03 のこされた
あの日から、時折奇妙な音が聞こえるようになった。
地面の底から、何かがこちらをゴォンゴォンと叩いてくるような音……地震のようだけど地面は揺れなくて、いつも鈍い鐘のような音だけが響いてくる。
その日も、きっとあの音が鳴っていたのだと思う。
だって僕は、大きな鐘の下に立つ夢を見ていたから。
巨大な手が鐘を殴りつけ、その衝撃に耳を塞ぎながら怯える僕。
やがてその手がこちらに気付き、ゆっくりと伸びてくる。そして、動けない僕をぎゅっと掴んできて――。
◇
「――――おっ、きっ、ろー!!!!!」
チィの大絶叫が、夢を見ていた僕の耳をつんざく。
酷い圧迫感に目を開けると、チィが上にのしかかっているのが見えた。
「あさだよー! リークくーん!」
「……チィちゃん、その起こし方やめてよ……」
「なんでー?」
「……重いから」
「チィ、おもくないもん!!」
「いいから、退いてよ」
僕がそう言うと、チィはしぶしぶ僕から退く。その後も、「おもくない!おもくない!」と騒ぐ彼女をよそに、僕は大きく背伸びをした。
二人で軽い身支度をすませて、布団を畳んでいる時――。
「おーい! リク! チィ! おるかー!」
誰かが、僕らを呼ぶ声がした。
「あっ、ふなじいだー!」
チィは窓へ駆け寄り、身を乗り出して大きく手を振る。
僕も窓を覗くと、そこには僕たちが『ふなじい』と呼ぶ老人がいた。
「おーう、チィちゃん! リクはまだおるか!?」
「いるよー!」
「おはよう、ふなじい」
「おお、いたか! 今日は海がダメだ。行くの止めとけよー!」
ふなじいが指さす先……太陽がさんさんと照らす青い空の下で、海は白い波を立てて荒れ狂っていた。
「うん、分かった」
「おうー、じゃあな! 後で飯食いにこいよー!」
そう言い残して、去っていくふなじいの背中に、僕たちは手を振った。
白い波はまるで洗濯機のように、不自然にぐるぐると渦巻いている。
ふなじいいわく、あの日から時々、こうして変な荒れ方をするようになったらしい。
「リク、うみ、おやすみ!?」
「うん」
チィは歓声を上げ、一階へとばたばたと降りていく。
そして、すぐに階段を駆け上り戻ってきた彼女の手には、何冊かの絵本が握られていた。
それはこの家の元々の住人が遺していったものだ。
「じゃあごほんよんで!」
「良いよ。どれがいい?」
「これ!」
チィが指さしたのは、黒猫が表紙に描かれた絵本だ。
「これ、前も読んだやつだけどいいの?」
「うん、これがすきなの!」
「分かったよ」
僕たちは、すすけた畳の上に寝そべると、一緒に絵本を覗き込む。
その絵本は、酷く寒がりの黒猫が冬になる前に拾われて幸せになると言う、良くあるハッピーエンドの物語だった。
前の住民も、きっとお気に入りだったのだろう。セロテープで丁寧に補修された跡が、それを物語っていた。
「名前のない、寒がりの黒猫。寒い寒い冬を越すための、暖かい場所を探して、今日も都会のコンクリートジャングルをとぼとぼと歩いていきます――」
実は、僕はこの絵本が少し苦手だった。
描かれている、もう無い世界の景色。そして時折現れる、クレヨンの拙い落書き。
それらを見ていると、何故か胸の奥に、じんわりと冷たいような痛いようなものが広がっていくような気がするからだ。
でも、そんな僕の気持ちをよそに、チィは夢中になって絵本を覗きこんでいる。
「――こうしてクロと名付けられた黒猫は、暖かい腕の中で、今日も幸せに過ごすのでした。おしまい」
「よかったねー、かわいいねー!」
「そうだね」
ゆらゆら揺らぎ、狂ってしまった世界。
そこに生きる僕たちの命は、きっとこの幸せな黒猫よりも短いだろう。
――けれども、こうしてチィやみんなと一緒に、穏やかなままで終われるなら。
「じゃあねー、つぎはこれ!」
部屋に射す陽光の中で、絵本を掲げて笑うチィの顔を見ながら、そんなことを思った。