代償の指先
夜の繁華街は、改札ひとつで全く違う世界に辿り着く。
羽織っていたジャケットを脱ぎ、パーカーのフードを目深にかぶる。悪目立ちする白髪は隠す。俺は仁川黒助ではなく無名の売人として、観光客で賑わう灯りの反対側に降り立った。
カラオケや居酒屋の隣には、風俗店や紹介所。少し奥にはホテル街。学生やサラリーマンに混じって歩くのは、ラフな格好をしたスカウトや客引き、明らかにカタギではないスーツ姿。歩道の隅では立ちんぼの女が道行く男を値踏みしている。
そんな、騒がしくも猥雑な空間だ。
駅のコインロッカーで持ち替えたボディバッグから、無造作に取り出したSIMを予備のスマホに挿し込む。電源を入れると、スマホはすぐに大量の通知を表示した。
客にとっては貴重なライフラインなのだろうが、知ったことではない。見覚えのある名前だけを選んで、返信していく。
——紹介の紹介の紹介。
SNSが主流のこのご時世に、俺の商売相手はそんな狭いコミュニティで構成されている。ネットなんか使えばすぐアシが付く。そうならないように、立ち回る。
間も無く、スマホが震えた。
……またか。
無意識に溜息が落ちる。
電話の主は、常連のホストに貢ぐ所謂『ホス狂』の女だった。
「……はい」
「たすけて」
通話を開始すると、女は弱々しい声で言った。
溜息を追加する。メンタルを病んでダメになっている客は、大体同じ言葉を吐く。
このホス狂の担当は、現在の通話主のような客をたくさん抱えている。最近はメディアによって知られるようになった『売掛』を今も駆使して、女を地方に"出稼ぎ"にやるような奴だ。
女の見目は悪くない。
あんな男に縋らなくても、そこそこ無難な人生を生きられるだろうに——とは、思う。それでも、誰かに縋らなきゃ生きられない人間はいる。
俺だって、他人の事は言えない。
「今から行く」
それだけ返して、通話を終えた。
着信に気付かなければ良かった。
あの女に捕まると、とにかく長い。他の対応をする時間がなくなる。しかし紹介者であるクズホスト野郎は、資金源としてはお得意様だ。
完全に断薬を終えていないシロのためにも、大学に通いながら都会のファミリー物件に住み続けるためにも、ネタと金は必要だ。
いつになったら裏社会との繋がりが絶てるのやら、分からない。
シロならこういう時、紫煙を吐くのだろう。しかし残念ながら、俺は喫煙者ではない。
とりあえず、女のところに行くのは他の客のあとでもいいだろう。「死ぬ」と連呼する奴に限って、簡単には死なないものだ。
肺一杯に溜まったモヤを、息に乗せてゆっくりと吐き出す。
雑居ビルの隙間を縫うように、俺は夜の街を歩き出した。
***
「クロ、おかえりー」
家に着くと、シロがふにゃっと笑った。
隣県での撮影を終えて、先に帰宅していたらしい。シロはオーバーサイズのシャツから肩を見せながら、ゆったりとした動作で寄ってくる。
いつもなら、俺はその細い身体を抱き寄せる。
シロはもう俺の管理下以外でネタを食わない。なのにシロからは溶けたプラスチックのような、すり潰した雑草のような匂いがする……気がする。最近はSENAが纏う化粧品のそれも追加された。
この匂いは、中毒性が高い。
「悪い。すげえ歩いて汗かいたから先にシャワー浴びてくる」
「お湯沸いたとこだよ。一緒に入る?」
「サッと入って、すぐメシ作るから待ってろ」
いつものハグを待っていたらしい手には、触れない。すると「……そ」とだけ言って、シロはリビングに行ってしまった。
どうせまた、ビーエルだの猫動画だのを見てソファに転がるのだろう。
それを見送って、湯船の蓋を外さないまま、俺はシャワーを浴びた。とにかく、染みついたものを洗い流したかった。
あのホス狂は、金がなくても呼びつけてくる。今夜は金目のものがあったから良かったが、マイナス収支になることも少なくない。
クズホスト野郎は、客を薬と借金漬けにして管理しているくせに、マージンまで要求してくる。どいつもこいつも、最低だ。
そんな奴らを想起させる痕跡は、家に持ち帰りたくない。
髪と身体を何度も洗って風呂場を出ると、足元にシロがいた。ドアの前でしゃがみ込み、猫動画を流しながら、俺を待っていたらしい。
そしてこちらに気付くと、「お腹すいたー」と言ってヘラっと笑った。
まだ朝晩は冷える季節だ。
廊下だって例外じゃないだろうに、シロは待たされた空腹に不満を見せない。むしろ「待ったんだから今夜はオムライスだよね?」と言わんばかりに、上機嫌だ。
「玉子は明日買ってくる」
「えー!? 玉子ないの!?」
先制すると抗議された。
俺がいない間、コイツは冷蔵庫すら開けてないのか。ジュースしか見ていないか。
「玉子使わないやつで、食いたいものあるか?」
やはりオムライスを所望していたらしい。
あからさまに頬を膨らませて見せるシロには、リクエストを聞いてやることにした。
「えー、プリン?」
「玉子ねえって。つーかそれメシじゃねえ」
「袋麺」
「玉子入れないと拗ねるだろ」
「……チャーハン」
「知ってるか? チャーハンにも玉子を使うんだ」
「んん……、じゃあもう卵かけご飯でいい」
「玉子ねえのに何をかけるつもりだよ」
全てを却下しながら、腰にしがみつくシロを引きずりキッチンに向かう。
シャツの隙間から触れるシロの指先は、やけに冷たかった。




