王太子殿下、既読無視は失礼ですか?〜婚約破棄された技術者の私が広めた《LINK》で、国中の既読が王宮の嘘を暴きました〜
王太子をブロックするまで、あと三秒だった。
王宮を出て、まだ十分も経っていない。
ローレンツ・ノクスヴァルト公爵が用意してくれた馬車は、王都の石畳を抜けて、北方へ続く街道に向かっている。
その揺れる車内で、私は手の中の黒い板を見下ろしていた。
正式名称は、マジックスマートフォン。
魔石で動く携帯型の通信端末。前世のスマホを、この世界の魔術で無理やり再現したものだ。
端末名は《m Phone》。
でも、長い。
マジックスマートフォンも長いし、m Phoneも微妙に気取っている。だから私は、だいたいこれをマジホと呼んでいる。
魔法で動くスマホだから、マジホ。
ネーミングが軽い?
知ってる。
でも、覚えやすい方が広まる。誰も呼べない立派な名前より、マジホの方が百倍いい。
そのマジホの画面に、王太子グランツ殿下からの連絡が光っていた。
『ノエリカ、今すぐ王宮へ戻れ』
既読はつけた。
返事はしなかった。
いや、返すわけないでしょ。
さっき私との婚約を破棄して、マジホと《LINK》まで王家のものにしようとした男が、今さら「戻れ」?
無理。
普通に無理。
こっちはもう王都を出ている。
しかも、あなたが玩具だと笑ったマジホを抱えて、あなたが一番嫌がりそうな相手の馬車に乗っている。
『戻れ』
『これは王太子命令だ』
『読んでいるのだろう』
『ノエリカ、返事をしろ』
読んでる。
めちゃくちゃ読んでる。
でも返さない。
さんざん私の連絡を既読無視してきた男が、自分の番になった途端に返事を求めてくるの、マジで何?
どの口?
私はマジホを握りしめたまま、深く息を吐いた。
手が震えている。
怖いからだけじゃない。
ムカついているからだ。
悔しい。
情けない。
今さら傷ついている自分にも腹が立つ。
婚約破棄された女が、元婚約者をブロックする。
文字にするとちょっと笑える。
でも実際にやると、全然笑えない。
指先が重い。
何年も王太子妃になるために我慢してきた。
言いたいことを飲み込んだ。
大事な連絡を既読無視されても、「殿下はお忙しいのだから」と自分に言い聞かせた。
私の作ったマジホと《LINK》を玩具だと笑われても、いつか分かってもらえると思おうとした。
今なら言える。
あの我慢、マジで無駄だった!
いや、無駄だったと言い切るのも腹が立つ。
私はちゃんと努力していた。
ちゃんと国のためになると思って作っていた。
あの男が見ようとしなかっただけだ。
画面に確認表示が出る。
『グランツ殿下をブロックしますか?』
する。
します。
むしろ、もっと早くするべきだった!
私は確認を押した。
画面から、グランツ殿下の通知が消える。
たったそれだけなのに、息が少し楽になった。
ああ。
うざい通知が消えるって、こんなに気持ちいいんだ。
「今の操作で、殿下からの連絡はもう届かなくなったのか」
向かいに座っていたローレンツ様が、低い声で言った。
ローレンツ・ノクスヴァルト公爵。
北方辺境を治める人で、王都では氷の公爵だの北の狼だの好き勝手に呼ばれている。
正直、最初は怖かった。
黒い外套。
軍人みたいにまっすぐな姿勢。
無駄なことを言わない目。
でも今は、この人の静けさがかなりありがたい。
変に慰めてこない。
私の怒りを、品よく包もうとしない。
「届かなくなりました。殿下が私に送っても、私のマジホには表示されません。送った側には、たぶん未読のまま残ります」
私は画面を閉じた。
「かなり性格悪いことをした自覚はあります。でも、ざまあみろって思っています。めちゃくちゃ思っています」
「それを性格が悪いとは思わない。むしろ、よく今までその機能を使わずにいたと思う」
ローレンツ様は真顔だった。
真顔でそれを言う?
私は思わず見返した。
「公爵様、それは慰めですか? それとも本気ですか?」
「本気だ。婚約者の言葉を何年も無視してきた男が、最後に一度無視された程度で傷つくなら、それはよい薬だ」
ひどい。
でも、正直ちょっとすっきりした。
今は「おつらかったですね」とか言われるより、こっちの方がいい。
綺麗に慰められたい気分じゃない。
もっと単純に、味方をしてほしかった。
「後悔していないと言えば嘘になります。何年も婚約者だった人ですから。情も、期待も、たぶん少しは残っています。でも、だからこそ腹が立つんです。綺麗さっぱりどうでもよくなっていたら、こんなにムカつきません」
かなり本音が出た。
でも、もういい。
取り消さない。
私は今、いい子でいたくない。
婚約破棄されて。
発明を奪われかけて。
それでも品よく微笑む令嬢?
無理!
今日は無理!
「私は怒っています。婚約破棄されたことも腹が立ちます。でもそれ以上に、マジホと《LINK》を笑われたことが許せません。女の手紙遊びだとか、王宮を乱す玩具だとか。あの人たちは、私が何のためにこれを作ったのか、一度も考えようとしませんでした」
ローレンツ様は、黙って聞いてくれた。
それが逆にきつい。
ちゃんと聞かれると、自分がどれだけ聞いてほしかったのか分かってしまう。
泣きたいわけじゃない。
でも、目が熱い。
最悪。
ここで泣いたら、負けた気がする。
「私は、便利なものを作りたかっただけじゃありません」
声が少し掠れた。
「助けて、が届くようにしたかったんです。橋が落ちたとか、薬が足りないとか、魔物が出たとか、そういう連絡が何日も遅れて、人が死ぬのが嫌だった。前の世界では、言葉はもっと早く届きました。もちろん、それで傷つくこともあったけど、それでも届かないよりはずっとよかった」
マジホの黒い画面に、自分の顔が映っている。
目元が赤い。
あー、もう。
ほんと嫌だ。
泣くなら一人の時にしたかった!
