投降者も多かった。
しかし近衛師団司令部の面々は満足していなかった。彼らはこの戦争を囮の役割だけで終わらせたくなかったのだ。ブラッドソー中将はサダム・ライン突破後に近衛師団を第3軍団に配属し、主攻撃に参加させることを約束してくれたが、必ずしも予定通りにいかないのが戦争というものだ。だから司令部の面々の焦燥感は高まっていた。
第3軍団戦区
“砂漠の剣”の主力部隊であるアメリカ陸軍第3軍団も突入地点の前に集結を完了していた。彼らはイラク軍が国境線に設けた見張り台から見えないように距離を保っていた。制空権は既に多国籍軍が押さえ、無線の使用も最小限に抑えているので、それだけの努力でイラク軍から第3軍団の動きを容易に隠せるはずである。
海兵隊とアラブ統合軍がクウェートの前面から攻撃を仕掛けることで、多国籍軍の攻撃はクウェートに対して行なわれるとイラク軍は思い込み、その遥か西にいる第3軍団に対してはまったく無警戒になる筈だ。
日付が変わるとともに軍団工兵がサダムラインの最初の防御線に進撃路を開設する作業を始めた。これをイラク軍の眼から隠すのは難しいが、クウェート正面で海兵隊が派手に行動しているので、こちらの方は陽動と捉えたようで特に対抗措置はとらなかった。
かくして第3軍団はイラク軍の第一線を越えて最初の一歩を進めた。しかし、その先のサダムライン守備隊の主陣地に対してはまだ攻撃を仕掛けない。彼らの本格的な攻勢は明日未明から行われることになっていた。
1991年2月24日、多国籍軍地上部隊は遂に全面的な攻勢に突入した。
今年のNORADトラックスサンタはあまり楽しめませんでした。
(2012/3/7)
史実にあわせて第3軍団戦区の内容を変更。