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遠く 近く 今ここに
「遠くに行けば忘れられる。」
そう信じて、彼女は国を出た。
いや、生きるために逃げたのだ。
理の塔も、白い石畳も、
夜明け前の祈りの声も、
すべてを背にして。
遠くへ行けば、匂いは変わる。
遠くへ行けば、足裏の感触も変わる。
朝を告げる鐘の音も、別の旋律になる。
だから思い出す回数は減る。
思い出さなければ、
痛みは薄まる。
それを人は、忘却と呼ぶ。
だが。
メイダがリスフェルドへ戻ったとき――
石畳に足を置いた瞬間、分かるのだ。
硬さ。
規則正しく並んだ白。
箒が撫でたあとの、微かな粉塵の匂い。
胸の奥に沈めたはずのものが、
静かに浮かび上がる。
夜明け前の冷気。
塔の影。
磨き上げられた武具の金属音。
忘れてなどいなかった。
呼び出していなかっただけだと、
身体が先に理解する。
遠くへ行くことは、
記憶を殺すことではない。
ただ、眠らせるだけ。
リスフェルドの空気は、
眠りを許さない。
理の国は、
足裏から過去を思い出させる。
そして彼女は、悟る。
忘却とは距離ではなく、
触れていない時間のことだったのだと。
石畳は、何も言わない。
だが――
踏みしめた者だけが知る。
記憶は、いつでもそこにある!
カタリーナが叫ぶ。
私はもどった!
リスフェルドに!