「なのに殿下は、私の連絡に既読だけつけて、返事もしなかった。だから今度は、私が返さない番です」
ローレンツ様は、少しだけ息を吐いた。
「君が自分の怒りを恥じる必要はない。私は、君が怒ってくれてよかったと思っている」
「怒ってくれて、ですか?」
「怒れないままなら、君はまだグランツ殿下の言葉に縛られていただろう。怒っているなら、もう自分の足で立とうとしている」
その言い方は、かなり効いた。
怒っていたはずなのに、少しだけ力が抜ける。
味方をしてくれる人がいる。
それだけで、こんなに揺れる。
悔しい。
でも、嬉しい。
私は窓の外へ目を向けた。
王都の尖塔が、少しずつ遠ざかっていく。
あの場所で、私は王太子妃になるはずだった。
でも今は、王都から離れている。
逃げている。
いや、違う。
逃げているだけじゃない。
私は、私の作ったものを守りに行く。
それから、私の言葉を無視しなかった人の領地へ行く。
「北方で《LINK》を使ってください。ちゃんと役に立つところを、私に見せてください」
「君が作ったものだろう。役に立つことは、君が一番分かっているはずだ」
「分かっています。でも、見たいんです」
私はマジホを撫でた。
「私の言葉が無視されるためじゃなくて、誰かの助けてを届けるために使われるところを」
ローレンツ様は、まっすぐ私を見た。
「なら、見せる。君の《LINK》が命を救うところを、何度でも」
その言葉で、少しだけ前を向けた。
まだ腹は立っている。
傷ついてもいる。
でも、今の私は泣き寝入りする気にはなれなかった。
婚約破棄を告げられたのは、その日の昼だった。
王宮の白薔薇の間には、いつもより多くの貴族が集められていた。
ああ、これは何かあるな。
そう思った。
そして、すぐに分かった。
グランツ殿下の隣に、ヴェリシア・オルドレイン侯爵令嬢が立っていたからだ。
淡い銀髪を隙なく結い上げ、濃紺のドレスをまとった女性。
王宮公報院を代々管理するオルドレイン侯爵家の娘。
王家の発表、災害情報、戦況、徴税通達、貴族の醜聞まで、情報の流れを握っている家の令嬢。
彼女は、分かりやすい悪女ではなかった。
甲高く笑ったりしない。
わざとらしく甘えたりもしない。
もっと嫌なタイプだ。
正しい顔で、人の逃げ道を塞ぐ。
自分の言葉が国を守っていると、本気で信じている人の顔。
「ノエリカ・リンドヴェール」
グランツ殿下は、私を家名込みで呼んだ。
その時点で、もう答えは見えていた。
「君との婚約を、本日をもって破棄する」
広間がざわめいた。
私は驚かなかった。
驚かなかった自分が、ちょっと嫌だった。
どこかで予想していたのだ。
この男は、私の話を最後まで聞かない。
私が何を作っても、何を伝えても、自分が理解できないものを「くだらない」で片づける。
そういう男だと、もう知っていた。
「理由を、うかがってもよろしいでしょうか」
声が震えなかったことだけは、自分を褒めたい。
グランツ殿下は眉を寄せた。
私が取り乱さないのが気に入らないらしい。
面倒くさい男!
「王太子妃に必要なのは、情報を選び取る品位だ。君のように、何でも民へ流せばよいと思っている女では国が乱れる」
「私が流したのは、避難警報と薬草在庫、それから街道の崩落情報です。どれも、人命に関わるものでした」
「だから問題なのだ。民に不安を与えれば、混乱が起こる。何を知らせ、何を伏せるかは王家が決める。君の《LINK》とやらは、その秩序を壊す」
ヴェリシア様が、静かに一歩前へ出た。
「ノエリカ様はお優しいのですわ。知らせれば人は救われると信じていらっしゃる。けれど民は、知らされた事実に耐えられるほど強くありません。早すぎる情報は、時に剣より多くの人を傷つけます」
その言葉には、一部の正しさがあった。
だから腹が立つ。
完全な馬鹿なら、まだよかった。
何も分かっていないなら、笑い飛ばせた。
でも、この人は分かっている。
分かったうえで、情報を閉じ込める側に立っている。
それがうざい。
かなりうざい。
「情報が人を傷つけることは、私も知っています。嘘も広がります。誤解も広がります。恐怖も、怒りも、信じられない速さで人を巻き込みます。それでも、真実を一部の人だけが閉じ込めていい理由にはなりません」
ヴェリシア様の目が、少しだけ細くなった。
「理想論ですわ」
「そうかもしれません。でも、助けを求める声が王宮に届くまでに何日もかかる国を、秩序があるとは思えません」
グランツ殿下が不快そうに息を吐いた。
そのため息、何回目?
私が何かを説明するたび、この男はいつもこうだった。
聞いたふりはする。
既読はつける。
返事はない。
言葉を返す手間すら惜しいのだろう。
「君の連絡は、いつも息苦しい。緊急だ、確認してほしい、判断してほしい。まるで王太子である私が、君の通知一つで動かされる家臣みたいではないか」
グランツ殿下は、私の手元のマジホを冷たく見た。
「国を動かすのは通知ではない。王家の命令だ。民が王家の発表より先に知り、王家の判断より先に動く。そんなものを便利だと喜べるのは、責任を知らない者だけだ」
何それ。
ムカつく。
でも、ここでただ怒鳴ったら、たぶん向こうの思うつぼだ。
私はマジホを握りしめた。
「責任を知らないから知らせたいのではありません。知らせないことで死ぬ人を、これ以上増やしたくないだけです」
グランツ殿下の眉がぴくりと動いた。
「殿下。私は、あなたを縛りたくて《LINK》を作ったわけではありません。助けを求める声が、届くようにしたかったのです。あなたが私の連絡を既読無視なさったことは、もう構いません。けれど、民からの警報まで同じように扱うおつもりなら、それは王太子として危険です」
広間が静かになった。
言いすぎた。
でも、後悔はなかった。
ヴェリシア様が、ほんの少しだけ笑った。
勝ったと思った人の顔だ。
「ほら、殿下。ノエリカ様はご自身の発明を守るためなら、王太子殿下にまで危険だと言えてしまう方です。これでは王妃どころか、王宮の秩序も保てませんわ」
「その通りだ」
グランツ殿下は、周囲の貴族たちへ向けて声を張った。
「ノエリカ・リンドヴェールとの婚約は破棄する。今後、《LINK》の王都全域での正式運用も認めない。なお、王太子妃教育で得た知識を用いて作られた術式である以上、《LINK》の権利は王家に譲渡されるべきものとする」
その瞬間、本気でキレた。
婚約破棄より腹が立った。
通知が息苦しいと言われたことより腹が立った。
この男!
私が寝不足で魔石を削って、術式を失敗して、指先を焦がして、何度も一人でやり直したものを、当然のように奪う気?
私の話は聞かなかったくせに!
価値があると分かったら、王家のもの?
何様?
