抱きしめられたい
ヴェイルの腕が伸びた。
――抱殺《やさしい圧》。
抱く形で、殺しに来る。
細いのに、骨の位置だけが正確な腕。
触れたら終わる、圧の軌道。
パパタローは避けるのではない
入った。
「犬に手を嚙まれたら、をの手を押し込んだれ」
普通なら腕に潰される。
だが、パパタローは一歩、深く入った。
胸が触れる距離。
相手の重心が、腕の内側に沈む瞬間。
抱きしめた。
いや、抱きしめたというより、組み付いた。
プロレスのクリンチみたいに。
胸と胸がぶつかり、息が詰まる距離。
右腕で背中を抱え込み、
左腕で肘を“曲がらない角度”へ固める。
抱擁の形を、拘束に変える。
「……っ」
ヴェイルの顔が笑いでも怒りでもない、喜びで火照った。
抱かれたい。抱きしめてほしい!
その願いが、身体の先まで駆け巡り、固まってしまった。
(動きがとまった?)
パパタローは、感情を入れない。
ヴェイルを抱えたまま、半身で回転する。
ヴェイルの“死角”へ入り、
彼女の腕の軌道を、壁へ流しただけだ。
リディアが床を叩く。
ガン。
通路が震え、
抱擁檻の角が歪む。
クララの粉が舞う。
白が線になり、
糸の束ね目が浮く。
「今だ!」
エリスの声が落ちた。
ソフィアの布が、二人の上からふわりとかかる。
匂いが薄れ、視線が切れる。
その布の陰で――
マリアの指先が胸元へ滑り込み、掴んだ。
ペンダントの鎖。
小さな音。
ヴェイルの身体から、糸の“張り”が抜けた。
抜けたのに、
腕の中の温度だけが残る。
ヴェイルは、震えるように笑った。
(……抱いてくれた)
パパタローは即座に離れた。
離れ方が、冷たい。
優しさの続きが来ないと告げる距離。
それが、ヴェイルに怒りにもなった。
「……っ」
踏み込む。
腕が伸びパパタローを掴むはずだった。
が、何も出ない。
胸元が、軽い。
鎖があるのに、核がない。
ペンダントを抜かれていた。
反射で“抱殺《やさしい圧》”を起動しようとして、失敗する。
骨の位置だけが正確だった腕は、張りを失って、ただ長い。
圧の軌道が定まらない。
抱けば殺せるはずの形が、抱けない形に戻っていく。
マリアの手にペンダントが握られていた。
「それを返せ……!スサノロキ様より賜ったものだ!!」
引き寄せようとする。
締め落とそうとする。
檻を閉じようとする。
できない。
糸が張れない。
鎖の呼吸が合わない。
抱擁檻が、角からほどけていく。
「……ほどけちゃう……」
声が、初めて弱い。
次の瞬間。
通路の空気が、ふわりと甘く濁った。
――残香幕《あまい余韻》。
粉の白が、霞に溶ける。
視界がにじみ、距離感が狂う。
「吸うな。目を閉じろ!」
エリスが即座に命じる。
「追うな。救出を続行!」
その命令に、全員が従った。
従った瞬間、
ヴェイルは一歩、後ろへ下がった。
壁の影へ。
抱きしめる形のまま、
抱けない女は、抱擁の外側へ退いた。
エナメルの艶が、闇に消える。
(……抱きしめて、ほしかった)
胸の奥で、幼い声がした。
名前も、理由も、覚えていない。
ただ――腕の中だけが、無かった。
だから彼女は、
腕を作った。
糸で。
鎖で。
「優しさ」の形を借りて。
抱きしめてほしい。
その不足が、
抱擁を罰に変える。
最後に聞こえたのは、
怒りでも嘲りでもなく――
「……また、ね」
抱きしめられたい側の、約束の声だった。
一方――甘味屋本陣。
保護された元奴隷たちが、疲れた顔のまま座っていた。
安堵だけが、まだ消えない。
壁際には毛布に包まれて横たわる者もいる。
水。白湯。焼き菓子の欠片。
戦場の残り香と、甘味屋の匂いが同居していた。
エリザベスが入口を見ている。
第三班が外を固めている。
強敵はいない――はずだった。
だからこそ、目が届かない隙間ができる。
刃が走った。
狙いは、強い者じゃない。
盾を構えるエリザベスでも、
槍を持つ第三班でもない。
抱えられた子ども――その小さな背中だった。
「……ッ!」
カリンの息が止まる。
腕の中の子が、きゅ、と縮む。
間に合わない。
その瞬間――
「やめろ!!」
甘味屋マルコが、カウンターの内側から飛び出した。
白いエプロン。
粉だらけの腕。
武器なんて、ない。
だが両手に抱えていたのは――
親父の形見の焼き台。
厚い鉄の板だった。
マルコは迷わず、それを差し出した。
ガンッ!!
