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「あなたの名前は用済み」と商品札から消されたパン職人。それでも焼き続けた架空の常連への『二斤目』が、無口な男爵様を店へ連れてきました——明日からは、本物のあなたのぶんです

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/06

【商品札から消えた名前】


痛い。


指を切ったわけではない。焼き上がった胡桃パンの隣で、新しい商品札が、私の名前だけをきれいに食べていた。


『ドナ考案 朝焼き胡桃パン』


共同で作ったパンなのに、共同の片方だけが札から消えた。ずいぶん器用な焦がし方である。表面だけ見れば香ばしく、中はきっちり生焼け。食べれば腹を壊す種類の器用さだ。


「札、書き直したの?」


「ええ。売り場は文字が少ないほうが見やすいでしょう?」


ドナは布巾で陳列台を磨きながら、客へ向ける形のよい笑顔を私にも半分だけ分けた。なるほど、私の名前は余分な文字。胡桃を蜂蜜水に浸す時間も、全粒粉の割合も、窯へ蒸気を入れる工夫も、文字数には数えられないらしい。


「そう。じゃあ次は胡桃も消してみる? もっと見やすくなるわ」


「味まで消す必要はないでしょう」


味は要る。私はいらない。たいへん簡潔でよろしい。


私は返事の代わりに、仕込み台へ戻った。一斤目の生地を丸め、その横へ同じ重さの生地をもう一つ置く。掌で張らせた表面はつるりとしていて、作り手よりよほど面の皮が整っている。


一斤目は店の商品。二斤目は、売れ残れば材料代を私が払う。最初から一つにすれば損はないのだが、毎朝二つ焼く手順を、私の手は頑固に覚えてしまっていた。


いいのだ。二斤目には常連がいる。顔も声も来店歴もないが、私が注文帳へ書く短い感想だけはある。


『皮が厚くて好みだった』


昨日の欄の下へ、今日は『胡桃の甘さがよかった』と書き足す。長文は嘘が膨らみすぎる。嘘にも適正発酵というものがあり、膨らませすぎれば窯の中で潰れるのだ。


「また二つ焼いたの?」


ドナの声が背中へ刺さる。私は帳面を閉じ、焼き上がった二つを並べた。


「二斤目は、常連さんのぶんです。」


笑えば傷は見えにくい。粉を振れば焦げ目が目立たないのと同じである。たぶん。パンについてなら私を信じてほしいが、それ以外については、あまり強くおすすめしない。


    *    *    *


【画室の扉に貼られた一頁】


その日の昼、ドナは客の前で注文帳を開いた。嫌な予感はした。彼女の指先が頁をめくるたび、私の胃袋で生地が過発酵していく。やめて、そこは窯へ入れてはいけない生地です。


「クインティン男爵。皮が厚くて好みだった」


整った売り子の声で読み上げてから、ドナは私を見た。


「ずいぶん熱心なお客様ね。どなたが応対したのかしら?」


「朝早い方だから」


「私も毎朝、売り場にいるけれど」


「では、あなたが粉袋へ潜っている間に」


「そんな間はないわ」


しまった。粉袋へ潜らない人間には通じない言い訳だった。


ドナは頁へ鼻先を寄せた。『皮が厚くて好みだった』の行を爪でなぞり、笑みを少しだけ深くする。客前用の笑顔へ胡椒を一振り。私にだけ辛い。


「いないお客様に褒めてもらえば、売れ残りも寂しくないものね」


注文帳を取り返そうとした私より先に、紙の裂ける音がした。綴じ糸ぎりぎりから、架空の常連が一頁まるごと剥がされる。


「返して」


「どうして? お客様の感想でしょう?」


「店の帳面よ」


「店の帳面なら、店主の娘である私が扱っても問題ないわね」


こういう時だけ共同なのだ。パンの功績は一人分、恥は共同財産。ドナ式の配合は実に経済的である。


彼女は頁を二つ折りにし、外套を取った。向かった先を見て、私の足から血の気が引く。


通りの端に、何年も鎧戸を閉じたままの画室がある。クインティン男爵が使っていた場所だ。私は彼の名を、来るはずのない人の名前として帳面へ借りた。閉ざされた扉なら、嘘が入っていって本人を連れ出すこともないと思ったのだ。