いや、王太子様だった。
最悪!
「いいえ」
私はマジホを胸元に抱えた。
「《LINK》は王家のものではありません」
「ノエリカ、立場をわきまえろ。婚約を破棄されたからといって、王家に対する礼を失ってよいわけではない」
「立場をわきまえるべきなのは殿下です。私を婚約者ではないと切り捨てたその口で、私の発明だけは王家のものだと言うのですか?」
声が震えた。
怒りで。
怖さもある。
でも、それ以上に怒りが勝っていた。
「これは、あなたが既読無視してきた私の時間と、私の頭と、私の手で作ったものです。王家に差し上げるつもりはありません!」
広間の空気が凍った。
グランツ殿下の顔が赤くなる。
この男、怒ると分かりやすい。
自分が否定されることには、ずいぶん敏感らしい。
その時だった。
「ならば、その発明を私に見せてくれないか」
低い声がした。
振り向くと、ローレンツ様が壁際から歩み出ていた。
黒い軍服姿の公爵に、周囲の貴族たちが自然と道を開ける。
彼は私の前まで来ると、まっすぐにマジホを見た。
「それは、何という道具だ?」
「正式には、マジックスマートフォンです」
口にした瞬間、広間の空気がちょっと変になった。
まあ、分かる。
異世界の貴族たちの前で、マジックスマートフォン。
自分で言っておいてなんだけど、なかなか強い。
「まじっく、すまーと……?」
ローレンツ様が真顔で繰り返す。
「長いので、端末名は《m Phone》です。でも私はマジホって呼んでいます。魔法で動くスマホなので、マジホです」
ローレンツ様は、少しだけ黙った。
「君は、命を救う道具にずいぶん軽い名前をつけるな」
「覚えやすい方が広まりますから」
これは本気だ。
どれだけ立派な術式でも、名前が難しすぎたら広まらない。
みんなが呼べる名前でなければ意味がない。
ローレンツ様は、そこで初めて少しだけ目を細めた。
「そのマジホは、吹雪の中を走る伝令を減らせるのか?」
予想外の問いに、私は一瞬、言葉を失った。
この広間で誰も、そんなことを聞かなかった。
流行るのか。
儲かるのか。
王宮が管理できるのか。
貴族の社交に使えるのか。
そういう話ばかりだった。
けれどローレンツ様は、最初に伝令の命を見た。
「減らせます。完全には無理です。魔力圏外では届きませんし、m Phoneもまだ高価です。でも中継塔を置けば、少なくとも吹雪の中を走る回数は減らせます。魔物の出現も、橋の崩落も、薬草の不足も、今よりずっと早く共有できます」
「なら、私の領に来てくれ」
広間がさらにざわめいた。
グランツ殿下が顔をしかめる。
「ノクスヴァルト公爵、これは王家の問題だ。勝手に横から口を出されては困る」
「王都に不要なら、北方が受け入れる。殿下が玩具と呼んだその道具で、私の領の伝令が一人でも死なずに済むなら、私は頭を下げてでも彼女を招く」
ローレンツ様は、そこで私を見た。
「ノエリカ嬢。君の発明を、必要としている場所がある。王都が君の言葉を聞かないのなら、北方で聞かせてほしい」
胸が詰まった。
くそ、ここで泣くのは嫌だ。
でも、危なかった。
この人は、私を慰めるために言っているのではない。
本気で、私の作ったものを必要としてくれている。
だから私はその手を取った。
婚約者だった男の前で。
私の言葉を既読無視し続けた男の前で。
初めて、私の言葉をちゃんと聞いてくれた人の手を取った。
北方で《LINK》が本格的に動き始めたのは、それからすぐだった。
最初は混乱ばかりだった。
北方騎士団の副長は、マジホを両手で持って、まるで爆発物でも扱うみたいな顔をしていた。
「ノエリカ様、この既読という印ですが、読んだら必ず返事をしろという意味に受け取る者が出るのではありませんか。特に騎士団では、上官からの連絡を既読のまま放置するのは命令無視に見えます」
「そこは運用で決めましょう。緊急連絡は既読後すぐ反応、通常連絡はあとで返信でも可。逆に、読んだかどうか分かるだけで助かる場面もあります。救援指示を見たのか、まだ届いていないのか、それが分からない方が危険です」
「なるほど。便利ですが、胃にも悪いですね」
「分かります。既読って、便利だけど心に刺さる時があります」
「やはり恐ろしい術式ですね」
「だから、そこまでではないですって!」
私は否定した。
でも、内心では少し分かる。
既読は便利だ。
便利だけど、心に刺さる時がある。
だからこそ、扱い方が大事になる。
マジホ自体は、王都で試験導入していた頃から、少しずつ日常に入り込んでいた。
若い役人、商人、治療院、騎士団の一部、街区長、薬草倉庫、駅馬車組合。
個人で持っている人もいれば、店や詰所に一台だけ置かれている共有マジホもある。
もちろん、国民全員が一台ずつ持っているわけじゃない。
そんなお金はないし、まだそこまで量産もできていない。
それでも、一つの街区に一台あれば避難連絡は回せる。
治療院に一台あれば薬の在庫は共有できる。
商人ギルドに一台あれば荷馬車を動かせる。
全員に直接届かなくてもいい。
最初の誰かに届けば、そこから人は動ける。
だから私は、共有端末には緊急時だけ広域グループへ一時参加できる《招待紋》の読み取り機能もつけていた。
前世で言うなら、魔法陣版のQRコードみたいなものだ。
使う時が来ない方がいい。
でも、必要な時に入れない連絡網では意味がない。
商人ギルドの受付では、若い事務員が共有マジホを覗き込みながら言っていた。
「見て、この幻影写真。昨日の夕焼け、綺麗に残せたの」
「いいなあ。私のは容量がもういっぱい。猫スタンプ入れすぎた」
「ていうか、昨日送ったのに既読つかないんだけど。これ、無視されてる?」
「未読ならまだ望みあるでしょ。既読で返事なしの方がきついって」
そんな会話を聞くたび、私は少しだけ嬉しくなった。
私の作ったものが、誰かの日常に入り込んでいる。
でも同時に、少し怖くもあった。
便利なものは、すぐに当たり前になる。
当たり前になった瞬間、人はその危うさを忘れる。
だから《LINK》には、しつこいくらい履歴を残した。
誰が言ったのか。
いつ送ったのか。
どこを通って届いたのか。
便利なだけの道具にしたくなかった。
言葉には、責任がある。
それを忘れたら、マジホは本当にただの危ない板になる。
別の日には、騎士団グループに料理長が夕食の献立を誤送信した。
『本日の夕食は鹿肉の煮込み、黒パン、豆のスープです』
出動準備中だった騎士たちから、一斉に返信が来た。
『了解です。鹿肉に備えます』
『第三隊、煮込み確認しました』
