「あなたの名前は用済み」と商品札から消されたパン職人。それでも焼き続けた架空の常連への『二斤目』が、無口な男爵様を店へ連れてきました——明日からは、本物のあなたのぶんです
【商品札から消えた名前】
痛い。
指を切ったわけではない。焼き上がった胡桃パンの隣で、新しい商品札が、私の名前だけをきれいに食べていた。
『ドナ考案 朝焼き胡桃パン』
共同で作ったパンなのに、共同の片方だけが札から消えた。ずいぶん器用な焦がし方である。表面だけ見れば香ばしく、中はきっちり生焼け。食べれば腹を壊す種類の器用さだ。
「札、書き直したの?」
「ええ。売り場は文字が少ないほうが見やすいでしょう?」
ドナは布巾で陳列台を磨きながら、客へ向ける形のよい笑顔を私にも半分だけ分けた。なるほど、私の名前は余分な文字。胡桃を蜂蜜水に浸す時間も、全粒粉の割合も、窯へ蒸気を入れる工夫も、文字数には数えられないらしい。
「そう。じゃあ次は胡桃も消してみる? もっと見やすくなるわ」
「味まで消す必要はないでしょう」
味は要る。私はいらない。たいへん簡潔でよろしい。
私は返事の代わりに、仕込み台へ戻った。一斤目の生地を丸め、その横へ同じ重さの生地をもう一つ置く。掌で張らせた表面はつるりとしていて、作り手よりよほど面の皮が整っている。
一斤目は店の商品。二斤目は、売れ残れば材料代を私が払う。最初から一つにすれば損はないのだが、毎朝二つ焼く手順を、私の手は頑固に覚えてしまっていた。
いいのだ。二斤目には常連がいる。顔も声も来店歴もないが、私が注文帳へ書く短い感想だけはある。
『皮が厚くて好みだった』
昨日の欄の下へ、今日は『胡桃の甘さがよかった』と書き足す。長文は嘘が膨らみすぎる。嘘にも適正発酵というものがあり、膨らませすぎれば窯の中で潰れるのだ。
「また二つ焼いたの?」
ドナの声が背中へ刺さる。私は帳面を閉じ、焼き上がった二つを並べた。
「二斤目は、常連さんのぶんです。」
笑えば傷は見えにくい。粉を振れば焦げ目が目立たないのと同じである。たぶん。パンについてなら私を信じてほしいが、それ以外については、あまり強くおすすめしない。
* * *
【画室の扉に貼られた一頁】
その日の昼、ドナは客の前で注文帳を開いた。嫌な予感はした。彼女の指先が頁をめくるたび、私の胃袋で生地が過発酵していく。やめて、そこは窯へ入れてはいけない生地です。
「クインティン男爵。皮が厚くて好みだった」
整った売り子の声で読み上げてから、ドナは私を見た。
「ずいぶん熱心なお客様ね。どなたが応対したのかしら?」
「朝早い方だから」
「私も毎朝、売り場にいるけれど」
「では、あなたが粉袋へ潜っている間に」
「そんな間はないわ」
しまった。粉袋へ潜らない人間には通じない言い訳だった。
ドナは頁へ鼻先を寄せた。『皮が厚くて好みだった』の行を爪でなぞり、笑みを少しだけ深くする。客前用の笑顔へ胡椒を一振り。私にだけ辛い。
「いないお客様に褒めてもらえば、売れ残りも寂しくないものね」
注文帳を取り返そうとした私より先に、紙の裂ける音がした。綴じ糸ぎりぎりから、架空の常連が一頁まるごと剥がされる。
「返して」
「どうして? お客様の感想でしょう?」
「店の帳面よ」
「店の帳面なら、店主の娘である私が扱っても問題ないわね」
こういう時だけ共同なのだ。パンの功績は一人分、恥は共同財産。ドナ式の配合は実に経済的である。
彼女は頁を二つ折りにし、外套を取った。向かった先を見て、私の足から血の気が引く。
通りの端に、何年も鎧戸を閉じたままの画室がある。クインティン男爵が使っていた場所だ。私は彼の名を、来るはずのない人の名前として帳面へ借りた。閉ざされた扉なら、嘘が入っていって本人を連れ出すこともないと思ったのだ。
