無邪気の恣意
「えー、なにこれ可愛い」
開口一番、トルソーに向かって走り出したのは瀬名だった。
今日は斉藤さんに連れられて、瀬名もうちの事務所に来ている。次の仕事に向けた衣装合わせと、スケジュール確認のためだ。
「シアー素材っていうんだっけ。色も涼しげでいい」
「でしょ? ほら、さっさと仮縫いするよ」
月末に撮影する写真が雑誌に載るころには、もう夏だ。だからこの衣装はレースでボリュームを出しているが、生地は薄くて軽い。
まだざっくりと合わせただけの布を瀬名に着せ、仮縫いの糸を取り出す。針に通したそれのテンションを確認していると、斉藤さんのスマホが鳴り出した。
「奥さんかな」
焦った様子でスマホを取り出した斉藤さんを見て、瀬名が耳打ちしてくる。うちは「さあね」と応えておいた。瀬名はもうすぐパパになる斉藤さんを祝いたいらしい。
斉藤さんがペコペコと頭を下げて部屋から出ると、瀬名は徐にテーブルへ手を伸ばした。
「そういえば、こないだ久しぶりにマコトとヒヨコとアイリスと飲んできたんだよね」
マネージャーの目がないうちに雑談したいらしい瀬名が、スマホを見せてくる。そこには、懐かしい顔が写っていた。居酒屋で集まったらしい友人達の様子はとても楽しそうだ。
「……いいなあ、飲み会」
うちもヒヨやアイリスとはよく遊んだけど、そういえば最近会ってないな——なんて思ったら、無意識に零してしまった。
「今度はおがちゃんも来る?」
「うーん、うち酔ったらSENAのこと言っちゃいそうだからやめとく。守秘義務あるし」
折角の誘いだが、断っておく。
SENAを専属モデルとする契約を交わした際、彼の正体について他言無用であることや、漏らした場合には賠償金請求があることに同意した。今だってスタッフ達は何も知らないまま、別室で作業を進めているくらいだ。口を滑らせたら、うちは社会的に死ぬかもしれない。
「マコトもヒヨコもアイリスも知ってるよ? 俺がSENAだって」
「え」
「え?」
「え、じゃないよ!! はぁ!? 言った!? 言っちゃったの!?」
思わず手を止め、瀬名の肩を揺さぶって叫んでしまった。垂れた糸から針が揺れているが、今はどうでもいい。
コイツの契約書には守秘義務書いてないの!?
……書いてなさそうだ。きっと契約時に色々と条件を盛り込んだ仁川が、意図的に守秘義務に触れさせなかったに違いない。瀬名の性格を知り尽くしているアイツが、すぐに契約違反になりそうなことに同意させるわけがない。
「うん。クロが『まあ、いいんじゃね?』って言ったし。ダメだった?」
はい、出たよ! 主語が仁川!!
うちを訪ねた斉藤さんが、わざわざ聞いてくるわけだ。数年来の付き合いがあるうちでさえツッコみたくなるこの男を、理解しろと言うのがどだい無理な話なのだ。
仁川も仁川だ。数年来の友人である彼らを信頼しているのかもしれないが、この男を甘やかすのは大概にしてほしい。
針を持ち直し、仁川への苦情は心にしまっておく。
「……それ、斉藤さんも知ってる?」
「知らないと思う。言ってないし」
「アンタねえ……斉藤さん、ほんとに胃に穴開いちゃうから絶対言っちゃだめだよ」
「分かった。言わないでおく」
瀬名の口調は悪気のかけらも感じさせない。
さすが地軸を中心に世界が回っている男、瀬名眞白。
この男を好きにならなくて良かった——と、つくづく思う。友人だから笑いごとになるが、瀬名は今まで出会ったどんなダメ男よりも重い。
「でもまあ、そういうことだから。おがちゃん、ヒヨコとアイリスとはお酒飲んで来て大丈夫だよ」
さらりと切り出された言葉には、素直に感謝しておく。正直ありがたい。せめて斉藤さんが血を吐かないよう、祈っておこう。
「すみません、戻りました」
「生まれた!?」
ノックと共に斉藤さんが入ってくると、瀬名が勢いよく振り向いた。
「いえ、まだです」
「そっかー」
「瀬名、動かないで。あと、ドア閉まったの確認してから喋って」
どうやら奥さんからの連絡ではなかったらしい。斉藤さんの顔色は悪いが、声は落ち着いている。
瀬名を鏡に向き直らせ、最後の糸を始末する。せめてこの段階まで、動かないでいてほしかった。
まあ、うちも聞きそうになったけど……。
仮留めの安全ピンを外して衣装をトルソーに着せ替えると、瀬名は大きく身体を伸ばした。
腰が細い。白く滑らかな背中は、コルセットピアスに真紅のリボンを掛けたら映えそうだ。お世辞にも男性的とは言えない、なだらかな肩のラインを活かしたデザインが、いくつか思い浮かんだ。
……いや、まずは服を着ろ。少しは恥じらえ。ここに妙齢の女子がいることを忘れるな。
「SENAさん、服を」
同じことを思ったのか、斉藤さんが服を持ってきた。
ゆるいシャツワンピに薄手のドルマンスリーブのカーディガン、そしてスキニーデニム。長い革紐のウッドペンダント。コーディネートが完全に女子のそれだ。
「そういえば斉藤さん、もし赤ちゃん生まれる時は奥さん優先してあげてね。俺のことは気にしなくていいから」
「……はあ」
瀬名は着替えながら「おがちゃんもいるし」と付け加える。突然話題を振られた斉藤さんが、胃を押さえながら力なく返した。
確かに、うちは撮影に同行する。
現場でのうちの仕事は、瀬名に着せた衣装の調整と、ウィッグを装着させること——つまり、他のスタッフにこいつが男だとバレないよう雑務をこなすことだ。
SENAにはメイクやヘアメイクのプロが付いている。彼女たちに引き渡すまでに、瀬名をそれっぽく仕上げることがメインの作業となる。
まあ、瀬名は元から中性的な顔立ちだし、着せ替えるくらいしかやることはないのだが。
しかし斉藤さんの仕事は多岐に渡る。
スタッフやカメラマンへの挨拶や対応、撮影データの確認と使用可否の判断、スケジュール調整に交渉——。
……いや、うちは衣装担当だ。さすがそこまでは求められまい。きっと事務所が、代打のマネージャーを手配してくれるはずだ。そうに違いない。
もし誰も来なければ……それはそれで、なるようになると思うしかない。
マネージャーに育休を勧めるこのモデルは、恐らく本気で、善意百パーセントで言っている。鏡の前でウィッグを整えながら、瀬名がうちに「ね?」と笑った。
——仁川はよくこんな奴の手綱を握れるものだ。
完全に女に化けた瀬名とマネージャーを見送ったあと、斉藤さんから『スケジュールの確認を忘れていた』とメッセージが届いた。
斉藤さんに返信したら、ついでに懐かしい友人に飲み会の誘いを送ってみよう。




