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或る街の片隅で

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/10/29





新聞とテレビのリモコンを手にしたまま、フローリングの床を這う様に彼女は肘を突いていた。

私はそんな彼女を横目に冷蔵庫から豆乳を出してグラスに注いだ。


「何やってんだ……」


私はそう言って笑うと、角の擦り切れたソファに座る。


乾燥機の独特な匂いと、窓から吹き込んで来る春の風がベランダのジャスミンの香りを運ぶ。


「だってマニキュア塗ったからさ」


彼女はそう言って手足が床に付かない様にフローリングの上を転がっていた。

そう言われてみると微かに彼女のマニキュアの匂いがしている。


私はグラスの豆乳を飲み、彼女の観ている面白くも何ともない朝の情報番組を眺める。


「それ、どの位で乾くんだ」


「そうだな、このテレビが終わるくらいかな」


私は壁に掛けた時計を見る。

後十五分くらいでその情報番組は終わる様だ。

グラスに残った豆乳を飲み干して立ち上がるとシンクにグラスを置いた。

私は牛乳が飲めない。

腹を壊してしまうのだ。

彼女は豆乳が嫌い。

何だか粉っぽいと言う。

その癖、ソイラテなどカッコつけて頼む事もある。


「え、ソイラテって豆乳なの」


この間知った様だ。


他にもある。

目玉焼きに私はウスターソースをかけて食べるが、彼女は醤油。

その方がご飯に載せて食べる時しっくりくるらしい。

休みの日、私は家に居たいのだが、彼女は外に行きたいという。

まだまだあるが、もうそれは良しとしよう。


色々と気の合わない二人だが、こうやって一緒に住んでもう二年になる。

それでも何となく上手くやっている。






その日、私は突然振り出した雨にシャッターの下りたビルの入口に駆けこんだ。

近頃あまり当たらない天気予報がその日は当たってしまった。

私は薄い日指の下に小さくなって大粒の雨を眺めていた。


「何で今日に限って当たるんだよ」


そんな何処にも向け様の無い怒りを口にしながら。

すると、そこに女が走り込んで来た。

私の顔をちらと見るが、ハンカチを出して濡れた顔と肩を拭いていた。


「どうして今日に限って当たるのよ」


私と同じ事を呟く彼女を見て、私は笑った。

私の笑い声に気付き、彼女は私の目をじっと見ている。


「何ですか……。雨に打たれた女をいやらしい目で見る趣味とかあるんですか」


私は両手をホールドアップして、


「まさか……」


とだけ返した。


雨脚はどんどん強くなって行き、コンクリートの日指から滝の様に雨水が流れ出した。


「止みそうにないな……」


私は少し顔を出して空を見上げた。

暮れた街の空から落ちる雨はインロクが敷き詰められた歩道を流れ始める。


「ゲリラ豪雨って奴ですよ」


彼女は濡れた前髪を気にしながら呟く。

誰が見てもゲリラ豪雨ではあるのだが、改めてそう言われると返す言葉もない。


「傘持ってないんですか」


彼女は私を見て言った。

私は小さく頷いて、


「傘を持って歩くのが嫌いなんですよ」


と答えた。


「あ、私もです」


彼女のその時の表情を今も覚えているが、確かに微笑んでいた。


それから十分くらいだったのか、もっと短かったかもしれないが、小降りになったので、


「今がチャンスかもしれませんよ」


と私は彼女に言った。


「私もそう言おうと思ってました」


私は彼女と二人でその日指の下から走り出た。

歩道には水が溜まり、川の様に流れている。

その中を二人で小走りに地下鉄の駅へと走った。


地下鉄の入口に駆け込むと二人でまた濡れた髪と肩を拭く。

そして濡れた階段を滑らない様に下りて行った。


「学生さんですか」


私は何気なく彼女に訊いた。


「あ、女子大生を狙っている人ですか」


彼女からはそう返って来た。

どうやら少し思考の違う人の様に感じ、返事をしなかった。

すると少し前を歩いていた彼女は踊り場で振り返り、


「冗談で言ったんですけど、返事が無いと、本当にそう思っちゃうんですけど」


そう微笑んだ。

私はその彼女に笑顔に笑ってしまった。


「まあ、狙っている人ではない筈です。私は十分大人のつもりですから」


私は踊り場に立つ彼女を追い越して階段を下りる。


彼女の足音が私の後ろを付いて来る。


「でも、この場合ってご飯とかに誘うには絶好のチャンスですよね」


私の後ろから彼女は言った。


私は立ち止まり、背を向けたまま声を殺して笑った。

そして振り返ると、


「私みたいな年上で良ければ……」