『任務前に士気が上がりました』
『既読。豆のスープも了解です』
料理長は真っ青になっていた。
私は笑いすぎてお腹が痛くなった。
さらに若い兵士たちの間では、丸い雪兎が敬礼するスタンプが流行した。
ローレンツ様のマジホにも、いつの間にかそのスタンプが入っていた。
「ローレンツ様も使うんですね、雪兎スタンプ」
「副長が、返信の圧が減ると言っていた。私が『了解』とだけ返すと部下が緊張するらしい」
「そこで雪兎が敬礼していたら、緊張しないんですか?」
「少なくとも、返信後に部下が息を止める回数は減った」
「それ、効果測定してるんですか? 真面目すぎません?」
「君が作った道具だ。使うなら正しく使いたい」
真顔で雪兎スタンプの効果を語るローレンツ様を見て、私は普通に笑った。
笑ってから、少し驚いた。
私、今ちゃんと笑った。
王都を出てから、初めてかもしれない。
「でも、嬉しいです。《LINK》が、怖がられるだけじゃなくて、ちゃんと使われていることが」
「君の作ったものは、最初から怖いだけのものではない」
この人は、そういうことをさらっと言う。
こっちはそれで結構救われるのに、本人はたぶん分かっていない。
危険。
この人の言葉、私の防御をわりと簡単に抜いてくる。
北方で《LINK》が初めて人を救ったのは、それから三日後だった。
山間の村から緊急通知が入った。
『魔物出現。子供2名が森に逃げ遅れ』
画面に赤い通知が出た瞬間、息が止まった。
手が勝手に動く。
『位置情報を送ってください。森に入った方角は分かりますか。近くの大人は絶対に森へ入らず、現在地を共有してください』
すぐに既読がついた。
『東の沢です。雪が強くなっています。子供の足跡が途中で消えました』
ローレンツ様は、私の横で騎士団グループを開いた。
『第三隊は東の沢へ。治療院は解毒薬と毛布を準備。村の大人は森に入るな。位置共有を続けろ。誰かが単独で動けば救助対象が増えるだけだ』
既読が次々につく。
既読 3
既読 12
既読 27
数字が増えるたび、喉が熱くなった。
届いている。
届いている!
王都でどれだけ笑われても、今ここでは届いている!
しばらくして、第三隊から連絡が来た。
『子供2名を発見。生存。治療院へ搬送します』
その文字を見た瞬間、膝の力が抜けた。
ローレンツ様が横から私の肘を支えてくれる。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです。嬉しいです。でも怖い。私の作ったものが、誰かの命に関わってしまったんだって、今さら実感しました。失敗したらどうしようって、今になって手が震えています」
「怖いなら、正しく怖がればいい。怖がらない者に、私はこの領の連絡網を任せたくない」
その言葉で、少しだけ落ち着いた。
怖いと言ってもいいのか。
賢くなきゃいけない。
冷静でいなきゃいけない。
失敗しないように考えなきゃいけない。
そう思っていた。
でも、怖いものは怖い。
私の作った一文で人が動く。
それは嬉しいけど、重い。
だからこそ、ちゃんと怖がる。
ローレンツ様は、その怖さを弱さ扱いしなかった。
たぶん、その日からだ。
私はローレンツ様からの連絡だけは、少し早く返すようになった。
気づかれていないと思いたい。
でも、たぶん気づかれている。
平穏は、長く続かなかった。
北方で《LINK》が広まり始めた頃、王都から不穏な公報が流れた。
《緊急公報》
技術者令嬢ノエリカ・リンドヴェールが開発した連絡術式《LINK》により、北方領に虚偽の魔物警報が流布された。
王宮公報院は、マジホおよび《LINK》の使用停止を勧告する。
その公報を見た瞬間、体が冷えた。
流していない。
そんなもの、流していない!
でもすぐ、北方の複数の村から問い合わせが入った。
『魔物警報は本当ですか』
『避難した方がいいですか』
『商隊を止めますか』
『王都の公報でマジホが危険だと出ています』
最悪だ。
誰かが、私の名前で偽の緊急通知を流した。
しかも王宮公報院は、それを待っていたみたいに《LINK》を危険だと発表している。
やり方が綺麗すぎる。
吐き気がするほど綺麗だ。
「王都が動いたな」
ローレンツ様が公報を読み終えて言った。
「ヴェリシア様です。グランツ殿下だけなら、ここまで早くは動けません。あの男はムカつくけど、こういう細かい罠を張れるタイプではないです」
思わず本音が出た。
ローレンツ様が少しだけ眉を上げる。
「ムカつく、か」
「すみません。品がなかったですね」
「いや、正確な表現だと思う」
この人、真面目な顔でたまにひどい。
少し笑いそうになったけれど、画面を見てすぐ現実に戻された。
偽情報を流す。
混乱させる。
その混乱を証拠にして、情報網そのものを潰す。
私の《LINK》が人を傷つけたように見せる。
ヴェリシア様は、私の発明を馬鹿にしているわけじゃない。
危険だと分かっている。
だから潰しに来た。
「ログを見ます」
私はマジホを開いた。
手は震えていたけれど、頭は妙に冷えていた。
こういう時だけ、前世の癖が出る。
感情はぐちゃぐちゃでも、調査手順は追える。
偽警報の送信時刻。
作成されたグループ。
参加者の増加経路。
魔力署名。
中継塔。
経由した伝達路。
画面に情報を並べながら、私は息を止めた。
「偽グループです。見た目は《LINK》に偽装されていますが、送信元が違います。王宮公報院の旧式伝達塔を経由しています」
「つまり、王宮側が自分たちの伝達網で偽警報を流し、《LINK》のせいにした」
「そうです。しかも、偽グループには私の署名を模した痕跡があります。雑ですが、一般の人には分かりません。証明するには王宮公報院の本塔ログが必要です。こちらのマジホに残ったログだけでは、向こうは改ざんだと言い張れます」
「本塔に入るのは難しい」
「分かっています。でも、入らなければ《LINK》は終わります」
声は落ち着いていた。
でも、本当は怖い。
王都へ戻りたくない。
グランツ殿下にも、ヴェリシア様にも会いたくない。
あの白薔薇の間も、王宮の匂いも、全部嫌だ。
でも、逃げたら私の発明は「危険な玩具」で終わる。
北方で助かった子供たちも、マジホを握ってくれた治療師たちも、全部なかったことにされる。
それは嫌だ。
「私も行く」
ローレンツ様が言った。
「ローレンツ様が動けば、王都は北方の反乱だと言うかもしれません。それでも来てくれるんですか?」
「君一人を王都へ戻し、あの二人の前に立たせる方が私には無理だ。反乱と呼ばれる方がまだましだ」
