優しく抱きしめてあげる
「地下より侵入。
四人一組で降下します」
メイドたちが一斉に動いた。
……本来なら、ここで号令を補助し、全体の“角度”を揃える者がいる。
だが――いない。
カテリーナは今、メイダの元領域へ向かっている。別働隊。
ここにいないという事実が、逆にこの場の緊張を濃くした。
エリスは、それを顔に出さない。
「第一班。
私、アビゲイル、リディア、クララ」
「第二班。
パパタロー、マリア、ソフィア、アン」
「第三班。
ジュリア、ヘレン、イザベル、エレノア」
「本陣防衛。
エリザベス。カリン、ムニン、店主殿と共に」
「……俺、やっぱ入ってんのかよ」
マルコが渋い顔をする。
「入っています」
エリスは即答した。
「ただし戦闘は不要。
ここで“人を守る仕事”をしてください」
命令ではなく、依頼に聞こえた。
マルコは舌打ちしながらも、目を逸らせなかった。
「……ったく」
ムニンがカウンターに乗り、粉袋を抱えたまま言う。
「粉、撒くにゃ。道になるにゃ」
「粉は商品だ!」
マルコが叫ぶ。
「補償する」
エリスの声は短いが、迷いがない。
「補償“以上”に」
パパタローが横から付け足す。
「お前は黙れ!!」
マルコのツッコミが、甘味屋最後の平和だった。
ロープが下ろされる。
穴の縁に結ばれた結び目は、メイドたちの手で瞬く間に補強された。
床は壊すのに、結び目は神業。
世界は理不尽である。
第一班、降下。
――シュッ。
ロープを滑る音。
ブーツが縁を蹴り、闇へ吸い込まれていく。
穴から立ちのぼる冷気が、甘い匂いを削っていく。
「くっさ……!」
カリンが鼻を押さえる。
「人間は弱いにゃ」
ムニンが平然と呟く。
「猫も弱いだろ、毛が細いんだから!」
カリンが言い返す。
「毛は強さじゃないにゃ。心にゃ」
「語るな!!」
マルコが叫ぶ。
「店主殿、語られているのは品位です」
クララが、降下直前に淡々と言った。
「品位も床も穴だらけだよ!!」
第二班、降下の準備。
パパタローは腰の短剣の留め具を確かめ、粉袋をひとつ掴んだ。
「道しるべ担当、俺もやる」
「粉を?」
カリンが目を細める。
「粉を。戻る道が無いと、人は壊れる」
その言い方が、妙に重かった。
マリアは背のクレイモアの位置を直し、刃を布で包み直す。
ソフィアは布と縫糸の束を抱え、結び目を見て頷いた。
アンは長槍の穂先を覆う布を締め、息を整える。
――闇で光るものは、敵にとっても目印になる。
パパタローが穴を覗き込む。
暗い。
底の見えない闇。
だが、闇は“ただの闇”じゃない。
遠くで金属が擦れる音。
水滴の規則的な落下音。
そして――かすかな呻き声。
人の声だ。
生きている。
生きているが、もう半分は壊れている。
「……いるな」
パパタローが呟く。
穴の下から、エリスの声が届く。
「第二班、降りてください。急ぎます」
「了解」
パパタローはロープに手をかけた。
「甘味屋の続きは帰ってからだ」
「帰ってきたら床直せよ!!」
マルコが叫ぶ。
「いや、それはメイドが直す」
「そこはお前がやれぇ!!」
第二班、降下。
――ヒュッ。
闇が、甘い匂いを飲み込んでいく。
地下。
石壁は湿り、苔が光を吸っている。
足元を流れる水は黒く、浅いのに底が見えない。
エリスが指を一本立てた。
“静かに”。
リディアはメイスを脇に抱え、ランタンに薄い布を被せて光を落とす。
治療具の包みが、歩くたびに小さく鳴りそうになるのを指で押さえた。