私はそう言って彼女と一緒に地下街にある居酒屋に入った。


そう。

彼女とは初めから規格外の出会いをしていた。






床で肘を突いて両足を遊ばせている彼女を見ながら、私はそんな事を思い出した。


「あのさ」


彼女の声に私は我に返る。


「ん……」


彼女は私を振り返り、


「今日、帰りに少し飲んだりしてみない」


と言う。

今日は彼女と一緒に昼飯を食って、一日買い物をする予定になっていた。

足早にやって来る夏物の服を買いたいという彼女の一言から今日の予定は作られた。


「酒か……」


私はつまらない話題で盛り上がるテレビを見つめながら、


「いいね。じゃあ晩飯も外食だな」


と言った。


「やった」


と彼女は突然立ち上がり、私に抱き着いた。

確かに長い事、彼女と外で飲んだ記憶がない。

長い事と言ってもこの数か月の事だが。


「そう言えば初めて居酒屋入った時って、身分証明書見せろって言われたよね」


マニキュアの乾いた彼女は私の後ろの回り込み、後ろから私に手を回し身体を揺らした。


そう。

彼女は幼く見えて、未成年者に酒を飲ませていると思われてしまった。







「大学生なんですけど……」


素直に身分証を見せれば済んだのだろうが、彼女は居酒屋で立ち上がって店員に大声で言う。


「ですから、身分証を……」


「私の身分証を見せろって言うんなら、まずはあなたの身分証を見せて下さいよ」


私は立ち上がって二人の間に割って入る。


「あの、彼女は列記とした大学生です。しかも就活中の」


店員はそんな彼女に呆れて溜息を吐いた。


「ですから、それを証明するモノを見せて下さいって言ってるんですよ。ほら、あそこにも書いているでしょう」


店員は壁に貼られた「未成年と思われる方には身分証の提示をお願いしております」と書かれた紙を指差した。


「だから、勝手にそう思われている事に対してどうして身分証を見せる必要があるんですか。私を未成年だと思ってるのはそっちの勝手でしょ」


彼女は声を荒げて言った。


「未成年者に酒を提供すると、こっちが罰せられるんですよ。わかりますか」


店員の声も大きくなって行った。


「未成年じゃないって言ってるでしょ。客の言う事も信じられない訳」


彼女は腰に手を当てて更に大声を出す。

私たちと同じ様に突然の雨に打たれた人達で満席の居酒屋は騒然となり、皆の視線が私たちに突き刺さっていた。


「一方的にID見せろって言う方がおかしくないですか」


彼女は店員を睨む。


私はそのやり取りにどうしようも無くて、あたふたとしていた。


「人を見た目で判断するなんておかしいわよ」


彼女はそう言うと座り、テーブルの上の甘いサワーのジョッキを手に取って一気に飲み干した。


「どうした」


と店の奥から年配の店員がやって来る。


「店長……」


彼女に睨まれていた店員は店長と呼んだ男に泣きつく様に言う。

店長は私たちのテーブルにやって来て、深々と頭を下げた。


「すみません。若く見えるお客様には決まりで、声を掛ける事になってるんですよ。ほら、お客様が若くてお綺麗なモンだから……」


店長はそう言うと後ろに立っていた店員に、


「ほら、お客様にサワーのお代わり持って来い」


と言う。


「そんな飲みっぷりの未成年者は多分いません。本当に申し訳ありませんでした」


店長はまた深々と頭を下げた。


「色々とサービスしますから、気を取り直してドンドン飲んで下さい」


彼女は二度頭を下げた店長をじっと見て、


「良識ある大人は未成年者にお酒は飲ませませんよ。この人を侮辱した事になるんですよ」


そう言うと私を指差した。


おいおい、此処で巻き込むなよ……。


私は顔を引き攣らせて店長に頭を下げた。

しかし、店長はその彼女の言葉に私の方を向いて深々と頭を下げた。

計三度の深いお辞儀だった。

そして、店長は私の耳元で、


「今日は、お代は結構ですから、どんどん飲んで食って下さい」


と言うと店の奥へと返って行った。


私は消化不良の状態で、彼女の向かいに座っていた気がした。


「私を侮辱するのは許せます。だけど、大人のあなたの事を侮辱するって許せません」


彼女はそう言うと箸を取ってキュウリの浅漬けを立て続けに三枚、口に放り込んだ。







「私ってそんなに幼く見えるかな……」


彼女はスマホの画面に映る自分の顔を見つめている。


私はそんな彼女を見て微笑んだ。

多分彼女が思っているよりも幼く見える筈だ。


「昔はさ、年齢訊かれてさ、更に干支も訊かれてたんだよ。嘘言ってるんじゃないかってね。まあ、皆、設定しているトシの干支は覚えてたから、あんまり意味は無いんだけどね」