思ったのだ。嘘の足腰を甘く見ていた。こいつ、私より健脚である。


「ドナ、待って。それは私が書いたものだから」


「ええ。だから、ご本人に読んでいただきましょう」


画室の扉には、古い釘の跡がいくつも残っていた。ドナはそこへ頁を押し当て、店から持ってきた糊で四隅を丁寧に貼った。仕事がきれいだ。腹立たしいほど、気泡一つない。


私は端へ爪を差し込んだ。まだ湿った糊が指につく。けれどドナが上から手を重ね、私の爪を扉から外した。


「剥がしたら、隠したかったと認めることになるわよ」


「貼った時点で、あなたが意地悪だとは認められるけど」


「お好きに」


ドナは形のよい笑顔のまま店へ戻った。私は扉に残され、紙の中のクインティン様と向かい合う。


『皮が厚くて好みだった』


知らない男爵へ勝手に厚い皮を食べさせていた女は、しばらく剥がせなかった。糊ではない。臆病は、なかなか強力な接着剤だった。


    *    *    *


【受け取りに来た架空客】


翌朝、二斤目を窯から出したところで、入口の鈴が鳴った。


黒い外套の男性が立っていた。畳まれた帳面の頁を片手に持ち、私と陳列台を交互に見る。笑ってはいない。怒ってもいない。機嫌が発酵前すぎて、粉なのか生地なのかも判定できない。