アビゲイルはハルバードを低く構えた。
刃先を“突き”にせず、“払う”角度に固定する。
今この場で一番“切れる刃”だ。
そして刃は、放っておくと余計なものまで断つ。
クララはフルートを指先で確かめ、息を喉の奥に溜めた。
音は武器だ。
だが同時に、こちらの位置も晒す。
パパタローは粉をひとつまみ、床に落とした。
白が闇に沈む。
それだけで、道が“戻れる道”に変わる。
エリスが囁く。
「この先。
奴隷を“見張り”に使っている可能性が高い」
「見張りが、奴隷?」
アンが小さく息を飲む。長槍の柄を握る手が、わずかに強くなる。
「逃げたら家族を殺す。
従ったら生かすと言う。
そういう鎖で繋ぐ」
水が、ぽちゃん、と落ちた。
その音のあと――
「……来ます」
リディアが微笑みを消した。
足音。
ぬちゃ、ぬちゃ、と湿った床を引きずる音。
そして、チェーンの音。
エリスが片手を上げた。
“止まれ”。
闇の向こうから、少年が現れた。
首輪。
鎖。
手には錆びた短槍。
目が死んでいる。
だが――槍の穂先だけは、こちらを正確に向いていた。
少年の背後。
二人。
三人。
皆、首輪。
皆、鎖。
皆、武器。
そして、その奥で――
笑い声がした。
軽い。
甘味屋の冗談みたいに軽い。
でも、甘くない。
「いい子だ。そうそう」
誰かが言った。
「来た客を、ちゃんと刺せ」
アビゲイルの指が、柄を強く握る。
一歩でも踏み込めば、血で終わる。
エリスは彼女を見ずに、囁いた。
「……非殺傷で制圧。
救出が第一」
「……了解」
アビゲイルの声は、怒りで擦れていた。
パパタローは息を吐く。
粉袋を握る手が、ほんの少しだけ震えた。
救うとは、戦うより難しい。
少年が、一歩踏み出す。
鎖が鳴る。
槍が振り上がる。
エリスが、静かに告げた。
「――第一接触。開始」
エリスの声は、冷たかった。
冷たくしないと、戻ってしまう。檻の中に。
鎖が鳴った。
湿った床を擦る音がした。
少年は、振り上げた槍を――ためらいもなく、こちらへ落としにきた。
(……同じだ)
檻。
首輪。
命令。
“刺せ”と言われれば刺す。
“噛め”と言われれば噛む。
その結果が自分の命を延ばすと、身体が覚えてしまう。
エリスは一歩、前に出た。
刃は抜かない。
視線を落とす。
表情を消す。
――魅力を消す。
あの裏道で生き延びるために選び取った形。
だが今は、違う。
「止まれ」
声は低く、感情を乗せない。
命令の形をした、救助だ。
少年の槍が、わずかに揺れた。
揺れたのは腕ではない。
命令の“糸”が引かれたからだ。
闇の奥から、笑い声がまたした。
「おいおい。止まるなよ」
「刺せって言ってるだろ?」
「ほら、いけ。いけいけ」
エリスの喉の奥が、ひゅっと狭くなる。
(似ている)
あの檻を蹴った声。
“死んだ目がたまんねーな”と吐き捨てた声。
同じ人間かどうかは分からない。
でも、同じ種類だ。
命を数えて、年輪だけが歪に残った種類。
そして――さらに奥。
甘く、湿った声が重なった。
「寒いでしょう?」
「……だから」
「抱きしめてあげる」
闇の奥で、笑いがころころ転がった。
「あららららららららあらああらららら。
私のかわいい子達を連れ去ってしまうのね~。
悪い子にはおしおきしなくちゃね」
湿った声が、地下の壁にまとわりつく。
甘味屋の甘さとは違う。舌の裏に残る“甘さ”だ。
「そしたら、優しく抱きしめてあげるわ!」
――ヴェイル。
艶光りするエナメルの輪郭が、闇の中で一瞬だけ浮いた。