私はダイニングテーブルでコーヒー豆を挽きながら言う。


「じゃあ私と歩いてると援助交際とかしている人に見えちゃうかもね」


私はミルのハンドルを回す手を止めて彼女を見た。


なるほど……。

確かにそうかもしれない。


「そん時はそん時だ……」


私はそう言うと、またミルのハンドルを回した。


「援助交際とかした事あるの」


「ないよ」


「じゃあ風俗通いとかは」


「ないない」


「不倫は」


私はまたミルのハンドルを回すのを止める。


「それ、してたらどうするんだ」


彼女は視線を上に上げて天井を見る。


「うーん……。いつしてたかになるかな、問題は」


「いつ……」


彼女はゆっくりと視線を私に戻し、じっと目を見つめる。


「私と出会う前ならセーフかな……」


私は彼女の言葉を鼻で笑うとまたミルのハンドルを回す。


「じゃあセーフだな」


「あ、してたの」


彼女は立ち上がり私の後ろに来て、私の首に腕を回した。


「いつしてたの」


彼女の腕は軽く私の首を絞める。


「してないよ」


「してたでしょ」


「してない」


そんなやり取りをしながら私はコーヒー豆を挽いた。






ハンドドリップでコーヒーを淹れて、私は彼女の前にカップを置く。

そして自分のコーヒーを注ぐと向かいに座った。


彼女はコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込むと幸せそうに笑った。


「コーヒーの香りって好き。甘い様な酸っぱい様な……。でも苦いのよね」


確かに彼女の言う通りで苦そうな香りではない。


「コーヒー豆を初めて焙煎したのは山火事だったって話知ってる」


彼女は私の淹れたコーヒーを一口飲み、顔を上げた。


「何か聞いた事あるな……」


私は考え込む彼女に微笑む。


「でも、偉いのはそのコーヒー豆を飲んだ人だと思うんだ。火事で焼けた豆を磨り潰して飲むなんて普通思い付かないだろ」


彼女は二口目のコーヒーを口にして頷く。


「それも恐ろしく苦い飲み物で、それに砂糖やミルクを入れてまで飲まなきゃいけないモノだったのかって考えた事あるよ」


彼女はカップをテーブルに置いた。


「それを言うとさ、ナマコや蛸を初めて食べた人もそうよね。あんな気持ち悪いモノを食べなきゃいけなかったのかって」


確かにそれは彼女の言う通りだ。


「でも、それを言うと、初めて会った雨宿りの時にさ、傘を持ち歩くのが嫌いな二人が偶然あの狭い空間に走り込んだのも凄いよね」


私はコーヒーカップを手にしたまま脚を組んだ。


「傘持ってないからあそこに走り込んだんだろう。ナマコと一緒にするな」


「ううん。ナマコより凄いと思うの。だって、こんなに人が居る街の片隅のビルの裏口だよ。その確率って凄い事じゃない……」


まあ、確かにそうかもしれない。

そしてその二人が今、一緒に暮らしている確率。

それは恐ろしい天文学的な確率になるのかもしれない。


「傘持ち歩くのが嫌いな人って結構いると思うの。だけどあそこで雨宿りした人は私たち二人だった訳でしょ」


私はカップをテーブルに置いた。


「その後、私はナンパされて居酒屋に連れて行かれた……」


「おいおい、ナンパって言うな。学生さんですかって訊いただけだよ」


私は苦笑してまたカップを手に取る。


「でも、興味が無ければ私に学生かなんて聞かないでしょ」


私は口元でカップを止めた。

確かにそうかもしれない。

あの時、まったく興味が無ければそんな事を訊く事も無かったのかもしれない。


「それはお前も一緒だろう。興味が無ければ誘いにも乗ってないし、居酒屋にも行かなかっただろ」


彼女は私を見てニコッと笑った。


私はふと気付き彼女を見る。


「しかもあれは、お前から誘ったみたいなモンだろ」


彼女は私をじっと見つめる。

そして歯を見せて笑うと、


「だってさ、一目惚れしちゃったんだもん」


そう言って立ち上がった。


「コーヒーご馳走様でした」