「この頁を書いたのは、あなたですか」


「はい。フィービーです。焼いた者も、書いた者も、逃げたい者も私です」


「三人いるのですか」


「いま一人にまとめました」


男性は頷いた。冗談を受け損ねたのか、事実として処理したのか。たぶん後者だ。彼は頁を開き、最初の一行を指で示した。


「私は、そんなに皮の厚いパンを好むことになっているのですか」


来た。架空客ご本人による味覚の問い合わせ。私の背中で冷たい汗が一斉に開店した。


「クインティン様、ですよね」


「はい」


「大変申し上げにくいのですが、その感想を書いた時点で、クインティン様の舌は私が無断で管理しておりました」


「私が食べたという記録もあります」


「胃袋まで管理しておりました。たいへんな越権行為です」


「では、私は食べていない」


「一口も」


「皮が厚いのが好みでもない」


「存じません」


「毎朝来てもいない」


「見事に一度も」


答えるたび、私の背丈が指一本ずつ縮んでいく。最後には陳列台の陰へ収納できそうだ。小麦粉と一緒に保管してください。湿気厳禁です。


クインティン様は頁を畳み直した。笑わない。責めない。そのほうが困る。怒鳴られれば謝罪を焼いて差し出せるのに、沈黙は焼成温度がわからない。


「なぜ、私の名前を?」


「来ない方だからです」


ひどい答えが、包まずに出た。私は慌てて続ける。


「画室はずっと閉まっていて、店にもお見えにならないので、その、絶対に帳面を見ない方だと。安全な架空客に向いていると申しますか」


「安全」


「私にとってだけでした。クインティン様には災難です」


彼の視線が、商品札へ移った。『ドナ考案』の下には何もない。次に二斤の胡桃パンを見比べ、右側を指す。


「こちらが、私のぶんですか」


「架空のクインティン様のぶんです。実在のクインティン様には、まだ何も」


彼は財布を出した。硬貨が一枚、二枚、陳列台へ置かれる。材料代に足りる額を、きっちり。


「では、実在の私が買います」


「同情なら、半斤で十分ですよ」


「一斤を買うのに必要な額を払いました」


「皮が厚いかもしれません」


「それを確かめに来ました」


クインティン様は二斤目を持ち上げた。私の手から紙袋を受け取る前に、帳面の頁を差し出した。私は綴じ糸の切れ目へ、その一頁を挟み戻した。


鈴が鳴り、黒い外套が朝の通りへ消える。陳列台には二斤目の代金が残っている。硬貨をつついてみても消えない。幻ではないらしい。


困った。架空客が実体を得た。私の嘘、発酵力が強すぎる。


    *    *    *


【毎朝の二斤目】


翌朝、鈴が鳴った。


「皮はいかがでした?」


「厚かったです」


「お好みでした?」


「まだ、好みがわかるほど食べていません」


クインティン様はそう言って、昨日と同じ額を置いた。残っていた二斤目を指すので渡すと、紙袋の重さを確かめるように一度持ち直す。


「今日は少し薄くしました」


「私の好みは不明なのでは?」


「職人の勘です」


「昨日、厚いかもしれないと言っていました」


「職人の勘は朝ごとに焼き直されます」


クインティン様の眉が、ほんの少し中央へ寄った。これは不機嫌ではない。たぶん私の言葉を真面目に捏ねている顔だ。そんなもの、捏ねてもまとまりませんよ。


その次の朝も彼は来た。感想は帳面へ書かず、代金を置き、私が余計なことを一つ言い終えるまで帰らなかった。私は彼が来る前に皮の焼き色を確認するようになったが、それは品質管理であって、断じて鈴を待っているわけではない。


その朝、彼は二斤目の底を見た。


「今日は焼き色が濃い」


「クインティン様の機嫌ほどではありません」


「私の機嫌は濃く見えますか」


「今朝は黒パン寄りです。何かありました?」


口から出てから、聞きすぎたと思った。彼の沈黙が硬くなる。皮を厚くしすぎた時と同じで、こちらから割れば中まで崩す。


クインティン様はパンの底から目を離さなかった。


「週末に、画室を処分します」


「建物を?」


「中にあるものも」


短い言葉の間から、閉ざされた扉が見えた。あそこには私の恥を貼られただけで、ほかには何もないと思っていた。来ない人を架空客にする時、来られない理由まで考えなかったのだ。


「未完成の家族肖像があります」


それだけだった。誰が描かれ、誰が欠け、なぜ未完成なのか。クインティン様は説明せず、私は質問を口の中で丸めた。食べられない生地は出さない。


「処分前に、片づけへ行きます」


「お一人で?」


「その予定です」


「では、昼食が余る予定を追加してもいいですか」


彼が顔を上げる。


「余るのですか」


「胡桃パンを二斤焼く癖がありまして。ご存じでしょうけど」


「代金は払います」


「片づけをする人から昼食代を取ったら、パン職人の面の皮が厚くなります」


「厚い皮が好みかは、まだ決めていません」


一本取られた。無口な人の冗談は、窯の奥で突然弾ける胡桃に似ている。油断すると熱い。


「では週末、判定してください」


クインティン様は少し考えてから頷いた。二斤目を抱え、鈴の向こうへ出ていく。


その朝、帳面は白いままだった。それなのに私は、何度も頁を開いてしまった。空欄というものは、書かれた嘘よりよほど騒がしい。


    *    *    *


【週末を待つ閉ざされた画室】


週末、クインティン様は自分で画室の鍵を開けた。


扉の隙間から、乾いた油と埃の匂いが流れ出す。窓を覆う布が朝を止め、画架も椅子も薄暗がりの中で息を潜めていた。私が貼られた頁ばかり気にしていた扉の向こうに、彼の時間がそのまま積もっている。


