06 ばつかもしれない
その金魚は、僕らの乗る船に匹敵するほど巨大だった。
良く見ると、口の形は大きく横に開いていて、ヒレも端っこになるほど薄くボロボロになっており、黒い眼はぎょろぎょろと激しく辺りを見回している。
「(金魚のお化けだ……)」
明らかに普通ではない金魚の様子に、僕は慄いた。
そもそも、普通の金魚が海水で生きていられるハズがないけれども……。
巨大な金魚は僕を見失ったようで、代わりに船の周りをぐるぐると旋回し始める。
そして突如、その巨体を勢いよくしならせ、船底へと衝突させた。
鈍い音が水中に響き渡り、その衝撃で船の影が乱れる。
「(あの金魚のせいだったんだ!)」
気が立っているのか、その後も船の周りを旋回しながら、時折小突くような動きを繰り返す。
どうやら、僕たちの船を敵か何かだと勘違いしているようだった。
金魚が船から離れた隙を見計らい、僕は急いで船上へと戻ると、チィが縮こまって震えていた。
「チィちゃん! 大丈夫!?」
「う、うん、ふねがね、またどんって、こわかった……」
涙ながらに言うチィは、僕の顔を見るとぽろぽろと泣き始める。
震えるその背をなだめるために撫でようとした瞬間、再び船が大きく揺らされ、チィが悲鳴を上げた。
「あいつ……!」
立ち上がりもう一度水中メガネをつけると、自分の銛を手に取る。
「チィちゃん。何があっても、絶っ対に船から下りないで!! 分かった!?」
「う、うん。リクくんは? どこいくの?」
「大丈夫。すぐに戻るから! 待ってて!」
不安げにうなずくチィの姿を見た後、僕は銛を力強く握りしめ、再び海へと飛び込んだ。
◇
薄緑に濁った水は、透明な海よりも少し生臭い気がした。
先の見えない海水をかき分け、僕は再びお化け金魚と対峙する。
黒く大きなその瞳と目が合った瞬間、体中を水よりも冷たい何かが駆け抜け、逃げ出しそうになる。
でも、僕はそれに逆らうように、銛を握る力をぎゅっと強め、矛先をそいつに向けた。
「(……来い!!!)」
金魚が大きな口を開け、水をかき分けながら勢いよく僕に迫る。
水中では僕ら人間なんて、普通では勝てないのも分かっている。
だけど、僕もこれまで様々な魚を捕ってきた。
「(たとえ大きくても……急所は同じのはず!)」
真っ直ぐ突っ込んでくる金魚を避ける。
巨体によって起こされる水流に体を取られながらも、隙を見て、目の上の部分に銛を突き刺した。
が、身が硬すぎるのか、上手く刺さらない。
金魚は再び、水に紛れ込んで見えなくなり、僕は銛を引き寄せて構える。
――しかし、次に僕の目の前に現れたのは、大きな金魚の尻尾だった。
「!?」
激しい勢いで迫る尻尾を、慌てて銛で防ぐ。
尻尾はいとも簡単に銛をへし折ったが、お蔭で僕自身への衝撃はほとんど搔き消された。
しかし、折れた銛はそのまま海の底へ落ちていってしまう。
「(そんな……銛が!)」
ひとまず距離を置き、息継ぎをする為に海面へ顔を出した。
その瞬間。
何か強い力に足を引っ張られ、思わず声をあげてしまう。
そして僕は、そのまま海中へと引きずり込まれた。
「リクくん!!!」
水の音の合間に、チィの声がする。
僕の右足は、金魚に咥え込まれていた。
僕は精一杯抵抗するが、金魚は容赦の無い強い力で、僕を海の下へと引きずり込んでいく。
「……やだ……また……やだ……!!!」
チィが、何かを必死に叫んでいる。
でも、激しい水の音にかき消され、僕には届かない。
苦しい。痛い。そう声を上げたくても出来ない。
僕が吐く泡が水面へ消えていき、失われていく空気の変わりに流れ込んでくる生臭い塩味が、段々と僕を追いつめる。
そして、その苦しさも次第に薄れ、ぼんやりとした感覚に上書きされていく。
『――リク。面白いのかい?』
薄れる意識の中で、父の声が聞こえた。
父が、飼っていた金魚に餌をあげていた時の、あの時の声だ。
僕はその時、小さい水槽の中で必死に餌にすがりつく金魚たちを笑っていたんだ。
『でもね。生き物達の必死な様を、あまり面白がっちゃいけないよ。みんなみんな、頑張って生きているんだから』
これは、きっと走馬灯ってやつだ。
ぼんやりとそう思った。
『人も強い生物じゃなかった。でも、必死に協力してここまで来られたんだ。だからね、リクも、一緒に居てくれる人たちに感謝するんだよ』
父に、頭を撫でられた気がした。
ふわりと暖かい手を、僕は、確かに感じたような。
――その時。
海を揺らすような轟音に、僕の意識が覚まされる。
目を開けた僕のすぐ横を、閃光のような白い線が走った。
それはすぐ近くで止まり、同時に鈍い音が響く。
直後、足を咥え込んでいた力がスッと抜けていくのを感じ、僕は慌てて抜け出して、金魚の方を向いた。
お化け金魚の頭には、丈夫なロープのついた大きな銛……ふなじいの捕鯨用の銛が、見事に突き刺さっていた。
「……!?」
驚きに呼吸の苦しさを忘れるも、すぐに苦しくなり、水面へと這い上がった。
激しく咳き込みながらも、待ちに待った空気を吸い込んだ。
「リクくん!!!」
名を呼ばれそちらを見ると、船からこちらを見下ろし、瞳からぼろぼろと涙をこぼすチィと目が合った。
「チ、ィ……ちゃ……?」
「リグ、ぐん……じんじゃっだがど、おもっだああ……よがっ、よがっだぁぁ~~!!!」
僕を見下ろしながら大声で泣き出すチィを、波に揺られながら、ただぽかんと見ていた。
◇
白い閃光の正体は、チィの撃った捕鯨砲だった。
彼女は海に引きずられる僕を見て、慌ててそれを操作したらしい。
しかし、件の捕鯨砲には何度も何かが打ち付けられたような跡があり、近くには傷だらけの望遠鏡が転がっている。
おおよそ、正規の方法で発射されたとは思えなかった。
「これ、チィちゃんが撃ったの?」
「うん……チィ、ふなじいがまえうってたの、みたことあってね。でも、チィわかんなくて」
そういえば、以前にチィと二人で、ふなじいが捕鯨砲を取り付けている場面を見たことがあった。
その時、ふなじいが誤って捕鯨砲を落とした衝撃で銛が発射され、それを見て二人で驚いたっけ……。
「もしかして、それで望遠鏡でガンガンってやったとか?」
「うん、たたけば、でるかなって……ごめんなさい……」
叩いたことで銛が発射されたのは、偶然に過ぎない。
けれど、その偶然を引き寄せたのは、チィの必死な努力だ。
擦り傷の出来た彼女の手が、それを物語っていた。
僕は、申し訳なさそうに俯いているチィの頭を、そっと撫でた。
「ううん。怒ってないよ。むしろ……助けてくれて、ありがと」
僕の言葉に、チィの顔がパァっと晴れていった。