そう言うとカップをシンクへ持って行く。


「一目……惚れ……」


私は手に持ったカップのコーヒーを飲み、その熱さに目を白黒させた。






開け放した窓から空を見上げると、今にも雨が降りそうなソラアイだった。


「こりゃ雨、降りそうだな……」


私がそう言うと私の横から顔を出し、彼女も空を見上げる。


「本当だ……。雨嫌だなぁ……」


そう言うと手を窓から出した。


「ああ、ちょっと降ってるかも……」


私はソファに座りそんな彼女を見ていた。


「雨だったら止めようか」


彼女は振り返ってそう言う。


それも良いかもしれない。

明日も休みだから買い物は明日でも良い。

だけど、食料だけは買いに行かないと飢え死にしてしまう。


「その時は食料の買い出しだけは行かないとな」


私はテーブルの上に置いた雑誌を手に取りパラパラと捲った。


「えー。じゃあそれはお願いします」


彼女は私に頭を下げた。

私はその彼女の姿を見て笑い、雑誌をテーブルの上に戻した。


「食料の買い出しは夜でも良いから、今夜、雨の後で一緒に行こう」


私はそう言うと寝室へと入った。

彼女もその私の後ろを付いてやって来た。

私はベッドに横になり、脇に積んでいた本を取り開いた。

彼女はそれを見るとベッドの横に敷いた布団に横になった。

これも私と彼女の合わない所。

私はベッドで寝るが、彼女は蒲団を敷く。

専ら、その布団も敷きっぱなしの事が多いが。


そして寝る前に私は本を開くが、彼女はイヤホンを付けて音楽を聴く。


「音楽なんて聴きながら眠れないだろう」


と私が訊くと、


「私は本なんて読むと眠れないわ」


と言う。

私は音楽を聴きながら眠れないし、彼女は本を読むと眠れないらしい。

本当にまったく合わない。

合うのは傘を持つのが嫌いな所と雨が嫌いな所。

それでも私たちは一緒に暮らせている。

人の社会とはそんな風に出来ているのかもしれない。


しばらくして私は本を閉じて元の本の山に戻し、ベッドの脇に敷いた彼女の布団を見ると、イヤホンをしたままの彼女が寝息を立てていた。


「音楽を聴きながらなんて、良く眠れるモンだ……」


私は彼女の耳からイヤホンを外すと彼女のスマホから流れる音楽を止めた。


彼女の寝顔を見る。

それを見るととても愛おしく思う。

それは嘘じゃない。


「おやすみ……」


私は黄金の微睡みの中に沈んで行く。






気が付くともう夕方になっていた。

私はベッドの隅に追いやられ、横には彼女が眠っていた。

いつもこうなのだ。

布団で寝ていた筈の彼女はいつの間にか私のベッドに入って来る。


私はそれを見て苦笑し、彼女の髪を撫でる。

そして彼女を起こさない様にベッドを抜けると、冷蔵庫からペットボトルの水を出してグラスに注ぐと一気に飲む。


こうやって貴重な休日が終わる。


それでも良かった。

彼女と一日中一緒にいる事も貴重な時間だ。

他愛も無い話をして、意味もない時間を過ごす。

それこそが素晴らしい時間なのかもしれない。


「起きたの……」


彼女が目を擦りながら起き出して来た。


「ああ。水飲むか……」


私が訊くと彼女はコクリと頷く。

伏せて置いてあったグラスを取ると水を注いで彼女に渡す。

彼女はそれを受け取ると一気に飲み干した。


「ああ、コップの水で溺れるかと思った」


なんて馬鹿な事を言っている。

私は彼女からグラスを受け取るとシンクに置いた。

そして窓際へ行き、暮れかけた空を見る。

どうやら雨は止んだ様だった。


「雨、止んだみたいだな……」


彼女はソファに座るとテレビをつけた。


「良かった。これで食料の買い出しいけるね」


私は短く返事をして、彼女の横に座る。


「せっかくだから、晩飯は外に行こうか。何、近所で良いんだ。畏まったモノを食う必要も無いし、二人で食べれればそれで良い」


私がそう言うと彼女は私の肩に頭を載せる。


「うん……。私、パスタが食べたい」


パスタか。

