背の楔(くさび)
ボン!
次が来る。
一体、二体――違う、もう三体。
バルーンアートじみた四脚の風船魔獣が、
獲物を追うこと自体を楽しむペットのように、
キュッ、キュッという足音と共に重力を感じさせない不自然な高さまでバウンドし
ヴェントラの馬車へ跳ねてきた。
軽くて安っぽく、それでいて神経を逆撫でする高音で
横腹に、直撃。
「ぎゃああっ! いや、いやいやっ!」
反射的に手綱を引きながら、
ヴェントラは進行方向を見る。
――飛んでいる。
背筋が凍る。
「まずい! ここは」
言い切る前に。
ボン、ボン、ボン。
「うわっ!」
衝撃。
弾けた瞬間、ピンクの液体が夜へ散り、
視界を汚し、
音を残し――
次の瞬間には、戻る。
同じ場所に。
同じ高さに。
同じ距離で。
増えたのではない。
終わっていないだけだ。
新手が、同じ場所に張り付く。
車輪に絡む。
幌に噛みつく。
御者台へ跳ね上がる。
「――ちっ!」
カテリーナが踏み替え、
ウォーハンマーを低く振り、魔獣を引き落とした。
ボン。
一体潰れる。
空気と粘液。
止まらない。
右――
ボン。
左――
ボン。
背後――
同時に三体。
「多すぎますわね!」
※※※※ ※※※※
遠くから、
ただ一つの視線が、それを見物していた。
モルグレイブだった。
岩陰に腰を下ろし、足をぶらつかせながら、
ポケットに手を突っ込む。
――ビスケットが一枚。
取り出して、
軽く、指で叩く。
パチン。
もう一枚。
「お」
もう一度。
パチン。
増える。
「増える、増える」
口笛まじりに、鼻歌をうたう。
♪ たたけば増える
こわしても増える
へらへら笑って
また戻る~
「ええ歌やなぁ」
視線の先では、
馬車が跳ね、
風船魔獣が弾け、
人が必死に逃げている。
モルグレイブは、
ビスケットを一枚、口に放り込む。
「ほれほれ!」
パチン。
また増えた。
「壊しても無駄やでぇ。
遊びは、
参加してくれる人がおらんと、
おもろうならへん」
くつくつと笑いながら、
視線だけを投げる。
風船魔獣が、
まるでそれに応えるように、
一斉に跳ねた。
「ええなぁ……」
「逃げるのも、
叫ぶのも、
音を立てるのも――
ぜんぶ、ええ燃料や」
最後の一枚を、
わざと落として、踏み砕く。
くつくつと笑いながら、
モルグレイブは、まだ見ていた。
「目が合った? ……まさか」
白手袋のまま、
指が一本、立った。
その瞬間。
――雷が落ちた。
モルグレイブの足元ではない。
彼が腰を下ろしていた岩壁。
影に身を預け、
“見物席”として選んだ場所。
ドンッ!!
閃光。
爆音。
岩が砕け、
影が吹き飛び、
その音が――空へ抜けた。
谷の奥から、重い羽音が返ってくる。
低い共鳴。
空気が、押し返される。
安全だった距離が――消える。
遅れて、衝撃波。
谷が、揺れた。
モルグレイブの笑いが、
ほんの一瞬だけ、途切れる。
「……お?」
熱風が、頬をかすめた。
カテリーナは、見ていなかった。
※※※※ ※※※※
振るほど増える。
割るほど距離が詰まる。
馬車が跳ねる。
軸が悲鳴を上げる。
ヴェントラが手綱を引き絞る。
「来る、来る……!」
前からも来た。
「こんな所で騒いだら――黙示竜に見つかる!」
「……竜?」
問い返す間もない。
道脇の闇から、
風船犬が跳び込んだ。
屋根。
御者台。
荷台。
ボン、ボン、ボン、ボン!
音が重なる。
カテリーナは振らない。
叩かない。
押す。
体当たりで一体を落とし、
足で一体を蹴り飛ばす。
だが――
車輪に絡んだ一体が、膨らんだ。
重い。
異様な重さ。
「――まずい!」
ギシッ!!