胸元のペンダントが、どくん、と脈打つ。
その拍に合わせて、首輪の金具がきしみ、鎖が震えた。
「……糸役が来たな」
パパタローが、粉袋を握り直す。
エリスは息を止める。
声だけで、身体が檻へ戻りそうになる。
だから、声を冷たくする。
「全員、距離を取れ。斬るな。撃つな。
まず、糸を見つける」
アビゲイルが噛み殺した声で返す。
「……了解」
リディアはメイスを前へ滑らせ、盾のように構えた。
「近づかせません。叩いて止めます」
クララはフルートを唇に添え、短い息を吸う。
「音で“ぶれ”を作ります。槍筋を外す」
アンは長槍を横に置き、通路の幅を塞ぐ。
「ここより先は通しません」
「来ます」
リディアが言い切った。
次の瞬間。
鎖が一斉に鳴った。
見張りの少年たちが、同じ角度で踏み出す。
同じ呼吸で槍を上げる。
……操られている。
ヴェイルの笑いが、壁の向こうで弾む。
「そうそう。いい子」
「そのまま、ぎゅってしてあげて」
首輪が“呼吸”した。
ぎゅ、と締まる音がした。
少年の目が、空になる。
槍の切っ先だけが、こちらを正確に刺した。
エリスは低く言う。
「粉」
パパタローがひとつまみ、床へ撒いた。
白が舞う。
粉が落ちる瞬間、闇が線になった。
見えた。
鎖から、首輪から、手首から――細い影が伸びている。
糸だ。
“抱擁の腕”みたいな細い糸。
そして、それは全部――奥へ、一本に束ねられている。
「……そこか」
エリスが視線を上げた。
碧い瞳が、闇の一点を刺す。
「んふふ」
ヴェイルが喜ぶ。
「見つけたの? えらいえらい」
その声と同時に、糸が張った。
――絡抱糸。
少年の身体が、糸に引かれて跳ねた。
槍の軌道が“殺し”に最適化される。
躊躇が消える。
恐怖が消える。
ただ、命令だけが残る。
「……非殺傷」
エリスが言い切る。
アビゲイルが歯を食いしばる。
「……っ」
「右三。槍を止める。折るな、外す」
「左二。鎖を踏んで距離を奪う」
「アン、ライン維持。刺させるな」
アンが槍を一歩前へ。穂先ではない。柄で押す。
「了解」
クララが、短い音をひとつ落とした。
フルートの息が、槍のリズムを乱す。
僅かな“よろめき”が生まれた。
アビゲイルがハルバードの柄で槍を叩き落とす。
ガン。
壁に刺さる。動きが止まる。
リディアはメイスで床を叩いた。
鈍い震えが通路を走り、足が浮く。
立て直した瞬間だけ、攻撃が遅れる。
――だが、止まらない。
首輪が、ぎゅ、ともう一段締まった。
少年の身体が“無理やり”動く。
ヴェイルの声が、楽しげに響く。
「いやん。止めないで」
「抱きしめるのって、逃げると苦しいのよ?」
――拒絶縛《きれいに抱けない子》。
抵抗した瞬間に締まる。
拒絶した瞬間に締まる。
抱擁を、罰に変える技だ。
エリスの喉が、また狭くなる。
嫌な記憶が、皮膚を裏返す。
だが、エリスは逃げない。
逃げたら、また檻だ。
「首輪を外す。壊すな。音を立てるな。
鍵役、前へ」
マリアが背のクレイモアを通路の壁に預け、腰の小袋から金属片を取り出した。
砂糖細工の針――甘味屋の道具だ。
「……いけます」
ソフィアが布を広げ、マリアの手元を覆う。
アンが槍で“視線の壁”を作る。
リディアがメイスの影で間合いを守る。
カチ。
ひとつ、首輪が外れた。
少年の膝が崩れる。
目が戻りかける。
――その瞬間。
ヴェイルが、ひどく寂しそうに笑った。
「……あら。
それ、ほどけちゃうの?」
ペンダントが、どくん、どくん、と早く脈打った。