刃が鉄を叩き、火花が散る。
残党の手首が痺れる。
それでももう一度、突く。
ガンッ!!
二度目の衝撃で、鉄が嫌な音を立てた。
ミシ――。
ほんの小さな、ひび。
マルコの顔が歪む。
「……っ、ああぁ……!」
喉の奥から、嘆きが漏れた。
怒りじゃない。
悔しさでもない。
形見が傷つく音に、反射で出た声だ。
残党が笑う。
「ざまぁ――」
言い終える前に。
ムニンが、粉袋を抱えたまま跳ねた。
バフッ。
白い粉が残党の顔面を覆った。
目に入る。鼻に入る。息が詰まる。
「ぐっ、げほっ……!」
残党がよろけた、その瞬間。
マルコは焼き台を“振らない”。
叩かない。
落とす。
ずん、と鉄の重みを床に落とし、
刃の手首だけを潰す角度で押さえ込む。
「……っ!」
短剣が、床に落ちた。
カラン。
残党が膝をつく。
エリザベスが一歩入った。
戦闘ではない。処理だ。
拘束具が、手首にかかる。
マルコは焼き台を抱え直した。
鉄板のひびは、確かに残っている。
目の奥が熱くなる。
「……親父の形見だぞ……」
呟きは、誰にも届かない声だった。
カリンが息を吐きながら、子どもを抱きしめ直す。
「大丈夫だよ。大丈夫」
子どもは、まだ震えている。
でも――泣いていない。
代わりに、マルコの方を見た。
粉まみれのエプロン。
ひびの入った鉄板。
眉間にしわを寄せた、店主の顔。
子どもは、小さく頭を下げた。
言葉はない。
けれど、確かに「ありがとう」の形だった。
その視線に、マルコの嘆きが一瞬だけ止まる。
ひびの入った鉄板を見下ろし、
次に、子どもの無事な手を見て――
マルコは、鼻で息を吐いた。
「……まぁ、いいか」
小さな声。
誰に聞かせるでもない。
そしてすぐ、いつもの調子が戻る。
「よくねぇけどな!!」
声を張り上げた。
「床も! 粉も! 形見も!!
高くついたぞ、おい!!」
カリンが、呆れた顔で笑いかける。
ムニンが粉袋を抱えたまま、にやっとする。
「店主、いい顔にゃ」
「うるせぇ!」
マルコは叫ぶ。
だが、その声には――さっきより少しだけ、震えがなかった。
地下から、ロープがきしむ音が返ってくる。
帰ってくる音だ。
マルコは焼き台を抱えたまま、穴の縁を睨んだ。
「……ほら、さっさと帰ってこい。
床も焼き台も……直してもらうからな」
文句みたいで、祈りみたいな声だった。
(まぁ、親父も役立ったな…。)
甘味屋《アイナリマンドゥ屋》は、
粉と熱と、ひびの入った形見を抱えたまま――
本陣として、まだ立っていた。