思ったのだ。嘘の足腰を甘く見ていた。こいつ、私より健脚である。
「ドナ、待って。それは私が書いたものだから」
「ええ。だから、ご本人に読んでいただきましょう」
画室の扉には、古い釘の跡がいくつも残っていた。ドナはそこへ頁を押し当て、店から持ってきた糊で四隅を丁寧に貼った。仕事がきれいだ。腹立たしいほど、気泡一つない。
私は端へ爪を差し込んだ。まだ湿った糊が指につく。けれどドナが上から手を重ね、私の爪を扉から外した。
「剥がしたら、隠したかったと認めることになるわよ」
「貼った時点で、あなたが意地悪だとは認められるけど」
「お好きに」
ドナは形のよい笑顔のまま店へ戻った。私は扉に残され、紙の中のクインティン様と向かい合う。
『皮が厚くて好みだった』
知らない男爵へ勝手に厚い皮を食べさせていた女は、しばらく剥がせなかった。糊ではない。臆病は、なかなか強力な接着剤だった。
* * *
【受け取りに来た架空客】
翌朝、二斤目を窯から出したところで、入口の鈴が鳴った。
黒い外套の男性が立っていた。畳まれた帳面の頁を片手に持ち、私と陳列台を交互に見る。笑ってはいない。怒ってもいない。機嫌が発酵前すぎて、粉なのか生地なのかも判定できない。
「この頁を書いたのは、あなたですか」
「はい。フィービーです。焼いた者も、書いた者も、逃げたい者も私です」
「三人いるのですか」
「いま一人にまとめました」
男性は頷いた。冗談を受け損ねたのか、事実として処理したのか。たぶん後者だ。彼は頁を開き、最初の一行を指で示した。
「私は、そんなに皮の厚いパンを好むことになっているのですか」
来た。架空客ご本人による味覚の問い合わせ。私の背中で冷たい汗が一斉に開店した。
「クインティン様、ですよね」
「はい」
「大変申し上げにくいのですが、その感想を書いた時点で、クインティン様の舌は私が無断で管理しておりました」
「私が食べたという記録もあります」
「胃袋まで管理しておりました。たいへんな越権行為です」
「では、私は食べていない」
「一口も」
「皮が厚いのが好みでもない」
「存じません」
「毎朝来てもいない」
「見事に一度も」
答えるたび、私の背丈が指一本ずつ縮んでいく。最後には陳列台の陰へ収納できそうだ。小麦粉と一緒に保管してください。湿気厳禁です。
クインティン様は頁を畳み直した。笑わない。責めない。そのほうが困る。怒鳴られれば謝罪を焼いて差し出せるのに、沈黙は焼成温度がわからない。
「なぜ、私の名前を?」
「来ない方だからです」
ひどい答えが、包まずに出た。私は慌てて続ける。
「画室はずっと閉まっていて、店にもお見えにならないので、その、絶対に帳面を見ない方だと。安全な架空客に向いていると申しますか」
「安全」
「私にとってだけでした。クインティン様には災難です」
彼の視線が、商品札へ移った。『ドナ考案』の下には何もない。次に二斤の胡桃パンを見比べ、右側を指す。
「こちらが、私のぶんですか」
「架空のクインティン様のぶんです。実在のクインティン様には、まだ何も」
彼は財布を出した。硬貨が一枚、二枚、陳列台へ置かれる。材料代に足りる額を、きっちり。
「では、実在の私が買います」
「同情なら、半斤で十分ですよ」
「一斤を買うのに必要な額を払いました」
「皮が厚いかもしれません」
「それを確かめに来ました」
クインティン様は二斤目を持ち上げた。私の手から紙袋を受け取る前に、帳面の頁を差し出した。私は綴じ糸の切れ目へ、その一頁を挟み戻した。
鈴が鳴り、黒い外套が朝の通りへ消える。陳列台には二斤目の代金が残っている。硬貨をつついてみても消えない。幻ではないらしい。
