09 これから
――中の探索を終え、洞窟から出た時。
チィの左手の指からは指輪が消えており、そこには指輪が確かにあったことを示す線だけが残っていた。
「良かったの?」
「うん! あれはチィのじゃないから」
「……そっか」
指輪を無くしたのと同時に、
チィは、大人に戻ることを止めた。
『彼のいない人生は、きっとわたしじゃ耐えられないから。残りの人生は、チィにあげるね』
ごめんね、リクくん。
そう言って、涙で濡れたままで目一杯に笑ったあの顔を、僕は忘れない。
チィは自分の指輪を外して彼の眠るボートへそっと置くと、僕に『帰ろう』と一言だけ告げて、洞窟の出入り口へと歩いて行った。
そして、大分傾いた太陽を見た後……彼女は振り向いて、元の無邪気な顔を僕に向けたのだった。
空気と水の、境界線。
それはまるで、生と死の境界線でもあるような。
上にいる僕たちは簡単に沈む事は出来るけど、沈んだらもう戻れない。
だから。
きっと、これで良かったんだ。
僕はどこかやり切れない、悲しいような、でも安堵したような……そんなごちゃごちゃと絡み合った毛糸のような気持ちを無理矢理飲み込んで、船を走らせる為の準備を始めた。
――その時だった。
「あれ……?」
あの、地に響くような鐘の音がした。
いや、これは、何かの鳴き声だ。
低いけれども、澄んだ声が水を伝い、海全体に響き渡っている。
「リクくん!! うみ、うみ!」
チィが指さす方向。
薄緑の海水の下を、
果てしなく巨大な、金色の影が泳いでいく。
それはこの海を覆い尽くすんじゃないかと思うほどの、
僕らや船、いや、洞窟ですらも簡単に凌駕してしまう程の、
とてもとても大きな影だった。
まるで現実離れした光景に、チィは興奮し、僕は唖然とする。
全てを覆いつくす大きな金色の影の上を、小さい――それでも僕らからしたら、だいぶ大きないくつもの魚影が泳いでいった。
それは、僕らの船に寄り添って泳いでいたあの魚影たちだ。
そこで僕は、船にくくりつけられたお化け金魚のことを思い出した。
「もしかして、このお化け金魚……子供だったのかな」
僕の呟きを肯定するかのように、悲しげな鐘のような声が響き渡る。
「……ねぇチィちゃん。このお魚、返してあげても良いかな」
「うん、いいよー」
僕は、金魚を繋いでいたロープを切る。
お化け金魚の遺体は、金色に輝く海水へと沈んでいき、次第に陰も見えなくなった。
「……ごめんね。僕らも、生きなきゃならなかったから……」
不思議と波は静かなままで、鐘の音のような低く澄んだ鳴き声だけが響き渡っていた。
「あのこ、おうちかえれるのー?」
「……さぁ。でも、みんなが迎えにきてくれたから、きっと大丈夫だと思うよ」
「そっかー」
巨大な金色の影は、日の沈む方向へと静かに泳いでいき、物悲しげな鐘の音といくつもの魚影を引き連れ、だんだんと遠ざかっていく。
「ねえ、リクくん」
「なに?」
「チィ、おでかけたのしかった! でもね、いっぱいおなかすいちゃった」
チィが僕の手を取る。
「ね、おうち。かえろ?」
「……うん。そうだね」
チィは幼い子供のような、無邪気な顔でにぱっと笑った。
つられて僕も、笑みを見せた。
「僕たちも、帰ろっか」
「うん!」
僕たちは彼らの去っていった方向に背を向けると、船のエンジンをかけた。
◇
集落へ着いたのは、真っ暗になる寸前の事だった。
僕は船のスピードをほぼ最大限に出して走らせ、速さと迫る暗さに半泣きになりながら船を走らせていると、チィが集落の明かりを見つけてくれて、無事に帰ることができた。
集落総出で僕らの捜索が行われていたらしく、おばちゃんには大泣きされ、ふなじいにはこれ以上無いくらいにしこたま怒られて、僕とチィは再び二人で泣いてしまった。
けれど、その夜に食べた夕飯は、いつもよりもどこか温かく感じられて。
チィも同じ気持ちだったのか、いつも以上においしそうに頬張っていて、彼女は僕の視線に気づくと、あの笑顔を見せてくれた。
そして。
あの鐘の音はその日を境に聞こえなくなり、
僕も、鐘の下に立つ夢を見なくなった。