灯さない祝着
ここ一週間ほど、クロの様子がおかしい。
普段からオーバーワーク気味なのに、いつにも増して酷い。
五月の半ばに差し掛かると、毎年こうだ。
カレンダーになんの印も書かれない日。
それが今日——クロが生まれた日だ。
「おかえりー」
夕方、クロが帰ってきた。
いつも通り出迎えるけど、返事はない。代わりにふわりと、線香の匂いが鼻を通り抜ける。
両手を広げると、クロは俺を抱き寄せる。
いつもより力が強い。背骨が軋むくらいぎゅうぎゅうに抱きしめられると、正直痛いし、苦しい。
ハグはハグでも、もはやベアーハグだ。
「……夕飯、何食べたい?」
しばらくして、ようやく俺を離したクロは、バツが悪そうな顔でぽつりと聞いてきた。
「オムライスかハンバーグ。あ、でもカレーもいいな」
「……ん」
しんどいならデリバリーでもコンビニ弁当でもいいと思うけど、いつも通りに答える。
こういう時のクロは、泳ぐのをやめたら死んでしまう魚のようになる。何も考えたくないから、何かに没頭する——と言わんばかりに、動き続ける。
クロはスーツから部屋着に着替えると、早速料理にとりかかった。キッチンに立っているほうが落ち着くのだろう。
野菜を切る音が、リズミカルに響く。俺はそれを聴きながら、ソファに転がる。
クロの誕生日に特別なお祝いはない。
ケーキもご馳走も、『おめでとう』の言葉も、プレゼントも、ない。
俺自身そんなことしてもらった記憶がないから、いざやれと言われても困るけど。
だから普段通りに過ごすのが、俺がクロにできる唯一のことだ。
「シャワー浴びてくるから、先に食ってろ」
二時間もしないうちに、クロはキッチンから出てきた。
ダイニングテーブルには、ハンバーグが乗ったオムライスにカレーが掛かった——全部盛りの皿がひとつ置かれている。
誕生日や記念日に忌避感があるクロは、今年も一緒に食べる気はないらしい。
それにしても、豪華すぎる。
没頭してたら作り過ぎただけなんだろうけど……カロリーの暴力がすごい。俺は太りにくい体質ではあるけど、体型が変わるとおがちゃんに怒られそうだ。
「ねえ、俺一応モデル業なんだけど……?」
呟いてみたけど、クロはもう浴室に向かってしまった後だった。
大人しく食べていると、リビングに戻ってきたクロが頭を撫でてきた。そして俺の定位置であるソファに腰を下ろして、本を読み始める。
甘やかしたいのか、突き放したいのか……分からない。
食べかけの皿を持って、クロの足元に移動する。ソファに凭れた俺を一瞥したクロは、やっぱり何も言わない。
いつもと逆だなーなんて思いながら、俺は全部盛りの残りを詰め込んだ。
満腹のお腹が落ち着いたのは、寝る前のことだった。
それからようやくシャワーを浴びると、クロは黙って手招きをして、俺の髪を乾かしてくれる。温風とともに髪を撫でるクロの手は優しい。
いつも通りなのに、会話はない。
元々俺たちはあまり言葉を交わすほうではないけど、静かすぎる時間はちょっと息苦しい。
けれどこういう時のクロには、いつものような軽口を叩けない。何が彼をナーバスにさせる地雷になるか、未だに分からないからだ。
そしてベッドに入ると、俺はまたぎゅうぎゅうにされた。
クロはいつだって、言葉が足りない。押し殺した悲しみや苛立ちを、痛いほどの力に込めてくる。
待って。今その力でやられると、カレーが出てきちゃう——なんて、言えるわけもない。
「……クロ」
なすがままにされながら、少しもがいてみる。
圧迫されてた息を吐きながら呼んでみたけど、何を伝えるとかは決めてなかった。
俺は、クロの傷に触れられない。
この九年間。ケーキにロウソクが灯されなくなった原因の元凶は——、俺にあるのだから。
「明日からはまた、いつも通りするから」
「うん」
「だから……お前はどこにも行くなよ」
ぽつりと、消えそうな声が耳朶を打った。
やっと出た弱音だ。
「行かないよ。俺はクロの抱き枕だからね」
返して、柔らかい白髪に触れる。
一瞬跳ねた背中をトントンと叩くと、クロは深く息を吐いた。それが耳にかかるもんだから、くすぐったい。
こんな日じゃなければ、襲っていたかもしれない。クロはそういう関係を望まないから、しないけど。
「本当に?」
「ほんと。だから、大丈夫」
「……ん」
クロの呼吸が背中を叩くリズムに同調したころ、ほんの少し力が緩んだ。
カレーは逆流せずに済みそうだ。
「おやすみ、クロ」
返事の代わりに、寝息が聞こえた。
本当にクロは寝付きがいい。
しばらく経って、深く寝入っても寄ったままの眉間を指で伸ばす。クロは身じろぎひとつしない。
難しい顔が解けたのを確認して、俺はそっとベッドから抜け出した。
「……いっそ、俺を責めれば楽だろうに」
ベランダに出ると、紫煙とともに零れた。
クロは俺を責めないし、手放さない。
分かってはいる。けどたまに、それが堪らなくなる。責められて楽になりたいのは、俺のほうだ。分かっては、いる。
それならせめて、クロがまた魘されてしまわないように抱き枕でいるしかない。
それだけが、俺の存在価値なんだから。
短くなったタバコを灰皿に入れる。
この日、唯一灯った火はジュッと音を立てて水に沈んだ。




