沼が生まれた日。
私の人生における最大の転機について、語ろうと思う。
——あれは三年前の六月。
宝飾店に勤める私は、ある一組のお客様を対応した。白髪と黒髪の、高校生くらいの二人組だった。
彼女へのプレゼントかな。
……いや、彼らがカップルなのかもしれない。多様性の世の中だし、そういうこともあるだろう。イマドキの子は同性でもペアリングをつけるのか〜。
そんなこと、思っても顔には出さない。
私はプロの店員なのだ。
「何かお探しですか?」
「はい! 結婚指輪です!」
「おいやめろ」
「でもケッコンしたじゃん?」
「そう……だけど、あの制度って結婚なのか?」
……結婚? 結婚って言うた?
「……でしたら、このあたりがお手頃価格となっておりますよ」
宝飾品の指輪は、決して安い買い物ではない。
まだ学生だろう彼らを、ショーケースの中では安い部類のコーナーに案内する。
しかし黒髪はそれを一瞥し、不服そうな顔をした。
「つけっぱなしにするから、変色しないプラチナがいいなー」
「違いが値段以外わかんねえ」
おおっと、プラチナとか言い出しよった。
白髪のほうは、あまり宝飾品に詳しくないらしい。学生にプラチナは背伸びしすぎだと思うが、きっと貯めたバイト代を奮発するんだろう。
「あとは裏石だね。えっと……」
何て? 裏石? ガチ結婚指輪なん!?
店内を歩き回ろうとする黒髪の行く手を阻んで、私は彼らを奥の応接コーナーに案内することにした。
「あ、これ良くない?」
「これくらいシンプルならアリだな」
「こっちの幅広のほうがクロに似合いそう」
「じゃあそれにするか」
応接コーナーの席で、サンプルに並べた男性用のプラチナリングを眺めながら、彼らはあれやこれやと言い合っている。微笑ましいが、値段は見たほうがいいと思う。
Pt900は決して安くない。
「クロの石はピンクサファイアね」
「同じやつじゃねえの?」
「俺は違うやつにするけど?」
白髪が「何で俺のだけ勝手に決めんだよ!」とツッコむが、黒髪はそんな白髪をじっと見つめて、またカタログを眺め始めた。
何で? 何で見つめたん?
白髪は黒髪の行動に溜息を吐くだけで、彼もまたカタログに目を落とす。「ピンクサファイア……ピンクっても微妙に色違うんだな……」とぶつぶつ呟いているあたり、彼は黒髪の要望を飲むらしい。
そしてしばらくして、彼らはそれぞれカタログを私に向けて「こういう感じのやつ出来ますか?」と言った。
白髪が選んだのは、ピンクサファイアのなかでも灰色ががった淡い桃色。
黒髪が選んだのは、琥珀色に近いイエローダイヤだった。
いやそれお前らの目の色やん。っていうかその色味、天然一点物級やぞ? セミオーダーの域超えとんねん。金持ちのボンボンか。
「かしこまりました。こちらのお石はお取り寄せとなりますので、お時間を頂きますがよろしいですか?」
彼らが頷いたのを確認し、続ける。
「では次は刻印ですね。フォントのサンプルがこちらになります。文字数は……」
「あー、刻印はいらないです」
「俺もいらないかな」
あんだけ石にこだわって刻印せえへんのんかーい。
脳内ツッコミが捗る。業務中は標準語を話すが、彼らのマイペースっぷりに関西出身の血が騒いでしまう。あかん、落ち着け私。
オーダーシートを記入して、見積もりを出す。
宝石の色味指定に関しては価格に幅があるため、本当にザックリとした概算だ。
「お値段のほうがこちらになりますが、よろしいですか? お石の入荷状況により納期とお値段は前後しますので、本日は内金のみ頂きます」
見積もりを見せる。
大人だって青ざめるような価格だ。内金だけでも、既製品ならお釣りが出るレベルになる。
「現金でいいですか。残りも一括で」
親のクレジットカードでも出してくるかと思ったら、まさかのニコニコ現金一括払い!? 正気か!? もう少し出したら軽自動車買えるで!?
全力でツッコミを入れたい気分を押し込んで、私は営業スマイルを維持した。
ジュエリートレーの横に、一万円札が積み上がっていく。営業スマイル。営業スマイル。
「ではお石の手配が出来ましたら、ご連絡致します。お電話番号はこちらでよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
「お受け取りの際は、こちらの控えをお持ちください。ありがとうございました」
彼らを見送って、スタッフルームに下がった。
あかん。もう営業スマイルが保たれへん!
「おつかれー。サボりなんて珍しいじゃん」
コーヒーでも飲んで気分を切り替えようとしたら、同期が入ってきた。
「なんか……なんかね、すごいお客様がいた」
「ああ、また芸能人?」
「ううん。多分……高校生くらい」
「いいじゃん。青春じゃない?」
「どっちも男子」
「おぉ?」
「結婚指輪買いに来てた。約七十万円」
「うはっ」
同僚が目を輝かせている。なんでや。
「しかもなんか……お互いの瞳の色の石選んで、なのに刻印はいらないって」
「つまり石にクソデカ感情満載しましたってこと? は? 尊いが過ぎるんだが?」
「……と、とーとい?」
首を傾げると、同僚は「いいからググってみ」と言って店頭に戻って行った。意味が分からないままコーヒーを飲み干して、私も後を追った。
***
「十日市皐月先生、また壁サーやん! どうしよ……最初に並んだら時間足りひんかもしれへん……いやでもまずは今度こそ差入れを……」
あれから三年。現在の私は仕事から帰宅し、同人イベントのカタログを片手に最短ルートのシミュレーションをしている。
同僚に勧められた『尊い』の意味を調べて以来、すっかり沼にハマってしまった。
嵌められてしまったと言ってもいい。
当時の私は、オタク趣味なんて無縁の生活をしていたのだ。しかし今はファッション雑誌を撤去した本棚が、BL本と同人誌で埋まっている。
どうしてこうなった——と、思わないこともない。しかし充実はしている。
沼はとても、あたたかいのだ。