それも良い。

彼女はパスタが好きだ。

そして私もパスタは好きだ。


「アンチョビかな……。カルボナーラも良いな。いや、今日はスープ系かな」


彼女はそう言って私に歯を見せて笑う。


「俺は今日はチーズ系かな……」


「あ、それ、今、私も言おうとしてたのに。真似しないでよ」


そんな会話をしながら二人で笑う。


二度目に彼女と会った日は美味いと評判の店でパスタを食べた。

食前に出て来たサンペレグリノを飲み過ぎで私も彼女もお腹がパンパンになってしまい、肝心なパスタを残してしまった。

傍に居た客はビールを飲みながらパスタをガンガン食べていた。

パスタと炭酸はダメだと二人で言いながら店を出たのを思い出した。


「炭酸には気を付けろよ」


私が彼女に言うと、


「うん。それ私も今、言おうとしてた……」


そう言って笑っていた。






着替えて部屋を出たのはそれから一時間後くらいだった。

マンションの前の歩道が濡れて車のヘッドライトで光っていた。

彼女は恥ずかしげもなく私の腕に腕を絡めて歩く。


「気持ちいいね……」


と髪を掻き上げて彼女は言う。


「あれだけ寝ると夜、眠れないかもな」


彼女はニコッと笑うと、


「じゃあ起きてれば良いし……」


と、言った。

明日も休みだしそれでも良い。


「今日は仕事はしないの……」


私は横を歩く彼女を見つめて頷く。


「ああ、貴重な休みだからな」


と彼女の髪を撫でる。


「じゃあ、ゆっくり映画でも観ようよ」


私は彼女の提案に頷いた。


「映画用のお酒買わなきゃね……」


「身分証持って来たか」


私がそう言うと彼女は声を上げて笑った。


「その前にパスタだよ」


「そうだな……」






或る街の片隅で私たちはこうやって日々を過ごしている。

他人からどう映っているなんて関係ない。

私たち二人が今を生きている事こそがすべてなのだ。


彼女は大学を出て働き始めると直ぐに私の部屋に引っ越して来た。

一人では広いが二人では少し狭い私の部屋。

だけど、それが私と彼女には丁度良い広さだったりする。


忙しく日々を過ごす彼女と、マイペースに仕事をする私。

それでも接点と呼ばれる時間軸は沢山あり、それを如何に増やしていくか。

それが二人で過ごす事なのかもしれない。

価値観もトシも違う二人が同じ時間を対等に生きる事。

私と彼女はそれを上手くやっていると思う。


「ねえ」


彼女が立ち止まる。


「どうした……」


「もしかして、パスタ屋、閉まってない……」


少し先に見える筈のいつものパスタ屋の看板の明かりは落ちていた。


「本当だね……」


私は苦笑した。


「ええ……。もうパスタ気分だったのに……」


そう言う彼女を見て私は笑う。


「笑い事じゃないし……」


確かに笑い事じゃない。

今日の晩飯、どうするんだ。


「買い出しして家で作るか……」


「そうするとパスタが一種類になってしまうでしょ」


家で二種類のパスタを作るのは確かに厄介。


「駅の向こうの店まで行ってみるか」


「あそこはヤダ」


「じゃあ、大通り渡った向こうの……」


「あそこは潰れたんだよ」


「そうだっけ……」


私たちは歩きながらそんな会話をしていた。

これも大事な時間で、二人にしか出来ない会話でもある。


「もう、どうするのよ……」


「どうするって言われてもなぁ……」


私は街を見渡す。


「ステーキでも食べるか」


「既にパスタでも無くなったし」


「まあ、そうだけど」


「私はパスタ気分なの」


困ったモンだ。

しかしパスタ気分は私も同じ。


私は通りを走るタクシーに手を挙げる。


「何、何処行くの……」


そう言う彼女を見て私は、


「黙って付いて来い」


そう言うと止まったタクシーに乗り込んだ。


或る街の片隅で。








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