困った。架空客が実体を得た。私の嘘、発酵力が強すぎる。
* * *
【毎朝の二斤目】
翌朝、鈴が鳴った。
「皮はいかがでした?」
「厚かったです」
「お好みでした?」
「まだ、好みがわかるほど食べていません」
クインティン様はそう言って、昨日と同じ額を置いた。残っていた二斤目を指すので渡すと、紙袋の重さを確かめるように一度持ち直す。
「今日は少し薄くしました」
「私の好みは不明なのでは?」
「職人の勘です」
「昨日、厚いかもしれないと言っていました」
「職人の勘は朝ごとに焼き直されます」
クインティン様の眉が、ほんの少し中央へ寄った。これは不機嫌ではない。たぶん私の言葉を真面目に捏ねている顔だ。そんなもの、捏ねてもまとまりませんよ。
その次の朝も彼は来た。感想は帳面へ書かず、代金を置き、私が余計なことを一つ言い終えるまで帰らなかった。私は彼が来る前に皮の焼き色を確認するようになったが、それは品質管理であって、断じて鈴を待っているわけではない。
その朝、彼は二斤目の底を見た。
「今日は焼き色が濃い」
「クインティン様の機嫌ほどではありません」
「私の機嫌は濃く見えますか」
「今朝は黒パン寄りです。何かありました?」
口から出てから、聞きすぎたと思った。彼の沈黙が硬くなる。皮を厚くしすぎた時と同じで、こちらから割れば中まで崩す。
クインティン様はパンの底から目を離さなかった。
「週末に、画室を処分します」
「建物を?」
「中にあるものも」
短い言葉の間から、閉ざされた扉が見えた。あそこには私の恥を貼られただけで、ほかには何もないと思っていた。来ない人を架空客にする時、来られない理由まで考えなかったのだ。
「未完成の家族肖像があります」
それだけだった。誰が描かれ、誰が欠け、なぜ未完成なのか。クインティン様は説明せず、私は質問を口の中で丸めた。食べられない生地は出さない。
「処分前に、片づけへ行きます」
「お一人で?」
「その予定です」
「では、昼食が余る予定を追加してもいいですか」
彼が顔を上げる。
「余るのですか」
「胡桃パンを二斤焼く癖がありまして。ご存じでしょうけど」
「代金は払います」
「片づけをする人から昼食代を取ったら、パン職人の面の皮が厚くなります」
「厚い皮が好みかは、まだ決めていません」
一本取られた。無口な人の冗談は、窯の奥で突然弾ける胡桃に似ている。油断すると熱い。
「では週末、判定してください」
クインティン様は少し考えてから頷いた。二斤目を抱え、鈴の向こうへ出ていく。
その朝、帳面は白いままだった。それなのに私は、何度も頁を開いてしまった。空欄というものは、書かれた嘘よりよほど騒がしい。
* * *
【週末を待つ閉ざされた画室】
週末、クインティン様は自分で画室の鍵を開けた。
扉の隙間から、乾いた油と埃の匂いが流れ出す。窓を覆う布が朝を止め、画架も椅子も薄暗がりの中で息を潜めていた。私が貼られた頁ばかり気にしていた扉の向こうに、彼の時間がそのまま積もっている。
クインティン様は窓の布を一枚だけ外した。差し込んだ光が、大きな画布の端へ届く。
何人かの姿が描かれていた。服の色、重なった手、輪郭まである横顔。その隣には、下描きの線だけが残る場所と、何も塗られていない余白があった。
「これが、家族肖像ですか」
「はい」
「未完成の」
「はい」
それ以上は聞かなかった。パンなら、足りない塩を足せる。発酵が弱ければ時間を置ける。けれど画布の余白へ、私の都合で誰かを描き足すことはできない。
クインティン様は木箱を開けた。束ねた紙、乾いた絵具、短くなった木炭を一つずつ分けていく。手袋の指先が黒く汚れ、触れた箱の縁へ細い跡がついた。