「重いです」
「自覚はある」
「でも、助かります。正直、一人で平気ですって言うつもりでしたけど、全然平気じゃないので」
「それでいい。平気そうに見せるのが上手いことは、もう知っている」
この人は、本当に嫌なところを見ている。
でも今は、それがありがたかった。
「では、一つ約束してください。私が無茶をしていると思ったら止めてください。でも、怖がっているだけなら止めないでください。私はたぶん、怖がりながらでも進みたいので」
ローレンツ様は、少しだけ目を細めた。
「分かった。怖がる君の隣にいる」
それは甘い言葉ではなかった。
でも、今の私にはかなり効いた。
王都へ戻った私を待っていたのは、断罪の場だった。
王宮前広場には巨大な公報水晶が置かれ、貴族だけでなく、多くの民も集められていた。
ヴェリシア様は、その中央に立っていた。
隣にはグランツ殿下。
彼は私を見ると、勝ち誇ったように顎を上げた。
この男、本当に顔に出る。
「ノエリカ、よく戻った。君には《LINK》によって民を混乱させた責任を取ってもらう」
「責任なら、取るために来ました。私の発明を悪用した人間を、そのままにするつもりはありません」
「まだ自分の罪を認めないのか。君の作ったものが混乱を生んだのだぞ」
「混乱を生んだのは偽情報です。刃物で人を傷つけた犯人を裁かず、刃物を作った鍛冶師だけを責めるような話をしないでください」
広場がざわめいた。
ヴェリシア様は、落ち着いた顔のままだった。
「ノエリカ様。あなたの発明は、もう人を救う道具ではありません。現に、偽の魔物警報で多くの民が混乱した。商隊は止まり、村は避難し、治療院は不要な準備に追われたのです」
「その混乱を起こしたのは、偽情報を流した人です。《LINK》ではありません」
「違いますわ」
ヴェリシア様は首を振った。
声は冷たく、よく通る。
「これこそ、私がずっと恐れていたことです。誰もが簡単に情報を流せる。誰もが真実の顔をした嘘を広げられる。民はそれを見分けられない。だから情報には門が必要なのです。王家が、王宮公報院が、国のために選び取る必要がある」
民衆の間に、不安げな空気が広がる。
彼女の言葉には力がある。
完全な嘘ではないからだ。
情報が早く広がれば、嘘も早く広がる。
《LINK》は人を救える。
でも、人を傷つけることもできる。
そんなこと、私が一番考えている。
考えていないわけがない。
「情報に門が必要だという考えを、私は否定しません。けれど、その門の鍵をあなた一人が持っていい理由にはなりません」
「私は国の秩序を守っているのです」
「秩序のためなら、偽の警報を流してもいいのですか?」
広場が大きく揺れた。
グランツ殿下が声を荒らげる。
「ノエリカ、証拠もなく王宮公報院を侮辱するな!」
「証拠を取りに来ました。王宮公報院の本塔ログを確認させてください。偽警報が《LINK》から送られたものなら、私はここで責任を取ります」
ヴェリシア様は静かに微笑んだ。
「本塔ログは王家の機密です。婚約を破棄された一令嬢に見せるものではありません」
「では、見せられない理由があるのですね」
「見せる必要がないだけです」
「そうやって、今まで何を隠してきたのですか?」
ヴェリシア様の目が、初めて冷たく光った。
その瞬間、広場の公報水晶が赤く点滅した。
《緊急公報》
王都東区にて火災発生。
現在、王宮騎士団が確認中。
民は王宮の指示を待つこと。
その文字を見て、胃が冷えた。
火災発生。
なのに、指示を待て。
この一文、最悪!
広場の端で誰かが叫んだ。
「東区から煙が上がっているぞ!」
民衆が一斉に振り向く。
遠くの空に、黒い煙が見えた。
グランツ殿下が青ざめる。
「ヴェリシア、これは本当に待っていてよいのか。煙が見えているぞ」
「落ち着いてくださいませ。今ここで避難を呼びかければ、広場が混乱します。王宮騎士団の確認を待つべきです」
「しかし、万が一逃げ遅れが出れば」
「殿下。王家が慌てれば、民はもっと慌てます。王家が恐怖を見せてはならないのです」
ああ、駄目だ。
この人たちは待つ。
燃えているのに待つ。
煙が見えているのに、確認中のままにする。
王家の顔色を整える間に、人が逃げ遅れる。
ふざけるな!
私は《LINK》を開いた。
普段は閉じている緊急用の広域グループ。
王都、北方、港町、商人ギルド、治療院、各地区の代表マジホ、騎士団の一部、孤児院、薬草倉庫、街道中継所。
導入済みのm Phoneをつなぐ、最大規模のグループLINK。
ただし、国民全員が最初から入っているわけではない。
通常時は、登録済みの公用端末と代表端末だけが閲覧できる。
一般の人が勝手に発言することもできない。
緊急時だけ、一時参加用の紋を開く。
それが《招待紋》だ。
今までは、王都で開いたことは一度もなかった。
私は公報水晶へマジホを向けた。
大水晶の表面に、青白い幾何学模様が浮かび上がる。
《広域グループLINK・一時参加紋》
王宮前広場がどよめいた。
「何だ、あの紋は」
「マジホを向ければいいのか?」
「うちの店にも同じ板があるぞ!」
「治療院の共有端末、誰か持ってこい!」
広場のあちこちで、マジホが掲げられる。
若い役人。
商人。
治療師。
騎士。
街区長。
公報水晶を見上げる民たち。
青白い招待紋が、次々に読み取られていく。
「何をしている、ノエリカ!」
グランツ殿下が叫んだ。
「避難連絡です。王宮の顔色を見ている間に逃げ遅れが出るくらいなら、私が勝手に嫌われます」
「王家の許可なく情報を流すつもりか!」
「はい。責任が必要なら、あとでいくらでも取ります。でも今は、人を逃がします!」
指が震えた。
怖い。
これで間違えていたらどうしよう。
余計に混乱させたらどうしよう。
でも、煙はもう上がっている。
人がいる。
逃げるべき人がいる。
私は送信欄に文字を打った。
『王都東区で火災。煙が見える方は南門方面へ避難してください。荷物は置いてください。子供、老人、怪我人を優先。治療院は第二広場へ。商人ギルドは荷馬車を出せる方、位置情報を共有してください』
送信。
次の瞬間、画面が光った。
既読 18
既読 203
既読 1,446
既読 7,902
数字が増えていく。
個人マジホだけじゃない。
治療院の共有端末。
街区の掲示端末。
ギルドの公用端末。
公報水晶に接続された閲覧署名。
王都中の「読んだ」が、一気に返ってくる。
息が詰まる。
届いている。
王都に。
北方に。
治療院に、商人ギルドに、騎士団に。
私の言葉が、ちゃんと届いている!