馬車が傾く。
横。
さらに、横。
背後で、風船魔獣が一斉に――
引かれた。
「ッ――!」
違う。
上だ。
「見つかった!」
空が裂ける。
黙示竜が、急降下した。
狙いは馬車か、風船か。
判断する間もない。
風圧だけで、世界が潰れた。
回転。
※
「はい、さいならー」
遠くで、
モルグレイブが軽く手を振っていた。
※
次の瞬間――
木が砕け、
金属が鳴り、
視界が反転する。
前方――
何もない。
崖。
落ちる。
馬車ごと。
風船ごと。
即刻、
空気が変わった。
下から吹き上げる風。
熱。
影。
巨大な影が、下を横切る。
カテリーナは跳んだ。
落下。
衝撃。
硬い。
熱い。
鱗。
背中。
落下が、止まる。
風船魔獣たちは、そのまま下へ。
ボン、ボン、ボン――
弾ける音が、闇に沈む。
カテリーナは必死に掴む。
――異物。
刺さっている。
黙示竜の背。
片翼の根元に、黒く打ち込まれた楔。
竜が、咆哮をあげた。
空中で、カテリーナはウォーハンマーを捨てた。
手を伸ばしたのは、竜の肉を貫く黒い楔。 落下。重力。加速する絶望。 そのすべてを「支点」に変え、彼女は竜の背で、己の全体重を楔へと叩きつけた。
――ギィ、ィィィィン!!
金属が悲鳴を上げ、古い契約が物理的に砕け散る。 噴き出した熱い血が、彼女の冷静な視界を真紅に染め上げた。
「……お片付けの時間は、終わりですわ」
失速。
巨体が、重力に引かれる。
再び、落ちる。
血が飛び散り、白手袋が汚れ、制服が裂ける……。
カテリーナを赤く染めた。
このままでは、叩きつけられる。
「――落ちるっ!!」
意識が戻ったのは、崖底が迫る寸前だった。
翼が開く。
空気を掴む。
ギリギリで軌道が変わり、巨体が滑り込むように減速する。
――ドンッ。
地面が揺れ、砂と岩が跳ねた。
黙示竜は、崖底に着地した。
荒い呼吸。
低い唸り。
カテリーナは、背中で膝をついた。
荒い呼吸。
低く、地鳴りのような唸り。
カテリーナは、竜の背で膝をついたまま、動かなかった。
立たない。
武器も構えない。
ただ、落ちた血を、白手袋で拭う。
そのとき――
声がした。
空気を震わせるでもなく、
耳に届く音でもなく、
意味だけが直接、届く声。
「――背中の女よ」
カテリーナは顔を上げない。
「我が楔を、よくぞ抜いた」
黙示竜の首が、わずかに動く。
振り返らない。
見下ろさない。
「古の契約は、これで終わった」
風が、止まる。
「人は、恐れた。
だから、我を縫い止めた」
「黙示を遅らせ、
結論を先送りにし、
その代償として――
地を、捨てた」
低い声に、怒りはない。
責める色もない。
事実の列挙だけ。
「楔は、木の契約。
破られぬ代わりに、
誰も救わぬ契約だった」
カテリーナは、短く答える。
「存じていますわ」
竜の呼吸が、一瞬だけ、止まる。
「ならば問う」
「なぜ、抜いた」
理由を語る余地はない。
彼女は、言い切る。
「止める理由が、ありませんでした」
沈黙。
「救いは、求めぬか」
「求めません」
「力は」
「不要です」
「恐れは」
「……ありますわ」
その答えに、
黙示竜は――初めて、動きを止めた。
「よかろう」
「ならば、新たに問う」
竜の背に、熱が満ちる。
しかし、暴力ではない。
「我は、示す者」
「お前は、選ぶ者」
「結果は、常に残る」
「それでも――
契約するか」
カテリーナは、武器に手を伸ばさない。
ただ、背筋を伸ばす。
「はい」
それだけ。
誓詞もない。
血の杯もない。
「よかろう」
「ならば、聞け」
「我は、
お前が選び続ける限り、
黙示を、言葉として示そう」
「逃げぬ限り、
先送りせぬ限り、
我は――裁定を急がぬ」
風が、静かに流れ出す。
「これより、
我は自由」
「そして、
お前は――責任を負う」
カテリーナは、うなずく。
「我が名は、アポクリュファ。
だが、我は名を呼ばれることを望まず。
名は、理解したつもりになるための器だ。
理解されぬまま示される方が、真実は長く残る。」
「承知しましたわ」
黙示竜は、ゆっくりと翼を畳んだ。
――契約は、
交わされた。
木でも、鉄でもない。
選択と責任だけで結ばれた契約が。
その背で、
竜の血で染まったメイドは、静かに立ち上がった。
「え? 何があったの……?」
かすれた声。
ヴェントラが、ゆっくりと目を開く。
視界が揺れ、空があり、岩があり――
そして。
竜がいた。
黙示竜の巨体が、崖底に伏している。
折りたたまれた翼。
低く響く鼻息が生暖かい風を起こした。
「…」
ヴェントラは、言葉を失ったまま、
ただ瞬きを一つ。
「……あっ」
気を失った。




