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三時のプリン

 今夜もまた、リビングにノートパソコンが持ち込まれた。

 あまり大きくないローテーブルの天板は、あっという間にパソコンとタブレットと紙で埋め尽くされる。



「悪い。多分今日も遅くなる」


 告げられて、俺は動画アプリを落とした。

 テレビも、クロが家にいるときは一緒に観るときくらいしかつけない。昼間は適当にワイドショーや再放送のドラマを流すけど、それも俺が一人で留守番している間だけだ。


 こうなると、俺はクロの白髪を視界の端に置いたまま、本を読むくらいしかやることがない。本は"姉"がいつも送ってくれるから、未読のストックがたくさんあって助かる。



 静かな空間にタイピングの音と紙が擦れる音が重なり、その奥にクロの息遣いが聴こえる。


 俺は、この時間が嫌いじゃない。


 ソファに転がって、時折クロの手元を覗く。

 ノートは丁寧な字で几帳面に整理されていて、ディスプレイに綴られる文面にもその性格が反映されている。


 積まれた紙束や書籍も、たまに手に取ってみる。

 日本語だったり英語だったりで書かれたそれは、見てて面白い。でも、俺は途中で飽きてしまう。


 何度も読み返しているだろうクロはすごい。

 大量に貼られた付箋は、もはやフリンジと呼べる勢いだ。


 どこを見ても、クロの不器用な努力が垣間見える。




「あ゛ー……」


 白髪を乱雑に掻きあげて、クロが唸った。行き詰まるとたまにこうして声を上げる。


「飲み物、持ってこようか」

「……いや、い…………やっぱ頼む」


 だいぶ疲れていそうだ。

 大学三年になってゼミとやらに所属したというクロは、最近徹夜が多い。なのに、朝は早い。


 時計の針は頂上を越えようとしている。


 出来れば、クロには早く寝てほしい。

 抱き枕の仕事がなくなってしまう。



「クロ、ここ」


 冷蔵庫にあったアイスコーヒーを渡し、俺は口を出すことにした。ディスプレイを指差すと、クロが不満そうな顔をこちらに向けてくる。


「お前、どこから見てた?」

「えっと、……ちょっとだけ」

「何で、ちょっとで分かんだよ」


 クロのジト目が痛い。


 見たら分かる——とは言わない。


 それを口にすると、過剰に期待を寄せてきたり、キレて突っかかってくる人がいる。気に食わないからといって怒られるのは、気持ちいいものではない。


 祖母も兄もすでに故人だし、クロはそんなその他大勢とは違う。分かってはいる。でも——



「……どこがおかしい?」


 言いあぐねていると、クロは大きな溜息を吐きながら聞いてきた。


「ここの論理が合ってないからおかしくなる。あとこっちとこれは誤字ってる。スペルミスもある。あとそこに推論と考察入れるならこっちの資料の例を使ったほうがスッキリすると思う。ついでにその表記、APA準拠になってない。えっと、あとはね」

「待て待て待て! 一気に言うな! つーかお前、何でAPA知ってんだよ!!」

「クロの本読んだ。……途中で飽きたけど」

「……飽きてそれか」


 気になった箇所を挙げると、クロが項垂れた。その声色には諦めと呆れと、少しの苛立ちが乗っている。


 こういう反応をされると、なんて言ったらいいか分からなくなる。


 黙っていると、クロが俺の頭をわしわしと撫でた。雑だけど、痛くない。「大丈夫。怒ってない」と言われた気がする。


 それっきりクロはなにも言わず、資料を捲り始める。

 再びパソコンがカタカタと音を立てたのは、単行本を一冊読み終わったころだった。



「……休憩だ。甘いモン食うぞ」

「コンビニ行く? 待ってね、準備する」

「いや、作る。プリンなら材料足りるはずだ」


 しばらくすると、静寂を終わらせるようにぱたりと音を立ててパソコンが閉じた。クロは立ち上がると、腕をくるくる回し始める。


 キッチンに向かった背中を追いかけて、カウンター越しに眺める。


 クロは慣れた様子で、ボウルに割り入れた玉子をかき混ぜる。砂糖や牛乳を加えてまた混ぜて、小さな瓶を振るとバニラの香りがふわりと広がった。

 普段はなんでも手順通りにこなそうとするくせに、料理をするときだけはいつも目分量だ。



 冷蔵庫に突っ込んだプリンが固まるのを待つ間、クロはまたカタカタと音を鳴らし続けた。

 そして完成したプリンを苦いコーヒーで流し込み、再びパソコンに向かう。二時間かけて作った甘味は、秒で消えてしまった。


 クロは甘いものがあまり得意じゃない。

 頭が疲れたから血糖値を上げるという作業のために、スイーツを作ってしまうのが仁川黒助という人間なのだ。



「先に寝てていいぞ」


 甘いものを食べると、眠くなる。目をこすっていると、クロが胡座の膝をぽんぽんと叩いた。今日の俺は抱き枕ではなく、クッションらしい。


 寝室から掛け布団を持ってくる。それに包まって頭を乗せると、クロは片手でキーボードを叩きながら、もう片手で俺の髪を触り始めた。


「伸びたな」

「ウィッグ被るとき、ちょっと長いほうがネット突き抜けてこなくていいんだよ」

「そういうもんか…………んん……?」


 話してる途中でまたクロが唸った。

 見上げていると、表情はよく見えない。


 しかしもう話しかけることはしない。頭から伝わる振動に身を任せ、大人しくしておく。

 聞かれない限り、答えない。それが一番平和だ。



 髪を撫でる手がリズムを失ってくると、俺は頭の位置を変える。パソコンに向かって舟を漕ぎ始めていたクロの身体が、小さく跳ねた。


 カーテンの向こうが、薄ら明るい。


 このまま寝てほしいけど、起こしてやらないといけない。寝落ちのツケを払うことになるのはクロだ。いっそ今日中にこのレポートを終わらせてもらって、夜はちゃんとベッドで眠るほうがいい。



 だから俺は、クロに「いってらっしゃい」と言うまで、この静かな時間に揺られておくことにした。

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