クインティン様は窓の布を一枚だけ外した。差し込んだ光が、大きな画布の端へ届く。


何人かの姿が描かれていた。服の色、重なった手、輪郭まである横顔。その隣には、下描きの線だけが残る場所と、何も塗られていない余白があった。


「これが、家族肖像ですか」


「はい」


「未完成の」


「はい」


それ以上は聞かなかった。パンなら、足りない塩を足せる。発酵が弱ければ時間を置ける。けれど画布の余白へ、私の都合で誰かを描き足すことはできない。


クインティン様は木箱を開けた。束ねた紙、乾いた絵具、短くなった木炭を一つずつ分けていく。手袋の指先が黒く汚れ、触れた箱の縁へ細い跡がついた。


私は包みから二斤目を出した。作業台の端を借り、布を敷き、刃を入れる。ぱり、と皮が割れた音だけが画室を横切った。


「冷める前に、今日の皮だけ見てください」


クインティン様の手が止まる。


「絵ではなく?」


「私は絵のことがわかりません。わからないものを立派に慰めると、だいたい中が空洞になります」


彼は未完成の肖像を見た。私は切ったパンだけを見る。胡桃が片側へ寄っている。ああもう、こういう日に限って配合の公平性が死んでいる。けれど口には出さなかった。


「処分を止めないのですか」


「止めてほしいですか」


返事はなかった。


「私が止めたら、クインティン様は止められたから残すことになります。捨てたら、私の頼みを捨てたことになる。それはずるいです」


私は胡桃の多いほうを彼へ差し出した。せめてパンの不公平は私の権限で直せる。


「だから今日は、皮だけです。厚いか薄いか。私が引き受けられるのは、その判定まで」


クインティン様は手袋を外した。指先にも木炭が移っている。布で拭ってからパンを受け取り、肖像の前で一口かじった。


噛む。もう一度、噛む。


「昨日より薄い」


「お好みですか」


「まだ、比較中です」


生真面目にもほどがある。けれどその一切れを、彼は最後まで食べた。


片づけの終わりに、クインティン様は画布を処分する山へも、残す山へも置かなかった。壁際へ戻しただけだった。私は訊かなかったし、彼も説明しなかった。


帰り際、作業台には短い木炭が残っていた。何に触れたのか、何を描こうとしたのか、私には見えない。ただ、黒く汚れた手袋だけが、その隣に伏せてあった。


    *    *    *


【帳面から消す常連】


週明けの朝、ドナは二斤目を見て口元を上げた。


「まだ焼いているのね」


「手が勝手に。解雇したいけど、腕から外すと困るのよ」


「男爵様は、あなたの嘘を見て気の毒になっただけでしょうに」


指が止まり、生地を移す板が窯口へ当たった。乾いた音が一つ鳴る。


「そうかもね」


「そうよ。閉じこもっていた方だもの。自分より惨めなものを見つけたら、少しくらい外へ出る気にもなるでしょう?」


ドナはそれだけ言って売り場へ戻った。いつもの笑いを含んだ断定。焼く前から中身を決めるのは職人失格だが、彼女はパン職人を名乗っていないので、失格になる資格すらない。


朝の時刻を過ぎても、入口の鈴は鳴らなかった。


私は二斤目を陳列台へ置いた。皮は昨日より薄い。胡桃はきれいに散っている。こんな日に限って会心の焼き上がりだ。パンというものは、食べる人の都合より窯の機嫌を優先する。実に薄情。


昼になっても、代金を置く手は来なかった。


同情だったのかもしれない。画室へ貼られた嘘を見て、いたたまれなくなっただけ。私が同行したせいで、もう十分に役目を果たしたと思ったのかもしれない。


それでも、三度来た。パンを受け取った。私の話が終わるまで立っていた。


だから余計に悪い。少量の本物を混ぜた嘘は、よく膨らむ。


閉店後、私は注文帳を開いた。『皮が厚くて好みだった』へ線を引く。次に『胡桃の甘さがよかった』を消す。文字は短いのに、一行ずつ刃へ変わる。


消した下から、紙の白さは戻らなかった。跡が残る。当然だ。帳面はパン生地ではない。丸め直して最初から、とはいかない。


最後の行へペン先を置いた。


『以後、二斤目はありません』


書く指は妙にまっすぐ動いた。こういう時だけ私の手は職人らしい。


明日の分は、すでに仕込んである。手が覚えた手順で作った最後の二斤目。それが売れ残ったら私が買う。自分で焼き、自分で払い、自分で食べる。話が一人で完結して、たいへん効率がいい。