『南門、開けました』
『第二広場、受け入れできます』
『荷馬車8台、東二区へ向かいます』
『孤児院、避難開始しました』
『北方第三隊、王都滞在中。消火支援に向かいます』
『薬草倉庫、鍵を開けます』
『既読。王都南区治療院、動きます』
広場がざわめきから、別の熱に変わっていく。
民の手元のマジホが次々に鳴る。
誰かが叫んだ。
「第二広場へ行け! 治療院が受け入れるって!」
「南門が開いてる!」
「荷馬車が出るぞ、子供を先に乗せろ!」
さらに、グループLINKの通知が続く。
『東二区、子供たちを南門へ誘導中』
『第二広場、負傷者の受け入れを開始しました』
『火元は倉庫街。風向きが変わっています。北へ逃げないでください』
『荷馬車を追加で出せます。場所を送ってください』
『西通りは人が詰まっています。裏路地を開けます』
『水桶隊、倉庫街へ向かいます』
画面の中で、街が動いていた。
王宮の号令ではない。
王太子の命令でもない。
煙を見た人、道を知っている人、馬車を出せる人、薬を持っている人。
それぞれが、自分にできることを返してくる。
怖い。
でも、すごい。
これが、私の作りたかったものだ。
王宮の命令ではなく、私の一通の連絡で、みんなが読んで、判断して、動いている。
グランツ殿下は呆然とそれを見ていた。
王太子である自分の命令より、婚約破棄した女の《LINK》が国を動かしている。
ざまあみろ。
正直、一瞬そう思った。
でも、そんなことを噛みしめている余裕はなかった。
私は怖かった。
人が動いている。
私の文章で。
嬉しい。
でも怖い。
間違えるな。
落ち着け。
次に何が必要か考えろ!
「止めなさい!」
ヴェリシア様の声が鋭く響いた。
「今の連絡で、王都中が勝手に動きますわ。指揮系統が崩れます。誰もが好きな判断を始める。これがどれほど危険か、あなたには分からないのですか!」
「分かっています! 今も怖いです! 私の送った一文で、人が動いている。もし間違っていたらと思うと、足が震えます!」
これは本当だった。
賢い顔だけでは、ここに立っていられない。
怖いものは怖い。
でも、止まれない。
「それでも、煙が上がっているのに『指示を待て』とだけ流す方が、私はもっと怖いです!」
その時、私の個人LINKが震えた。
ローレンツ様からだった。
『顔を上げろ。君は一人ではない』
くそ。
これは反則。
広域グループには、国中から連絡が流れている。
でも、私を一番支えたのは、この短い個人LINKだった。
私は顔を上げた。
ローレンツ様は、広場の向こうからこちらへ歩いてきていた。
黒い外套をなびかせ、騎士たちを従えて。
「王家が彼女の声を反逆と呼ぶなら、私はこの国で一番大きな声で言う」
彼の声が広場に響いた。
「ノエリカ・リンドヴェールは反逆者ではない。私の領を、私の民を、そして今この王都を救っている者だ」
胸が熱くなった。
こんな場所で!
こんな大勢の前で!
勘弁してほしい。
でも、嬉しかった。
ものすごく嬉しかった。
ローレンツ様が私の横に立つ。
「遅くなった」
「遅くありません。既読、ついていましたから」
こんな時に何を言っているのだろう。
でも、ローレンツ様は少しだけ目を細めた。
「君からの既読は、私にとって生存確認に近い。ついている間は、まだ踏みとどまれる」
「重いです」
「自覚はある。だが、今はそれくらいでちょうどいいだろう」
そのやり取りで、少しだけ息ができた。
でも終わりではない。
ヴェリシア様はまだ立っている。
むしろ、その目には怒りより強いものがあった。
信念だ。
だから厄介だ。
「見事ですわ、ノエリカ様。あなたはたった今、王家の許可なく国を動かしました。王太子殿下の前で、王宮公報院を無視し、民に直接指示を出した。これが反逆でなくて何だというのです」
「命を守るための連絡です」
「その判断を誰が許したのですか」
「火と煙です。今、王都で煙が上がっています。助けを待つ人がいます。それ以上の許可が必要ですか?」
広場が静まった。
ヴェリシア様は私を見つめていた。
その顔はまだ美しかった。
崩れていない。
だからこそ、怖い。
「あなたは、民を信じすぎています」
彼女は静かに言った。
「人は、正しい情報を得たからといって正しく動くわけではありません。恐れ、怒り、誰かを責め、群れ、暴走する。私はそれを見てきました。だから情報には檻が必要なのです」
「檻の中に閉じ込めた情報で、助かる命はありますか?」
「秩序は守れます」
「その秩序は、誰のためのものですか?」
ヴェリシア様の唇がわずかに動いた。
けれど、答えは出なかった。
その時、広域グループLINKに新しい投稿が流れた。
『北三番村です。ノエリカ様の警報で、雪崩から子供たちが助かりました』
続けて、また別の投稿。
『西の治療院です。在庫共有がなければ流行病の薬が足りませんでした』
『商人ギルドです。王宮公報より《LINK》の街道情報の方が早く正確でした』
『王都南区です。先日の火災で避難できたのは《LINK》のおかげです』
『ノエリカ様を反逆者にしないでください』
息をのんだ。
画面が次々に流れる。
応援。
証言。
感謝。
そして、記録。
『偽警報を受信した時刻は 08:17 です』
『こちらのm Phoneにも同じ偽警報が残っています。発信署名が通常の《LINK》と違います』
『王都第三中継塔の管理人です。今朝、王宮公報院から通常外の送信命令がありました』
『治療院です。王宮公報院から、正式発表まで火災情報を流すなと指示されました』
『東区役所です。火災発生は公報より前に把握されていました。上から待機命令が出ていました』
ヴェリシア様の顔から、初めて血の気が引いた。
私一人なら、潰せたかもしれない。
私のマジホのログだけなら、改ざんだと言えたかもしれない。
でも今、国中のm Phoneに残った記録が、同時に声を上げている。
誰かの手元に残った既読。
誰かの受信時刻。
誰かが見ていた煙。
誰かが受けた口止め。
全部が、つながっていく。
「やめなさい。それ以上、民の未整理な証言を流すのは危険です。真偽の確認もない言葉を広げれば、国が混乱します」
「では確認しましょう」
私はマジホを操作した。
「《LINK》には、すべてのグループ作成履歴と送信署名が残っています。消せないようにしてあります。言葉を届ける術式だからこそ、言葉に責任を持たせる必要があると思ったからです」
グランツ殿下が眉をひそめた。
「消せない、だと」
「はい。開発者権限でも消せません」
私は公報水晶へマジホを接続した。
広場の大水晶に、偽警報の履歴が映る。
作成時刻 08:11
送信時刻 08:17
経由 王宮公報院旧式伝達塔
作成者署名 ヴェリシア・オルドレイン
承認印 王太子グランツ
広場が爆発したようにざわめいた。
グランツ殿下の顔が真っ白になる。
「違う、私は内容までは知らされていない。ただ、ヴェリシアが《LINK》の危険性を示すために必要だと」
この男。
ここでそれを言うの?