私は包みから二斤目を出した。作業台の端を借り、布を敷き、刃を入れる。ぱり、と皮が割れた音だけが画室を横切った。
「冷める前に、今日の皮だけ見てください」
クインティン様の手が止まる。
「絵ではなく?」
「私は絵のことがわかりません。わからないものを立派に慰めると、だいたい中が空洞になります」
彼は未完成の肖像を見た。私は切ったパンだけを見る。胡桃が片側へ寄っている。ああもう、こういう日に限って配合の公平性が死んでいる。けれど口には出さなかった。
「処分を止めないのですか」
「止めてほしいですか」
返事はなかった。
「私が止めたら、クインティン様は止められたから残すことになります。捨てたら、私の頼みを捨てたことになる。それはずるいです」
私は胡桃の多いほうを彼へ差し出した。せめてパンの不公平は私の権限で直せる。
「だから今日は、皮だけです。厚いか薄いか。私が引き受けられるのは、その判定まで」
クインティン様は手袋を外した。指先にも木炭が移っている。布で拭ってからパンを受け取り、肖像の前で一口かじった。
噛む。もう一度、噛む。
「昨日より薄い」
「お好みですか」
「まだ、比較中です」
生真面目にもほどがある。けれどその一切れを、彼は最後まで食べた。
片づけの終わりに、クインティン様は画布を処分する山へも、残す山へも置かなかった。壁際へ戻しただけだった。私は訊かなかったし、彼も説明しなかった。
帰り際、作業台には短い木炭が残っていた。何に触れたのか、何を描こうとしたのか、私には見えない。ただ、黒く汚れた手袋だけが、その隣に伏せてあった。
* * *
【帳面から消す常連】
週明けの朝、ドナは二斤目を見て口元を上げた。
「まだ焼いているのね」
「手が勝手に。解雇したいけど、腕から外すと困るのよ」
「男爵様は、あなたの嘘を見て気の毒になっただけでしょうに」
指が止まり、生地を移す板が窯口へ当たった。乾いた音が一つ鳴る。
「そうかもね」
「そうよ。閉じこもっていた方だもの。自分より惨めなものを見つけたら、少しくらい外へ出る気にもなるでしょう?」
ドナはそれだけ言って売り場へ戻った。いつもの笑いを含んだ断定。焼く前から中身を決めるのは職人失格だが、彼女はパン職人を名乗っていないので、失格になる資格すらない。
朝の時刻を過ぎても、入口の鈴は鳴らなかった。
私は二斤目を陳列台へ置いた。皮は昨日より薄い。胡桃はきれいに散っている。こんな日に限って会心の焼き上がりだ。パンというものは、食べる人の都合より窯の機嫌を優先する。実に薄情。
昼になっても、代金を置く手は来なかった。
同情だったのかもしれない。画室へ貼られた嘘を見て、いたたまれなくなっただけ。私が同行したせいで、もう十分に役目を果たしたと思ったのかもしれない。
それでも、三度来た。パンを受け取った。私の話が終わるまで立っていた。
だから余計に悪い。少量の本物を混ぜた嘘は、よく膨らむ。
閉店後、私は注文帳を開いた。『皮が厚くて好みだった』へ線を引く。次に『胡桃の甘さがよかった』を消す。文字は短いのに、一行ずつ刃へ変わる。
消した下から、紙の白さは戻らなかった。跡が残る。当然だ。帳面はパン生地ではない。丸め直して最初から、とはいかない。
最後の行へペン先を置いた。
『以後、二斤目はありません』
書く指は妙にまっすぐ動いた。こういう時だけ私の手は職人らしい。
明日の分は、すでに仕込んである。手が覚えた手順で作った最後の二斤目。それが売れ残ったら私が買う。自分で焼き、自分で払い、自分で食べる。話が一人で完結して、たいへん効率がいい。
帳面を閉じると、表紙が軽い音を立てた。
誰にも求められないパンを、誰かが待っているふりで守るのは、今日でやめる。嘘の常連には退店してもらおう。長居させすぎた。代金も払わないくせに、ずいぶんよく食べる客だった。