――心音同調。
首輪の糸が脈に合わせて振動し、外れかけた意識を、また命令へ引き戻す。
少年の目が、また空になる。
「……っ」
パパタローが舌打ちする。
ヴェイルの声が、少しだけ低くなった。
「わたし、嫌われたのかしら」
「抱いてあげたいだけなのに」
その言葉と同時に――冷気が走った。
――体温簒奪《ぬくもり泥棒》。
糸が触れた肌から、熱が抜ける。
指がかじかみ、膝が笑う。
戦意じゃない。体温が奪われる。
「寒っ……!」
アンが息を吐いた。
「そう。寒いでしょう?」
ヴェイルが嬉しそうに言う。
「だから、わたしが――」
糸が増えた。
――擬抱幻《だれかの腕》。
闇の中で、“誰かの腕”が見えた。
助けに来た腕。
抱きしめてくれる腕。
一瞬だけ、脳が錯覚する。救われた、と。
その瞬間、首輪の糸が締まる。
抱擁が罠になる。
エリスは声を落とした。
「見るな。聞くな。匂いを吸うな」
リディアが頷く。
「布を。鼻と口を覆って」
ソフィアが布を投げ、全員の口元を覆えるだけの端布を回す。
クララが粉をもう一度撒く。白い粉が舞う。糸の輪郭が、さらに浮く。
「見える」
クララが言う。
「結節がある。束ねてる場所」
パパタローが、粉の線を目で追う。
奥だ。
闇の奥の、笑い声の位置。
「……本体は、そこ」
アビゲイルが一歩出る。
ハルバードの刃が、血の温度を持つ。
それでも、エリスは言う。
「殺すな」
アビゲイルの喉が鳴った。
「……了解です」
ヴェイルが、くすりと笑う。
「だめよ。殺さないなんて」
「優しくないわ」
そして――湿った壁の影から、彼女が現れた。
背後から、抱きしめるように。
艶光りするエナメル。
胸元のペンダントが脈動している。
腕が、細いのに、異様に長く見えた。
「ねえ」
ヴェイルが囁く。
「抱きしめてほしいのに、誰も抱いてくれないの」
「だから――わたしが抱くの」
彼女の腕が伸びる。
――抱殺術《やさしい圧》。
抱擁の形で、殺しに来る。
エリスは半歩だけ前へ出た。
刃は抜かない。視線を落とす。表情を消す。
――魅力を消す。
そして冷たい声で言った。
「ヴェイル。
あなたの“抱擁”は、救いじゃない」
一瞬だけ、ヴェイルの笑みが揺れた。
その揺れを、パパタローが拾う。
「……拒絶に弱いタイプだな」
わざと、口角を上げて見せる。
あの裏道でやった、“買う側の顔”だ。
「ほら。こっちだ」
「抱きしめたきゃ、抱けよ。空っぽのままな」
ヴェイルの目が、ぎらりと濁った。
「……ひどい」
「そんなこと言う子は――」
糸が一斉に跳ねた。
――供物抱き《ハグ・シールド》。
操られた少年たちが、いっせいに前へ出る。
抱きつく距離で、盾になる。
「っ……!」
アビゲイルが止まる。
斬れない。撃てない。近づけない。
エリスが即座に命令を切り替える。
「粉を撒け。足を見る。鎖の長さを読む。
首輪を外す。外した者を後ろへ」
マリアが走る。ソフィアが手元を隠す。アンが槍で壁を作る。
リディアがメイスで間合いを守る。クララが音で“ぶれ”を作る。
甘味屋の道具が、戦場の道具になる。
カチ。
カチ。
カチ。
首輪が外れるたび、“かわいい子達”の目に、色が戻る。
ヴェイルの笑いが、少しずつ浅くなる。
「……あら。ほどけちゃう」
エリスは一歩、さらに前へ出た。
「抱きしめるなら、奪うな」
碧い瞳が、闇を正面から見る。
「――救え」
闇の奥で、ペンダントがどくん、と鳴った。
次の抱擁が来る。