自分の承認印が出た途端に、隣の女へ責任を投げるの?
王太子って何?
飾り?
このお飾り王子!
ヴェリシア様は、ゆっくりとグランツ殿下を見た。
失望したような目だった。
「殿下。最後まで王太子らしくお立ちくださいませ」
「ヴェリシア、君は私を利用したのか!」
「違います、殿下。あなたが何も考えずに承認印を押したのです」
ヴェリシア様は、冷たく言った。
「私は《LINK》の危険性を証明したかった。現に、偽の情報は広がり、民は動揺した。ノエリカ様、あなたの術式は人を救うでしょう。でも同じ速さで、人を壊すこともできる。それを誰かが示さなければならなかったのです」
「そのために、人を混乱させたのですか」
「小さな混乱で、大きな崩壊を防ぐためです」
「東区の火災情報を止めたのも?」
「王家が混乱を見せれば、民は暴れます。発表の順序を整える必要がありました」
私は拳を握った。
この人は、本当に小物ではない。
自分が間違っていると、最後まで思っていない。
だから、ちゃんと言わなければならない。
「ヴェリシア様。あなたの怖さは、私にも分かります。情報は危険です。嘘も、悪意も、一瞬で広がる。私だって、マジホと《LINK》を作ったことが怖くなる時があります」
ヴェリシア様の目がわずかに揺れた。
「でも、怖いから閉じ込めるのではなく、怖いからこそ、誰が何を言ったのか残す仕組みを作る。間違えた時に訂正できる場所を作る。助けてと言える道を増やす。私はそうしたい」
「理想論です」
「そうです。私はまだ理想を捨てたくありません!」
声が震えた。
でも、止めなかった。
「あなたが恐れていたのは混乱だけではありません。あなたたちが隠してきたものを、民が知ってしまうことです。王宮が黙らせてきた声が、互いにつながってしまうことです」
広域グループLINKには、まだ証言が届き続けている。
『東区、避難完了まであと少し』
『第二広場、負傷者受け入れ中』
『消火隊、到着しました』
『ノエリカ様、通知を止めないでください』
『王宮の発表を待っていたら間に合いませんでした』
『ありがとう』
私はその画面を見た。
もう我慢できなかった。
涙が出た。
悔しいとか、嬉しいとか、怖いとか、全部混ざっていた。
でも、恥ずかしくはなかった。
これは私一人の声じゃない。
みんなの声だ。
「私一人の声なら、あなた方は簡単に潰せたかもしれません。でもこれは、私の声ではありません。あなた方が黙らせてきた人たちの声です!」
ヴェリシア様は、初めて目を伏せた。
負けを認めた顔ではない。
ただ、自分の作った檻にひびが入る音を、ようやく聞いた顔だった。
王宮騎士たちが動いた。
ヴェリシア様は抵抗しなかった。
ただ連れていかれる直前、私を見た。
「あなたの《LINK》は、いずれあなた自身も傷つけますわ」
「そうかもしれません」
「それでも続けるのですか?」
「はい。傷つくことがあっても、届かないよりはいいと思うから」
ヴェリシア様は、ほんの一瞬だけ笑った。
それは皮肉にも、敗北にも見えた。
「あなたは、私よりずっと危うい人ですわ」
「自覚はあります」
「なら、せいぜい見張ってくれる人を選ぶことです」
彼女の視線が、ローレンツ様へ移った。
ローレンツ様は少しも動じずに言った。
「その役なら、すでに引き受けるつもりでいる」
今それを言う?
ここで?
国中のマジホが鳴っている中で?
