無償の手
土曜の昼下がり。
俺はホテルの一角にある喫茶店に来ていた。
目の前に座った男は書類に向かい、ペンを走らせている。
白髪混じりのロマンスグレー。年齢の割には老け顔。休日だというのに、仕立ての良いスーツをキッチリと着た男。瀬名眞一郎——シロの実の父親だ。
「いつもすみません。親父さん」
受け取った書類をクリアファイルに挟み、頭を下げた。俺は彼を、親父さんと呼ぶ。
この書類は、シロと暮らしているマンションの更新契約書だ。前に住んでいたワンルームが、俺の大学の資料や書籍で足の踏み場が無くなってしまったため、二人で引っ越した。
親父さんは、保証人を申し出てくれた。
パートナーシップ制度を利用しているとはいえ、同性の同居にはシビアな審査がつきものだ。しかし現役キャリア官僚という親父さんの名前は、本来なら厳しいはずの審査を驚くほどすんなり通してしまう。
「私が支援すると言ったんだ。仁川君が気にする事ではない」
「それでも助かってます」
もう一度、頭を下げた。
高校二年の冬、進路相談の三者面談があった。
シロはその席で「俺、進学しないよ。クロと結婚するから」と言ったらしい。入学時からオール満点の学年首位が落とした爆弾に、担任や進路指導は、それはもう大騒ぎだったそうだ。
後日、シロと俺を家に招いた親父さんは「眞白が望むなら、それでいい」と言って、教師達よりあっさりとシロの要望を受け入れた。
つまりシロとの関係は、親父さん公認というわけだ。
「眞白は……、元気にしているか?」
ぽつりと言った親父さんの声は、躊躇の色がある。
というのも、この親父さんは、シロから絶縁宣言を喰らっているのだ。
男と結婚する——なんて突拍子もない発言を、説教ひとつなく容認した父親に向かって、シロは「これでもうここに来る理由がなくなった」と言い放った。
以来、シロは親父さんと一度も会っていない。
瀬名家は代々政治家や官僚を輩出する名家らしい。
なのにシロが望むなら——と、俺と生きることを認めた。つまり、親父さんはシロのために名家の断絶という道を選んだのだ。
親父さんと話していると、時折その抑揚の少ない口調に冷たい印象を受ける。
だが、彼は不器用なだけなのだ。話してみれば、親としてちゃんとシロを愛しているという事が分かるし、シロのようにポヤポヤしている時すらある。
目の前のこの男は、ただの天然親父なのだ。
そんな事を伝えても、シロはまた「ふーん」と興味なさげに返すだろうから、言わないが。
「シロ……眞白は、元気にやってますよ」
「……そうか」
親父さんの表情が、わずかに緩んだ。
心底安堵しているのだろう。細めた目元がシロによく似ている。
……やっぱ、親子なんだよな。
シロは自分の過去や家族について、あまり話さない。ただ……心理学を専攻していると、嫌でも分かってしまうことがある。なぜ彼らの親子関係が破綻したのか、それにより俺の両親は——
「そういや、近いうちにまた雑誌に載りますよ」
思考を中断して、切り替えた。
シロは今日、撮影のため隣県に行っている。
次はファッション誌にグラビア特集が載るらしい。勿論、グラビアと言ってもエロいものではない。
「そうか」
短く言った親父さんは、一段と目を細めた。
彼はSENAが載っている雑誌をすべて購入している。駅前を飾った広告も、撮ったに違いない。
あの雑踏に混ざり、若い女達の隙間からスマホを掲げる親父さんを想像してしまった。シュールだ。
「じゃあ、俺はそろそろ失礼します」
席を立って伝票を手に取ろうとしたら、止められた。
「……ごちそうさまです」
礼を告げると、親父さんは軽く首を振る。
応えるように俺は軽く頭を下げ、歩き出した。
通り道に郵便局があったな。ついでだからこの書類を発送してしまおう。
——これで少なくとも、また二年。
俺たちはあの家で暮らせる。