帳面を閉じると、表紙が軽い音を立てた。


誰にも求められないパンを、誰かが待っているふりで守るのは、今日でやめる。嘘の常連には退店してもらおう。長居させすぎた。代金も払わないくせに、ずいぶんよく食べる客だった。


    *    *    *


【木炭の手袋と本物の一行】


翌朝、私は二斤目を焼いてしまった。


仕込んであったのだから当然である。なのに窯から出した瞬間、裏切られた気がした。私の手は昨夜の決意を聞いていない。腕から外して説教したい。やはり外すと困るけれど。


一斤目を商品札の前へ置き、二斤目をその横へ置く。どちらも同じ焼き色なのに、右側だけ朝から取り残されて見えた。


鈴が鳴った。


顔を上げるより早く、黒く汚れた手袋が陳列台へ置かれた。指先から手首まで木炭の粉がつき、皺の間へ入り込んでいる。画室の作業台に伏せていたものだ。


クインティン様が立っていた。


外套の袖にも、薄く黒い筋がある。息が少し乱れているのに、彼は整えようともせず二斤目を見る。


「遅くなりました」


「一日と、少々ですね」


「昨日は画室にいました」


何をしていたのか、彼は言わなかった。私も聞かなかった。木炭の汚れは、何かが終わった証明ではない。ただ、閉ざしていた部屋で彼の手が動いた。その事実だけが、陳列台の上にある。


クインティン様は注文帳を指した。


「借りても?」


「架空の感想は、昨日すべて消しました」


「それでも借ります」


「どうぞ。まだ隠す暇もなかったので」


「隠すのですか」


「いまのは職人の軽口です」


「あなたの勘と同じものですか」


「それより少し信用できます」


彼は帳面を開いた。消した線の並ぶ頁を見ても、何も言わない。胸元から鉛筆を出しかけ、手袋へ目をやり、それを戻した。


代わりに、陳列台の手袋から短い木炭を取り出す。


「今日の皮を、先に確かめても?」


私は二斤目の端を切って渡した。クインティン様は一切れを口にし、飲み込んでから帳面へ向き直る。


黒い先が紙へ触れた。


『皮は週末より薄い。今日のほうが好きだ。明日も二斤目を』


一文字ずつ、彼自身の筆跡が並ぶ。私の作った褒め言葉より不格好で、短くて、言い逃れのできない一行だった。


クインティン様は木炭を置いた。代金をきっちり並べ、二斤目へ手を伸ばす前に、私を見る。


「明日も、あなたのパンを受け取りに来てもいいですか」


商品札には、まだドナの名しかない。


それでも彼は札を見なかった。帳面でも、売り場でも、架空の客でもなく、焼いた私の顔を見ている。


クインティン様の口元が、初めてほどけた。大きな笑顔ではない。固かった皮へ、湯気の逃げ道が一本できたような変化だった。


参った。これは反則だ。そんな顔で「あなたのパン」などと言われたら、明日の分どころか、明後日の酵母まで起こしたくなるではないか。


私は二斤目を紙で包んだ。角を折る指が一度だけ滑る。職人の手にも、たまには動揺する権利がある。


「皮はどうしましょう。今日より薄く?」


「今日と同じで」


「胡桃は?」


「同じで」


「焼き色は?」


「フィービーさん」


「はい」


「明日、決めます」


明日。


その一語が、売れ残りのための朝を、待ち合わせへ変えた。


私は包みをクインティン様へ差し出す。木炭のついた手ではなく、代金を置いた素手が受け取った。


「二斤目は、常連さんのぶんです。」


今度は、目の前にいる。


クインティン様は頷き、二斤目を抱えて扉へ向かった。鈴が鳴る直前、彼は振り返る。


「皮は、厚くても嫌いではありません」


「どちらですか、それ」


「比較中です」


扉が閉まり、朝の冷たい空気だけが少し残った。


私は帳面の本物の一行を指でなぞらず、開いたまま仕込み台へ戻る。粉を量り、水を温め、二斤分の胡桃を出した。


朝の仕込み台が、一人分だけ狭くなった。まったく、ありがたい営業妨害だ。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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