* * *
【木炭の手袋と本物の一行】
翌朝、私は二斤目を焼いてしまった。
仕込んであったのだから当然である。なのに窯から出した瞬間、裏切られた気がした。私の手は昨夜の決意を聞いていない。腕から外して説教したい。やはり外すと困るけれど。
一斤目を商品札の前へ置き、二斤目をその横へ置く。どちらも同じ焼き色なのに、右側だけ朝から取り残されて見えた。
鈴が鳴った。
顔を上げるより早く、黒く汚れた手袋が陳列台へ置かれた。指先から手首まで木炭の粉がつき、皺の間へ入り込んでいる。画室の作業台に伏せていたものだ。
クインティン様が立っていた。
外套の袖にも、薄く黒い筋がある。息が少し乱れているのに、彼は整えようともせず二斤目を見る。
「遅くなりました」
「一日と、少々ですね」
「昨日は画室にいました」
何をしていたのか、彼は言わなかった。私も聞かなかった。木炭の汚れは、何かが終わった証明ではない。ただ、閉ざしていた部屋で彼の手が動いた。その事実だけが、陳列台の上にある。
クインティン様は注文帳を指した。
「借りても?」
「架空の感想は、昨日すべて消しました」
「それでも借ります」
「どうぞ。まだ隠す暇もなかったので」
「隠すのですか」
「いまのは職人の軽口です」
「あなたの勘と同じものですか」
「それより少し信用できます」
彼は帳面を開いた。消した線の並ぶ頁を見ても、何も言わない。胸元から鉛筆を出しかけ、手袋へ目をやり、それを戻した。
代わりに、陳列台の手袋から短い木炭を取り出す。
「今日の皮を、先に確かめても?」
私は二斤目の端を切って渡した。クインティン様は一切れを口にし、飲み込んでから帳面へ向き直る。
黒い先が紙へ触れた。
『皮は週末より薄い。今日のほうが好きだ。明日も二斤目を』
一文字ずつ、彼自身の筆跡が並ぶ。私の作った褒め言葉より不格好で、短くて、言い逃れのできない一行だった。
クインティン様は木炭を置いた。代金をきっちり並べ、二斤目へ手を伸ばす前に、私を見る。
「明日も、あなたのパンを受け取りに来てもいいですか」
商品札には、まだドナの名しかない。
それでも彼は札を見なかった。帳面でも、売り場でも、架空の客でもなく、焼いた私の顔を見ている。
クインティン様の口元が、初めてほどけた。大きな笑顔ではない。固かった皮へ、湯気の逃げ道が一本できたような変化だった。
参った。これは反則だ。そんな顔で「あなたのパン」などと言われたら、明日の分どころか、明後日の酵母まで起こしたくなるではないか。
私は二斤目を紙で包んだ。角を折る指が一度だけ滑る。職人の手にも、たまには動揺する権利がある。
「皮はどうしましょう。今日より薄く?」
「今日と同じで」
「胡桃は?」
「同じで」
「焼き色は?」
「フィービーさん」
「はい」
「明日、決めます」
明日。
その一語が、売れ残りのための朝を、待ち合わせへ変えた。
私は包みをクインティン様へ差し出す。木炭のついた手ではなく、代金を置いた素手が受け取った。
「二斤目は、常連さんのぶんです。」
今度は、目の前にいる。
クインティン様は頷き、二斤目を抱えて扉へ向かった。鈴が鳴る直前、彼は振り返る。
「皮は、厚くても嫌いではありません」
「どちらですか、それ」
「比較中です」
扉が閉まり、朝の冷たい空気だけが少し残った。
私は帳面の本物の一行を指でなぞらず、開いたまま仕込み台へ戻る。粉を量り、水を温め、二斤分の胡桃を出した。
朝の仕込み台が、一人分だけ狭くなった。まったく、ありがたい営業妨害だ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