この人、思ったよりだいぶ強引だ。
顔が熱くなる。
でも嫌じゃない。
それがまた腹立たしい。
グランツ殿下は、膝から崩れ落ちた。
「ノエリカ、私は、君の連絡を何度も無視した。君が何を伝えようとしていたのか、見ようともしなかった。だが、今だけは返事をしてくれ。私は、どうすればよかった」
その問いは、遅すぎた。
でも、やっと届いた問いでもあった。
「私はずっと、返事がほしかったです。褒めてほしかったわけではありません。すべてを理解してほしかったわけでもありません。ただ、読んだなら、読んだとだけではなく、考えた言葉を返してほしかった」
グランツ殿下の顔が歪む。
「君の言葉は、私を責めているようで苦手だった」
「それでも、あなたは王太子でした。苦手な言葉にも、国のためなら向き合うべきでした」
「……ああ」
「私はあなたを許すかどうか、まだ決められません。でも、これだけは言えます。私を捨てたことより、マジホと《LINK》を玩具だと切り捨てたことの方が、王太子として大きな間違いでした」
彼は何も言えなかった。
その後、グランツ殿下は王太子位を退くことになった。
ヴェリシア様は偽警報の流布、王宮公報院の私物化、災害情報の意図的な遅延によって裁かれることになった。
オルドレイン侯爵家が管理していた公報院は解体され、王都の情報伝達は大きく見直される。
そして《LINK》は、王家の所有物ではなく、公共連絡術式として新たに整備されることになった。
もちろん、問題は山ほどあった。
偽情報への対策。
グループの管理。
招待紋の開放権限。
誤送信。
既読圧。
スタンプの乱用。
特にスタンプ。
なぜ鍋を掲げる料理長のスタンプが、王都で流行しているのか分からない。
分からないけど、流行っている。
マジで意味が分からない。
でも、少しだけ嬉しい。
私は毎日、頭を抱えることになった。
けれど、それでもよかった。
届かないよりは、ずっといい。
東区の火災が完全に鎮まった夜、私は王宮の臨時連絡室で、マジホを見つめていた。
広域グループLINKには、まだメッセージが届いている。
『ノエリカ様、ありがとう』
『LINK、消さないでください』
『東区、全員避難できました』
『雪兎スタンプの追加希望です』
『公爵閣下とお幸せに』
最後の一文を見て、私はマジホを閉じかけた。
見なかったことにしたかった。
でも隣にいたローレンツ様が、しっかり見ていた。
「ローレンツ様、今のは見なかったことにしてください。国の連絡網に乗せる内容ではありません」
「私は何も言っていない。ただ、民が非常に正直な感想を送ってきたと思っている」
「顔が少し笑っています。そういう時の無言が一番困ります」
「では言おう。私は嬉しい」
「言わなくていいです! 余計に困ります!」
疲れているのに、普通に笑ってしまった。
こんなふうに笑える日が来るとは思わなかった。
婚約破棄された直後の私に教えたら、たぶん信じない。
いや、信じないというより、「何を呑気なことを!」と怒ると思う。
「これ、どう返せばいいんでしょう。全部には返せません」
「全部に返す必要はない。だが、一つだけ送ればいい。君が無事だと。それを待っている者が、今この国には大勢いる」
私は広域グループLINKを開いた。
送信欄に、短い言葉を打つ。
『無事です。ありがとうございます』
送信した瞬間、既読数が跳ね上がった。
既読 12,804
既読 19,377
既読 31,002
個人のm Phone。
治療院の共有端末。
ギルドの掲示マジホ。
公報水晶に接続された閲覧署名。
私の短い一文を、国中の誰かが読んでくれている。
続けて、スタンプが滝のように流れた。
雪兎。
猫。
薬瓶を抱えた猫。
敬礼する騎士。
鍋を掲げる料理長。
やっぱり料理長がいる!
私はとうとう笑ってしまった。
泣きながら、笑った。
「すごいですね。私、こんなにたくさんの人に読まれているんですね」
「妬けるな」
私は固まった。
「今の、聞き間違いじゃないですよね?」
「聞き間違いではない。これほど多くの者に君の無事を喜ばれるのは、少し妬けると言った」
「ローレンツ様、それは言葉としてかなり大人げないです」
「自覚はある。だが、君のことになると、私はあまり公爵らしくいられない」
またそういうことを真顔で言う。
この人、本当に心臓に悪い。
私はマジホを握り直した。
「では、ローレンツ様には個人LINKで送ります。これなら妬かなくて済みますか?」
「内容による」
「そこは素直に喜んでください」
私は彼に個人LINKを送った。
『私は無事です。迎えに来てくれて、嬉しかったです』
ローレンツ様はマジホを見た。
すぐに既読がついた。
でも返事は来ない。
「……既読無視ですか? さっきまで既読がどうこう言っていた人が?」
私が言うと、ローレンツ様はマジホをしまった。
「画面で返すには、少し足りないと思った」
「何がですか?」
「私の気持ちが」
低い声だった。
私は急に逃げたくなった。
でも逃げたくないとも思った。
なにそれ。
ヤバい。
今日、一番ヤバい。
「そういう言い方、ずるいです。私は今日、もう結構いろいろ限界なんですけど」
「知っている。だから、急がない」
「急がない人は、そんな目で見ません」
「すまない。努力する」
「絶対に努力する気ないですよね?」
「君の前では、あまりうまく隠せない」
本当にこの人は、私の調子をめちゃくちゃにする。
私はさっきまで国の情報網について考えていたはずなのに、一瞬で全部持っていかれた。
「私は、まだ婚約破棄されたばかりです。王都のことも、マジホのことも、《LINK》のことも、これから大変です。仕事に夢中になると返事も忘れます。愛想のいい令嬢でもありません」
「それはグランツ殿下の見方だ」
ローレンツ様は、まっすぐ私を見た。
「私は、君がマジホの前で怒りながら、泣きながら、それでも誰かを救おうとしている顔を、可愛いと思っている」
変な声が出そうになった。
危ない。
本当に危ない!
「今のは反則です。かなりずるいです」
「では、次からは先に許可を取る」
「そういう問題ではありません!」
ローレンツ様は、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
ああ、もうだいぶ駄目だ。
グランツ殿下に選ばれなかったことが、もうどうでもいいとは言わない。
傷ついた。
悔しかった。
何度も既読無視されて、何度も自分の言葉を疑った。
でも今、私の言葉を待ってくれる人がいる。
届かない時に、探しに来てくれる人がいる。
「ローレンツ様。ブロックはしません。ただ、既読が遅れた時は、少しだけ待ってください。騎士団を動かす前に、せめて一呼吸置いてください」
「努力する。だが、君が危険な時は破る」
「それ、約束になっていますか?」
「私にできる最大限の約束だ」
私はあきれて、それから笑った。
マジホの画面には、まだ広域グループLINKの通知が流れている。
誰かのありがとう。
誰かの無事。
誰かの助けて。
それを受け取るたび、怖さは消えない。
これからも間違えるかもしれない。
傷つくかもしれない。
《LINK》が誰かに悪用されることもあるだろう。
それでも、私はこの術式を作ってよかったと思う。
私はマジホを作った。
離れた人と言葉をつなぐために。
でも今、私の手を取ってくれる人は、画面の向こうではなく、すぐ隣にいる。
ローレンツ様の手が、私の手に重なる。
既読も、未読も、通知もいらない距離で。
「行こう、ノエリカ」
「はい、ローレンツ様」
その夜、国中に一つの通知が流れた。
『《LINK》広域連絡網は、今後も継続します』
既読数は、すぐに数えきれないほど増えていった。
そしてその中に、ローレンツ様からの個人LINKが一つだけ届く。
『隣にいるが、送っておきたかった。君が無事でよかった』
私は笑って、すぐに既読をつけた。
返事は、少しだけ迷った。
それから、短く送る。
『私も、あなたが迎えに来てくれてよかったです』
今度は、既読がつく前に手を握られた。
だから返事は、画面ではなく、彼の隣で聞いた。




